芽吹かんと4

 笑顔のファティスはすっかりと上機嫌となり冷めた茶を勢いよく飲み干し、中腰となってロセンツォに詰め寄った。


「それでは早くその部屋がある所へ参りましょう!」


 待ちきれないといった様子でファティスは早口になりロセンツォを急かした。だが、ロセンツォの方は大いに落ち着き払い、既に空になっているカップを机の端に避け間を置いた。ファティスその様子を訝しんでいたが、ロセンツォはまるで気にせず、ふ。っと、小さく息を吸い込み、ファティスに告げたのであった。


「ここです」


「……は?」


 一瞬の静寂の後、ファティスは間抜けな声を出し、わざとかと思うくらい大げさに困惑した。それはおよそ格式高い血を流す人間のする顔ではなく、ロセンツォは目を逸らして咳払いをし、自らの醜態に気付いたファティスは肩を小さくして座り直した。


「ですから、ここです。この茶屋です」


 改めて向かい合う二人。ロセンツォの声は大真面目であった。引き締まっている顔は未だ綻ばない。日に焼け、脂と汗と、埃が付いた顔で目を泳がせているファティスに向かい、しずと彼女を見据えている。ファティスはロセンツォのこの表情を一度目にした事がある。それは、サンサッカで、彼女が彼に夜這いを掛けた時に見せた、娘に言い聞かせる父親のような表情であった。

 ロセンツォに気圧されたファティスは黙ってしまった。声を出したくとも、萎縮してしまって出せないのだろう。身体を強張らせ、すっかり消沈してしまっている。だが、そんなファティスを見ても御構い無しにロセンツォは話を続けるのであった。


「ここは少し前まで夫婦でやっていたのですが、旦那さんが亡くなられてしまいまして、それからはあのご老体一人で商売をしているんです。しかし、歳をとるとどうにも身体が言う事が効かないらしくてですね。ぼちぼちと店を畳もうかと思案していたそうなんですが、いざ処理しようとすると、どうにも移った情が捨てれず困ったと言うんです。それで、どうにかここで同じように茶屋をやってくれる人はいないだろうか。と、私が相談を受けていたわけなんですよ。しかしながらここはどうにも立地が悪いし、そもそもローマニアの人間は儲けの少ない商売を嫌います。そんなものですから、私も頭を抱えていたんですよ。何せここは私が若い頃から馴染みにしている店でして、そこのご老体にも世話になっていますから、なんとかしたいと思っていたんです。そこに、お嬢さんの話を聞いたものですから、今回提案させてもらったというわけでございます」


 切なげに話すロセンツォの話を聞いて、ファティスは奥に佇む老婆を見た。彼女はもうずっと立っている事も辛いのか、粗末な木の椅子に座りギシリと音を立てている。刻まれた皺の深さと白くあせた頭髪が、時代と、近く訪れるであろう終幕を物語っていた。老婆はファティスと目が合うと、身体を少し揺らして目を細めた。汚れのない、真っ直ぐな瞳であった。

 ファティスは老婆の眼差しを受け、小さき息を吸い、姿勢を正す。それは、老婆に対する感謝と敬意の現れのように思えた。


「……ロセンツォさん。この度は素晴らしいお話、ありがとうございます」


 決意を固めたように両の翡翠をロセンツォに向けるファティスは、老婆にも聞こえるよう、大きく高く、美しい声を響かせた。


「私……ここをお借りいたします!」


 その言葉を聞いたロセンツォはじっとファティスを直視し「分かりました」と言って立ち上がって、巨体をゆすりながら老婆の元へ向かった。


「エトルさん。あちらのお嬢さんが、ここでお店をやりたいと」


 老婆はエトルという名前らしかった。エトルはロセンツォの言葉一つ一つに、和かに頷いている。


「そうですか。それは、結構なことで……」


 ロセンツォと一通り言葉を交わしたエトルは、難儀そうに立ち上がりファティスの前へやってきて、先までロセンツォが座っていた椅子に腰をかけた。彼女の身体に肉はなく、皮は弛み、細く骨ばった痩躯であったが、瞳の光は曇りなく、頭髪はよく整えられ、衣装は嫌味なく清潔で、出で立ちには気品があった。


「話はロセンツォさんから聞いています。色々大変だと思いますが、しっかりね」


 エトルは優しくファティスに語りかけたが、それ以上言葉をかけなかった。決してファティスを値踏みするような事も身の上も聞こうとはしなかった。また、ロセンツォからも、「お店をやりたい人がいる」とだけ聞いて、それ以外、他に何も知ろうとしなかった。


「貴方が仰るのであれば、信用に足る人なのでしょう。その方がよろしければ、是非とも」


 ロセンツォの人柄をエトルは分かっていた。商売には確かに信用が必要であるが、商人は信用してはならない。必要なのは、どうやって幾ら稼いだか。という実績と評価である。しかし、ロセンツォは貧しい人間達に施し、時には採算を計算に入れない商売もしていた。商人としては三流もいいところである。時に偽善と蔑まれ、時に無能と見下されようとも、ロセンツォは商売と言えぬような取引をし続けていた。

 ロセンツォが商才を発揮できず一行商人の立場に甘んじているのは、彼が持って生まれ、育まれてきた人徳なのである。

 エトルはそれを知っていた。彼の愚直なほどの慈愛の精神を理解していた。そして、その精神こそ人の世にあって得難いものだとし、老婆はロセンツォの言葉を無条件で信じたのである。


「貴女、働いた経験がないんですってねぇ。大丈夫。しばらくお店を続けるから、その間、私の後ろについてゆっくり覚えてなさい。もちろん、お給料もだすからね」


 老婆はニコリと微笑みを浮かべた。長く根を張った樹木のような、暖かい空気を纏った微笑であった。


「はい……はい! ありがとうございます! 


 ファティスは向けられた笑顔に応えようとした。しかし、形作られたのは紅涙の相であった。「泣く事はないですよ」と声をかける老婆に、嗚咽混じりで「申し訳ありません」と言う事しかできず、ファティスの哭声はしじまを突くのであった。どうしたものかと目を合わせる老婆とロセンツォ。一寸の間を置き、エトルはファティスに声を掛けた。


「名前……決めましょうか」


「……名前……ですか?」


「えぇ。この店の、貴女のお店の名前を決めましょう。何かいい案はありますか?」


「あの、貴女が営んでいらしたお店ですので……そちらのお名前を使った方が……よろしいかと……」


 突然の問いかけに目と鼻を赤くしたファティスがそう答えると、エトルは「駄目よ」と視線を落とすファティスの頭を撫でた。


「私のお店はもう終わりました。だから、名前が同じじゃ、駄目なんです いいですか? これからは、貴女がお店を育てていかなければいけないの。だから、決めましょう。新しい、貴女のお店の名前を」


 厳しく、優しく、叱るようで、諭すような老婆の言葉。それは、まるでファティスが背負った咎を、放棄した責務を赦すような声であった。

 ファティスは少し考え、「分かりました」と顔を上げた。


「このお店の……私の……お店の名前は……」







 この日から、ファティスは新たな一歩を、自らの足で歩む人生を進み始める事になる。ヘイレンが落ち、両親が死に、耐え難き辱めを受けながらも生きてきた彼女の生に、希望というページが書き加えられたのだ。彼女が綴る物語は、まだ、始まったばかり……

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