王子1

 喧騒。雑踏。人と物。ローマニアの入り口から見える世界は乱雑で混沌に溢れていた。

 ローマニアはサンジェロス城を中心に円形に広がっている。用水路があり整備された道があり、人々の着るものは平民であっても洗練されていて壮麗であった。ファティスはそんな中において、自らが纏っているのが繕い崩れたボロだったのを思い出したのか、恥ずかしそうに身を細めて歩いたのだった。






 さて。ローマニアに来たものの、ファティスにアテなどなかった。統治するファストゥルフ王はファティスの存在を知ってはいようが、まさかサンジェロス城に行って「私はヘイレンの王女です」と言うわけにもいかない。どこかしらで女給か何かの募集はしているだろうが、世間を知らぬファティスが働き口を見つけられるかどうかは怪しい話であり、また、身なり悪く素性も知れぬ人間を雇うところがあるのかも未知なる話であった。


「どうしましょうか……」


 ともかく休もうと広間のベンチに座ったファティスは不安の溜息を吐いた。娼館で稼いだ金にまだ余裕はあったが、そればかりを頼りにしていてはすぐに足が出てしまう。それを計算できぬほどファティスは愚かではなかったが、この事態を打破できるほどの明瞭さは持ち合わせてはいなかった。彼女の周りでは音楽や話し声がしきりに鳴り続けていたが、それすら耳に入ってこない様子で、纏ったボロの解れを無心で嬲りながらふさぎ込んでいたのであった。これから先、いかにして暮らそうか。果たして自分に何ができるのか。そも、どうやって住む場所を見つけるのか。考えれば考えるほど顔は暗くなっていく。

 途方に暮れている矢先、突如、茂みから物音がした。何事かとその方向を見ると、ファティスは小さな悲鳴を上げた。





「見ない顔だな」


 茂みから現れたのは若い男であった。

 褐色気味の肌は健康的で、瑞々しい黒の頭髪と瞳が印象的な美男子である。整った顔立ちからは余裕と野心を感じさせる力強さを放、ち佇まいは優雅で一目で両家の血筋だと分かる人物ではあったが、服装は洒落っ気のない軽装である。無論、質は上等であったが……


「良くない顔をしている。貴様さては異人だな? 駄目だな辛気臭いのは。いかに美麗であってもそれでは男を喜ばせられん。覚えておけ。ローマニアの男は血の色が濃い。陰気は好かん。それとその服だ。なんだそれは。薄汚いぞ。もう少し顔に合った服を着ろ。せっかく美しく産まれたのだ。粗末にするな」


 まくし立てる男にファティスは腹を立てる暇もないようであった。初対面の相手にここまで言う人間を彼女は知らないし、そも威圧的な態度に慣れていないのである。下手をしたら自分が貶されていることさえ理解していないかもしれない。


「あの、えっと……」


「俺は愚鈍も好かん。はっきりと申せ」


 有無を言わせぬ態度にファティスは少し怯んだが、一息呑み、十分に落ち着いてからて口を開いた。


「失礼ですが、お名前を……」


「……」


 ファティスの間の抜けた問いに男はしばし含みを持たせた後哄笑を響かせた。腹の底から湧き出たような声は豪胆であり、度量の深さが伺える。

 男の器というのは笑いに出る。卑屈に笑う者はもれなく小者であり、下卑た微笑を浮かべる者は例外なくて矮小なのだ。するとこの男は実に快活で気持ちのいい性格をしていると見える。物言いは独尊著しいが、悪意なく明快で嫌味がない。ファティスはそんな男にたじろいでしまっていたが、男の方はお構いなしにファティスに詰め寄り、優しく腕掴んで彼女を起立させたのであった。


