道行けば7
「どうしてですか!」
涙を流しながらファティスは叫んだ。崩れた顔に娼婦の影は消えていた。いや、女の形さえ保っていなかった。彼女はもはや、ロセンツォの前で女としていられなかった。
「……貴女がそんな事をしちゃいけません。貴女には、そんな真似は似合いません」
ロセンツォの口調は緩やかになっていたがその意思は本物であるに違いなかった。そうでなければ、あの魔女のようなファティスの誘惑を退けられるはずがないのだから。それほどまでに、夜を纏ったファティスは美しく、ロセンツォの精神は清廉であった。
「似合わない……似合わないだなんて、なんで……なんでそんな事が貴方に分かるんですか!」
ファティスの怒号がこだまるする
怒り。そう、怒りである。ファティスに現れた感情は怒りであった。その怒りはロセンツォに向けられていたが、内心は自身に対してのやり場のない嫌悪であろう。それは、唾棄すべき浅ましき男達に嬲られていたあの時のような格好をしている自分に。その男達とロセンツォを同列に位置づけしてしまった自分に。そして、まるで父親のように自分を窘めようとするロセンツォに対しての嫌悪である。
しかし、ロセンツォが放った次の言葉がファティスから怒りを取り除かせるのであった。ファティスが聞く耳を持たせるのに、十分な力を発揮する言葉。それは……
「分かりますよお嬢さん。いえ、王女、ファティス様」
動揺がファティスを過ぎった。何かを言おうとするが声が出ず、唇がふると震えている。彼女はロセンツォに名乗っていない。なぜ。どうして彼が自分の名を知っているのか。頭を巡らせ、考えた。が。どれだけ遡ってもファティスの記憶の中にロセンツォの顔は浮かんでこないようだった。
「……どうして、私の名を…………」
ファティスの問いに、ロセンツォは答える。
「私は、ヘイレンの城に茶葉をよく運んでおりました。その折に、だいぶ昔なのですが、王妃様……アルトノ様に、いつも美味しいお茶をありがとうと、労いの言葉を賜りました。その時目にしたのが、アルトノ様に付き添うファティス様でございます。歳の頃は三つと、その時伺いました。丁度、私の娘と同じです。御姿を拝見したのはその一度きりなのですが、ヘイレンに赴けば必ずファティス様のお話をきいたものです。彼の方の美しさは御身の煌びやかさだけに非ず。御心の麗しさ他に並ぶ者なし。と」
「……」
「サンサッカの茶屋で、ファティス様が商人達と話をしているのを聞いて、失礼ながら後をつけさせていただきました。あまりに慣れていない御姿だった為、恐れながら御身を案じた次第でございます。ただ、申し訳ないのですが、ここまでは私、貴方様がファティス様だと知らずにおりました。あまりに大きく、また美しくなられておりましたので……気付いたのは、ファティス様がウォールフに襲われた後の事です。意識を失われたファティス様を目の当たりにして、よもやとは思いましたが、目覚められた両眼の翡翠で確信いたしました。しかしながらヘイレンがあの様な事となり、ファティス様単身であられる様子から忍ばれていると、勝手ながらに合点して、失礼ながら知らぬふりをしてしまいました。この無礼、ただいまを持ってお詫び申し上げます」
ロセンツォが語る中で、ファティスはまた涙を流した。しかしこの涙は怒りや悲しみではない。一度しか顔を見たことのない自分に、こうまで施してくれる人間がいる。その心の清さに彼女は涙したのだ。そして同時に、その清らかさを踏みにじらんとした自身を恥じたのか、ファティスはロセンツォの身体から降り、彼の前にひれ伏したのであった。
「お止めください!」
ロセンツォは飛び起き、膝をつくファティスの身を支えた。しかし、ファティスはかぶりを振ってそれを解く。
「私は……私は貴方の心を裏切ってしまいました……こんな私は、貴方と対等でいられる資格がございません……」
