王子2

 指された城を見ながらファティスは不動となった。明らかに気でも狂ったのかという目付きである。

 サンジェロス城はローマニアの象徴である。意匠は簡素であるが気品高く無駄のない名城で、群青と赤土色で彩られている。其に住まうはローマニアの王とその近縁であり、ファティスと同じく、いや、それ以上に尊い血筋である。男は確かに平民ではなさそうだが、王の血筋にしては些か奔放で、それがファティスに不信感を与えているようだったのだが、男はそんな事を毛ほども気にしていないといった態度を見せるのであった。


「しばし待て。今、馬を呼ぶ」


 男は懐から笛を取り出し一息吹いた。すると、馬の蹄と車輪の音が何処からか近づいて来る。馬車であった。男の笛を合図に、二頭引きの馬車がやって来て、二人の前に止まったのであった。


「よし。では行くぞ」


 馬車に乗り込んだ男はファティスを引きずり込んだ。それと同時に鞭がしなり、二頭の馬がゆるりと走り出す。内装は絢爛で、揺れもあまりない。男は御者と何やら話していたがファティスは一連の出来事についていけず放心していた。馬車はひたすらに進んでいく。城に向かって一直の軌道を描き、ついには正門を抜け、委細滞りなくサンジェロスへ入城したのであった。


「あの、えっと……貴方は、いったいどういった方なのでしょうか……せめて、お名前だけでも……」


「俺の名などどうでもいいと言っただろう。が、ここまで来たのだ。態々名乗るまでもなくじきに分かる。それより、降りる準備をせよ。そろそろ停車場だ」


 男の言う通り馬車は程なく停車した。間近で見るサンジェロス城は厳かであり、また圧倒的な壮大さを誇っている。ヘイレンの城とまるで違う造りに、ファティスは感嘆の溜息を吐き胸を押さえた。


「お帰りなさいませ」


 馬車から降りると停留所には品のある初老が立っており二人を礼した。


「うむ。ご苦労。今宵は城で夕食を取る。用意させろ」


 男は当たり前のように、初老に対し指図をした。


「かしこまりました。しかしながら只今、ファストゥルフ陛下がお召し上がりになっております故、お食事は別室の方がよろしいかと……」


「カルロ。貴様は俺の客に恥をかかせるのか」


 男の鋭い言葉がカルロと呼ばれた初老に向けられた。カルロは「失礼を致しました」と跪く。目の前で繰り広げられるこのやり取りをファティスは見ているだけしかできなかった。入る余地などありはしない。

 カルロは間違いなくサンジェロスに仕えている人間であろう事が分かる。それも、使用人の中でも上位に位置している身なりと所作であった。それを使役し、あまつさえ国王との食事に同席する権限のあるこの男は果たして何者であろうか。いや、ファティスは薄々感づいているようではあったが、その答えに対し信じられないといった風に思いつめた顔をしている。それもそうだろう。この不遜な男がよもや彼女の想像通りの人間だとしたら、将来ローマニアは、この遊び人が……


「それでは、食堂へ」


 カルロ先導のもと、男とファティスは回廊を渡る。火の灯った燭台が影を作り、神話が描かれている天井画の一つ一つが明々と浮き出ている。ファティスが無言で歩を進めるのは、男とカルロが二人で喋っているのもあったのだが、何かしらの想念を抱いているのを、火に照らされる瞳が物語っていた。語らずとも彼女の心の内は明らかで、それは、彼女が生まれ落ちたヘイレンへの望郷であった。今この場で、ファティスをファティスだと知る者は誰もいない。ファティスは決して家柄や血筋を鼻にかけるような事はなかったが、他国の城に入城したとあれば、それ相応の振る舞いをしなければならないと教えられてきた。しかし、果たして今の自分が王女として招かれるべきなのであろうかと、彼女は考えているのだ。


