道行けば6
陽の沈まぬうちに取った宿は閑散としており老婆が一人宿番をしているだけだった。
老婆の耳は随分と遠く、そのせいでロセンツォが宿泊の手続きをするのに手こずっていたのだが、ファティスは彼に任せきりでまったく動こうとはしなかった。いや、動けなかったというのが正確だろう。恐らく。今彼女の胸に巣食っている痛みは、以前よりも強く激しく、心臓が脈打つ度に押し寄せているのだから。その痛みの理由すら分からぬファティスは、ただじっと耐えるしかないのであった。
「立てますか?」
茫然自失となっているファティスの前に、ようやく老婆と意思疎通できたロセンツォがやって来てそう尋ねた。力なく「はい」と答えるファティスであったが、一向に立ち上がる気配はない。目の前に失意を与えた相手がいる事さえも分からぬといった風である。これにはロセンツォもどうしようもないようで、どうしたものかと困った顔を作り、ファティスの隣に腰かける事しかできないようであった。
窓からは西陽が射し木に囲まれた空間を黄昏色に染めている。無言で肩を並べる二人は微動だにもせず、アルダインによって石に変えられた二柱の神の成れの果てであるアルサッカとサンサッカの二つの峠ようであった。ファティスにはこのまま幾光年の時を経て、風化しながら消えていくような危うさを秘めていた。儚さは美しさの一種であるが、ファティスがその美を持つのはまだ尚早であるし、何より似合わない。彼女の心には天空の広大と大地の慈愛がなければならなかった。それこそが彼女の持つ、天性の美徳なのだから。
程なくして。耳の遠い老婆が居眠りをする中ファティスは傷を確かめるように胸の前に手をやって突然として立ち上がった。あまりに突然の出来事にロセンツォは手荷物を落としてしまった。しかし、それよりも彼が驚いたのは……
「ロセンツォさん。申し訳ありませんでした。私、すっかり良くなってしまいました。それで、はしたないのですけれど、少しお腹が空いてしまいまして。そろそろ、お食事に致しませんか?」
先までとは明らかに違うファティスの快活は不気味ささえあった。それは本来彼女が持つ透き通るような美しさではなく、昨晩見せた、冥府の化粧を施した魔性の妖艶であった。
「は、はい……」
ロセンツォはファティスに呑まれていた。目の前の妖女から目をそらす事ができなかった。深き闇に包まれたような大柄の男の喉は干からびたように渇いた音を吹かしている。ぜぇぜぇと立てる息は恐怖しているようで、魅了されているようにも思えた。ファティスから発せられある芳香は、それはまるで、まるで……
風が星の輝きを吹き消す暗黒の夜。虫の声すら枯れ果てたのか世界は無音であった。しかしロセンツォの部屋にあるベッドは、彼の巨体を支えるのに難儀しているようでギシリと鈍い音を立てていた。悲鳴にも似たその音のせいかロセンツォの眠りは浅く、何度も眼を開いては、暗闇の中をキョロキョロと見渡した後再び瞼を閉じるという事を繰り返していたのだが、ある時ベッドの軋み以外の音を感知し、彼の眠気は何処かへ消え失せてしまったのであった。さすが兵役を勤めただけの事はあり、彼の両耳にははっきりと、軽く重い足音が自らに迫って来ているのを察知したようである。また、その主が誰なのかも当然……
ギィと立て付けの悪い扉が開かれた。怪しげな、脳に溶け込むような芳香を発しながら、足音はゆっくりと近付いてくる。だがロセンツォは動かない。そのままじっと、ベッドの中で身体を固めている。平常を装っているようだが、意図して鎮めた息が緊張を隠せていない。ロセンツォは手負いの獣が如く静かにその場に止まって、突然の来訪者を無言にて迎えたのであった。
「ロセンツォさん……」
一息。
甘い吐息が部屋に満ちる。艶のこもった甘美なる声がロセンツォを金縛りとした。しずとしてベッドに横たわっている男の心音は跳ね上がり、整っていた呼吸はいつの間にか荒々しく吹き荒んでいる。恐怖と自我の葛藤。この腹の出た善良なる男の心中はまさしくそれであろう。なぜならば、彼の部屋にやって来た、美しくも恐ろしい捕食者の正体が、しばしの旅路を共に歩んだ天真とした少女、ファティスであったのだから。
「ロセンツォさん……」
「……」
ファティスは再びロセンツォの名を呼んだ。だが返事はない。ロセンツォはしきりに荒い息を吐き続けるだけである。
「ロセンツォさん……」
ファティスは歩みを止めなかった。近付く二人の距離はもはや、手を伸ばせば触れるほどに肉薄している。ロセンツォの鼻腔には、ファティスの発する色が十分に届いているだろう。彼女のそれは、ロセンツォに近くなる程濃くなっていく。それは、ファティスがベッドに上り、ロセンツォの腹に跨った瞬間、最も強く、高く匂い立つのであった。
「ロセンツォさん」
ファティスははっきりとロセンツォの名を呼んだ。二人の目が合った。ファティスの姿は、彼女がかつて悲痛な叫びを上げ、白雪の肌に無残な痕を作り上げた娼館に住まう女の出で立ちそのままであった。
「お嬢さん……」
「ロセンツォさん。私、貴方の事が好きなんです。だから、お願い致します。抱いてください。私を、貴方のものにしてください」
潤んだ翡翠が狂気を孕んでいた。
男はみんな同じ。女の身体なしには生きていけない。貴方もそうでしょう?
そうファティスの両眼が語る。彼女は男を我が物とせんと自らの身体を餌とした。娼館での経験がそれを最善と思わせたのだ。ファティスにとって肉はそういうものだった。その行為が、本来愛によって生じるものだと知らなかった。
「ロセンツォさん。私を抱いてください」
唇を近づけるファティス。もはや有無を言わせぬ魔力を秘めた白顔が、そっと男に近づいていく。彼女は初めて自ら接吻を求めた。それは恋人同士の情熱によるものではなく、略奪者による侵略行為と同じであった。彼女は自分がパルセイアと同じ行為をしているという自覚がない。あるのは抑えきれぬ恋慕の念と嫉妬だけである。しかしそれはあまりファティスに似合わぬ邪悪であった。考えられぬ愚であった。彼女にあるべき純心と誠実は果たして失われてしまったのだろうか。彼女の持つ真の美しさは悍ましい情念の火に焼き尽くされてしまったのだろうか。ゆっくりと時が過ぎていく。二人の唇が、今にも……
「止めなさい」
強い口調だった。子供を咎める親の言葉であった。ファティスは何が起こったのか理解できていないようであったが、ロセンツォの大きな手が、薄い両の肩を抑え突き放した際ようやく自分の身体が拒絶されたことを知り、ファティスは「どうして」と呟いたと思うと、大きな声を上げ、子供のように、ロセンツォの腹の上で泣きじゃくるのだった。幸いにして、二人が宿泊している唯一の部外者である老婆は耳が遠く、ファティスの悲叫は届かなかった。
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