芽吹かんと2

 サンジェロスで出される食事は質素である。この日は穀物のポタージュに根野菜のサラダ。白身の肉と果実を使ったデザートが、順に出される予定となっていた。

 レーセンは嫌っていたが、ファティスはこういった献立を豪華絢爛な馳走より遥かに好んでいた。「人間ができている」とはファストゥルフの弁であったが単に好みの問題で、さらにいうならば、ヘイレンにいた頃も彼女は似たような食事を摂っていたのだから、必然そういったものが舌に合うのである。質実剛健な気風は両国とも似通っていた。しかし、この国の王子であるレーセンはそれが気に入らぬようだった。


「もう少し味を濃くできんか。これでは湯を飲んでいるようだ」


 彼が食事に文句を付けるのはもはや恒例であった。ファストゥルフは実子の晒す恥に辟易していたが、馬耳東風に語る口なしと咳払いをする程度に落ち着き、それでは場の空気が悪いと、ラムスが話を仕切り直すまでが最近の様式となっていた。


「そういえばファティス様。最近よく街へお出かけのようですが、どこぞにお気に召した場所でもありました?」


 ラムスはファティスに向かって話をする時決まって彼女の胸元を見ていた。だがそれは邪な気持ちがあるわけではなく、ただ目を見て話すと照れてしまうだけであり、ファティスの方も「慎ましい方」という解釈をしていたのだが、ラムスが他の人間と話すときはしっかりと目を合わせる事を知らなかった。


「はい……あの、そんなところです」


 ファティスは歯切れの悪い返事をした。「自分で生きる計画を立てている」と、言うのは簡単であるが、彼女自身がそれを無謀と思っている節があったし、夢を語るような羞恥もあってか口をまごつかせていた。それを見たラムスは表情を硬くした。よもや男のところに。とでも考えているのだろうが彼にそれを口にする勇気はない。ファティスもラムスも、互いに秘めたる胸の内に遅れて沈黙してしまったものだから、食卓の空気には更なる淀みが生じ、食器と食具が当たる音だけがその場に流れる。が、そんなものを気にもせず、レーセンがファティスの代わりにラムスに答えるのであった。


「なんだ弟。知らぬのか? なんでもファティスは、店を出したいと町中を駆け回っているらしいぞ。くだらぬ事だ。サンジェロスにおれば、憂もなく暮らせるというのに」


「店?」


 訝しむラムスの問いに、レーセンは特に感情を込めず返答する。


「おうとも。最近此奴がうろちょろとしているものだから民に仔細を訪ねたのだ。すると、大通りの部屋貸しの何軒かに、茶屋をやりたいから貸料がいくらか教えてほしい。と聞いているそうだ。まったく、王族が商いとは、酔狂よな」


 調子よく話すレーセンであったが、他の三人の様子は違っていた。。ファストゥルフとラムスは互いに顔を見合わせ、ファティスは口を開けたり開いたりして動揺している。それを見て、さしものレーセンも下手を打ったと思ったのか、舌打ちをして黙してしまった。彼は不遜不敵で奔放であったが、他人の秘密を笑いの種なするような下衆ではなかった。単純に、ファティスの行いが秘めるような事ではないと考えただけなのである。


「ファティス様は、今のお話は……」


「……はい。レーセン様の仰る通りでございます」


 なぜ。という疑問をラムスが問う前にファティスは思いの丈を述べた。本意ではない告白に彼女は呟くようにして、自らの力で生きていきたいという事を、一人の人間として暮らしたいという事を力なく答え、最後にこう付け加えた。