「ファティス様。どうかご自愛ください。お身体もお心もまだ癒えていないご様子。此度の件はそれ故のお気の迷いでございます故、どうかお忘れになって下さい!」
ロセンツォの必死の懇願にファティスは状態を起こし、愛した男を見た。
「……ロセンツォさん。恥を重ねるようで申し訳ないのですが、私のお話を、聞いていただけないでしょうか」
「私でよろしければ」
「ありがとうございます……」
ファティスはロセンツォに、ここに至るまでの経緯を話した。王と王妃の死。エルディーンの裏切り。アンセイスの忠義。そして、自らの、落ち延びてからのできごとを……聞いているロセンツォの肩は次第に震え始め、遂には堪えきれぬ嗚咽を漏らした。彼は没落の王女に掛け値のない悲涙を流したのであった。
「ファティス様……本当に……」
お互いの流す雫が闇夜の中で床に滴る。光りのない世界に煌めいた光沢。それに照らされる二人の姿に不純はなかった。純真と善意がそこにはあった。
確かに。ファティスは一度は悪徳の闇に呑まれその心を失落させてしまったが、彼女の心は再び光に包まれたのであった。人生とは確かに悲劇である。退屈の延長線上にある、死よりも恐ろしい怠惰でしかない。しかし、その中で光り輝く善意に対し、果たして無意味だと、愚かな事だと言い切ることができるであろうか。人の生は、辛く、悲しく、厳しく、そして、その先にある無に消えてゆく。だが、それでも美醜の差は歴然と生じる。儚く散る命の連鎖の中で、煌々と輝く人間の意思は宇宙に広がる星のようで、暗雲たる世界に広がる白銀の灯火を、人は希望というのであった。
乾いた大地を踏み歩く。遠方にそびえるヴァイヴォルはやはり遠方に座し、大地に根を張り天に頂きを伸ばしているのであったが、街道には人がまばらに現れ始め、それはいつしか個から集となり、集は団となって、そうして最後に現れたのが、大都市ローマニアであった。厚く高い壁に囲まれていながらその中で一番流れる喧騒が響いてくる。人々の声ももちろんであるが、楽器や歌声まで耳に入る頓狂ぶりである。
「凄い……」
ヘイレンとは大きく異なる様相に、ファティスは街に入っていないのにも関わらず圧倒されてしまっていた。
「これがローマニアです。如何ですか? よろしければ、ご案内致しますが?」
「あら。人の誘いには乗らないのに、ご自分はお誘いになるんですね」
ファティスの冗談は下卑たものであったが、どこか憎めない品があった。ロセンツォはこれは参ったといった顔をしていたが、その内に真面目な顔となりファティスと向き合った。
「ファティス様。いいですか。どうか、ご自愛ください。身寄りがないのであれば、私の家にご案内致しますので、どうか、ご自分を大切にしてください」
ロセンツォの言葉にファティスは首を振った。
「いらぬ心配です。私とて王家の女。生きる術は如何程もありましょう。それより、貴方は早く奥方様の元へとお戻りなさい」
「……しからばお言葉に甘えさせていただきます。何用か御座いましたら、何なりとお尋ねください。それでは道中失礼を致しましたが、どうか、ご壮健で……」
ファティスの言はアルトノのようであった。気高く生きる身となれば、心に魔が生じぬと思ったのだろう。彼女が想い描いた理想の自分を演じれば、後ろ髪を引かれる事なくロセンツォを見送れると思ったのだろう。しかし、ロセンツォを目で追い、外で待っていた彼の妻と熱い抱擁を交わすのを見ると、一粒の涙がファティスの頬を伝ったのであった。
「さよなら……」
ヴァイヴォルから流れる風が、ファティスの涙を攫った。遠方からの使者は早くも異国の洗礼を受けたわけであったがともかくとして、ファティスは大都ローマニアに辿り着いたのであった。一人、都の入り口まで歩く少女がこの地でどのように生きるのだろうか。それを知っているものは、まだ誰もいない。
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