「俺の名などはどうでもいい。それより女。貴様、よく見ると思った以上に美しいではないか。それだけにそのなり、気に食わん。来い」


「え、あの、どこへ」


 男はファティスの腕を掴んだまま広間を抜け大通りを進み、その途中で「新しい女ですか」とか「今度は一段と美人ですね」とか周りに冷やかされていた。顔に相応しく、随分と浮世に名を馳せている様子である。また、男連中がこぞって囃し立てる中、女の方は敵意ある視線をファティスに向けていた。しかし誰一人として男を咎める者はいなかった。この不思議な光景にファティスは気付かなかったのは、誰しもがそれを日常としているからであろう。ローマニアの人々は、風が吹けば草木が揺れるように、この男の常習を認知しているのであった。









「似合うじゃないか。やはり良い女は良い物を纏わねばならん」


「あ、はい。ありがとうございます……」


 ファティスが連れてこられたのは大きな仕立屋であった。そこで身包みを剥がされ女中に身体を洗われ、あれよあれよと服を着せられたのであった。ファティスが「お金が……」と呟くと、男は「つまらん事を」と有無を言わせなかった。ファティスが纏っていたのはムルフの娼館で繕った継ぎ接ぎだらけの自作衣装であった為、特に思い入れがあるわけではないようだったが、「前の服は捨てよ」と承諾もとらず仕立屋に指図する男を見て眉をひそめた。ひそめたが、文句を口にする暇もなく、再び男に腕を引かれ「行くぞ」と拉致されてしまったのであった。


 その後、男は様々な場所へとファティスを連れて回った。華やかな街並みや自然豊かな公園(他国から植林された熱に強い木々が生い茂っていた)など多様で、男はその都度ローマニアの全てを知っているのかと思うほど詳しくファティスに聞かせたのであった。


「どうだローマニアは。素晴らしいだろう?」


 男は最後に決まってそう言った。自らを誇るように、まるで自分の国のように、胸を張って。

 男が何者かは分からぬが、ファティスは存外楽しそうではあった。最初は警戒し、不安な顔をしていたが、男の覇気に絆されたのか、終いには自身も笑い、遊んでいたのである。「楽しいです」と戯れるファティスはいつしか時を忘れていた。これからどうするかも決めていない少女は落ちつつある陽に気が付き、しまった。と自らの迂闊を悔いるのであった。


「何を浮かない顔をしている。よもや帰路の情景を夢想しているわけではあるまいな? 俺の隣にいるのだ。くだらぬ妄想に花咲かせることは許さん。さぁ、次だ。食事に行くぞ」


 男は高笑いを上げ再びファティスの腕を取った。が、ファティスはそれを拒み「申し訳ございませんが」と断りを入れた。


「貴様……俺の誘いを無碍にするのか?」


「私、こちに来たばかりでまだ身を寄せる場所もも決まっていないのです。失礼だとは重々承知しておりますが、ここでお暇させていただきます。本日はお誘いいただきまして、誠にありがとうございました」


 ファティスは丁寧に別れを告げたが男は一向に腕を離す気配がなかった。しばらく冷淡な目付きでファティスを眺め苦渋を募らせていたのだが、突然、ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、やはり高笑いを上げて言い放ったのであった。


「ならば城に来い。俺は貴様を気に入った。特別に俺の寝所に身を預ける事を許す」


「……話しが見えないのですが……私は、お暇したいと申し上げたはずです」


「暇なら、事が済んだ後俺の隣で取るがいい。何心配はいらん。俺は紳士的でな。貴様も存分に愉しませてやる」


 ファティスの顔が嫌悪と侮蔑に変わった。高圧的な男を一瞥する目は冷たく、汚物を見るようであった。しかし男は知らぬ存ぜぬという態度でファティスの腕を離し、都の中心に座す、ローマニアの象徴を指差し声高に叫んだのであった。


「さぁ行くぞ! 我が城へ!」


 ファティスは放言ともとれる言動に呆れていたが、男は大真面目であった。それは陽が落ちきる直前の事で、灯が点り始めるサンジェロス城は幻想的な光を放ち、都市に夜を伝えている頃の出来事である。

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