「私は、今まで自分の足で立った事がありませんでした……」


 短い時間であったがファティスは初めてヘイレンの外に住む人間の生き様を見てきた。カリス。ムルフ。ロセンツォ。ファストゥルフ。レーセン。ラムス。娼館の女達とそれを買う客。エタリペアやローマニアの住民……一人一人が違い、一人一人に人生がある。国と民草を捨て生き伸び、尚も生を全うせんとするファティスは、善悪あれど、人の生きる世界に命の輝きを垣間見た。その輝きは彼女にないものであった。王女としての生き方しか彼女は知らなかった。その彼女が今。一人の人間として、朧げながら道を見つけた。時の奔流に流され続けていた人間が初めて自らの意思で針路を定めた。その決断を笑うのは、いかにレーセンでも憚られたようでいつものような不敵な笑みは漏れなかった。それとは対照的にファティスは、沈黙の後に赤く染めたい顔で微笑を作り食事を続けた。この日、この話しに言及する者はおらず、ラムスもファストゥルフも妙にそわりとした会話をするだけであった。







 それからしばらく。ファティスはやはり街に出て部屋貸しの所を回っていた。彼女は今日まで自分に部屋を貸してくれる家主を探し東奔西走していたのだが良い返事はまだなかった。それどころか、ファティスの話を聞くや皆難色を示すのである。この暗雲は決して偶然ではない。「何処の誰だか知らんが妙な女が部屋を借りたがっている」と、ローマニアの商人界隈に広がっていたのだ。

 真っ当な商売人は素性の分からない物を忌避する。若く美しい女が「店をやりたい」と尋ねてくれば、彼らが警戒をするのは無理からぬことである。こんな娘が部屋を借りたいと言ってくるのは余程の事情があるに違いない。と考えるのだ。故に色々とファティスに聞くのであるが、彼女が正体を隠したまま答えることのできる問いなどそうあるはずもなく、口を訊けば訊く程信頼を失っていくのであった。それでも食い下がるファティスを諦めさせる為に、部屋貸し達は相場以上の金をふっかけていたのである。

 ファティスが部屋貸し達の計略を見破る事は困難であった。なにせ人を謀る事を知らぬのだからそれも当然。生まれと育ちが、ファティスに猜疑の心を持つことを困難にしていた。それは人の世の上で生きるのには少しばかり難儀な質である。しかし、欲望と疑心に塗れた矮小な生にどれほどの価値があろうか。どれほどの美があろうか。人生とは、何を成したか。より、どのように生きたか。という事により貴賎が決められる。ファティスの生はまさしく貴い様であった。そしてその品格が、事態を好転に導くのである。


「ファティス様」


 下を見て歩いていたファティスは自分を呼ぶ声に顔を上げた。すると一瞬、彼女の瞳が見開き小さな吐息が漏れた。目の前にいるのは恰幅がよく、愛嬌のある顔立ちの中年男。そう、彼は……


「ロセンツォさん……」


「いや、会えてよかった。お元気そうでなによりです」


 ロセンツォは首を垂れファティスに礼した。相も変わらず、完璧で、可笑しな所作であった。


「ロセンツォさんも変わりないようで……本日はお散歩でございますか?」


 荷物を持たぬロセンツォにファティスは聞いた。行商で生計を立てているロセンツォが手ぶらなのを見てそう思ったのだろう。しかし、ロセンツォは彼女の問いに被りをふったのであった。


「いいえ。実は、恐れながらファティス様にお話がありまして、昨日からローマニア中をお探ししていたのです」


「私に、話し……?」


「はい、しかし、ここでは落ち着きません。懇意にしている店があります故、そちらへ……」


「……分かりました。ただ、一つお願いしたい事が」


「何でございましょうか」


「改まった話し方をやめていただけませんか? 後、ファティス様。というのも」


 ファティスの要求にロセンツォは苦笑いしたのだが、すぐに気を取り直し「それではお嬢さん。参りましょう」と、冗談のように畏まって跪いたのであった。


「よろしくお願い致します。ロセンツォさん」

 

 かつて恋していた男に見せるファティスの笑顔に曇りはなかった。彼女が完全にロセンツォへの想いを断ち切ったかどうかは定かではない。しかし、いずれにせよ、その笑顔は美しく、輝いていた。

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