「暗いな」


 突然の声にファティスは垂れていた頭を上げた。見ると男が流し目を向けていた。


「そのくせ、随分と堂々と立ち振る舞う。気に入らんな」


 ファティスが返答できずまごついていると、皮肉な笑みを浮かべ「ま、いいがな」と男は前を向き直した。ファティスは悩んではいたものの、ファティスの身体に染み付いた王家の教養が不躾を許さなかったのだ。馬車から降りてここまで、一切のたじろぎや緊張を見せなかったファティスはまさに客人として相応しかったのだが、知らぬ世界を見せようとしていた男としては面白くない。

 その後三人に会話はなかった。コツン。コツン。と、足音が響き城内に延々と反響していたのだが、なんの前触れもなく、それは止んだのだった。目の前には上等な扉が設えてある。


「お食事のところ、失礼致します」


 カルロがノックをし先に中に入った。すると中から、重厚感のある声が聞こえた。


「どうした。貴様が食事中に来るなど珍しい」


「レーセン様と、そのお客さまがお戻りになられまして、陛下と食卓を共にしたいと仰られております。いかがなさいますか?」


 レーセンという名が聞こえた際、ファティスはやはりという顔をした。彼女はその名をよく知っている。なぜなら、亡き母と父が、「ローマニアにはお前と同じ歳の王子がいる」としきりに言って聞かせてきたからである。そう。ファティスを誘い、連れ回し、サンジェロス城まで招いたのは紛れもなく、彼女が幼少の頃より聞かされてきた、ローマニアの王子、レーセンでだったのである。


「息子が父親と食卓を囲むのにどうして許可がいる! 退がれカルロ!」


 レーセンは食卓に入り声を荒げた。一人廊下に取り残されたファティスは、声を聞くことしかできなかった。


「そう煩くするな。貴様の勝手に付き合わされるカルロの身にもなってみろ」


「此奴は融通が利きませぬ。自由を愛すローマニアの民とは思えませんな」


「知った風な事を……まぁいい。座れ。レーセン。カルロ。ご苦労だった。今日は休め」


「かしこまりました。それでは、私はこれにて」


 退いたカルロが廊下に出ると、ファティスは彼と目が合った。カルロは礼を示し、「ごゆるりと」と一言残し、元来た回廊へと消えていった。


「おい! いつまで立っているつもりだ! 早く来い!」


 レーセンはファティスを粗暴に呼びつけた。ファティスは、既に自分を手中に収めたかのような物言いに、憤慨というか辟易している様子であったが、このまま間抜けに立ち尽くしていても仕方がないと思ったのだろう。ついと扉を押し、王子レーセンと、ローマニア国王。ファストゥルフのいる場所へと足を踏み入れたのであった。


「……此度は急なご訪問にも関わらず、名高きローマニアの当代統治者であられるファストゥルフ国王陛下に拝謁する栄誉を賜りまして、恐悦至極でございます」


「……」


 ファティスが跪いた先にいたのは、ローマニアの国色である貝紫色の礼装に身を包んだ、威厳のある壮年であった。レーセンと同じく褐色と黒髪であったが受ける印象はまるで異なり、レーセンが軽薄な美男子とするならば、彼の王は武人のような無骨さを持った剛健であった。


「……面を上げよ」


 ファストゥルフは伏せるファティスにそう命じた。しかし、ファティスは顔を上げる事ができなかった。それは、ファストゥルフが彼女の素性に気が付いているこを悟ってしまったからである。事情はどうあれ、ファティスはレーセンに客として招かれたのである。それはつまり、パルセイアへの挑発とも取れる行いである。ファティスはそれを良しとしなかった。自らが原因で。悪戯に戦果の火種を生み出したくないと思っていたのである。だが……


「……まったく。薄情になりましたな。私は一度貴女に会った事があるのだが、その時は笑顔を向けてくれましたぞ。ファティス王女」


 ファストゥルフは、そんな事は関係ないとばかりに破顔した。ファティスは跪いたまま震え、レーセンは、ただ冷淡に事の次第を見ているのであった。

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