道行けば5

 ローマニアへの道は長い。そこは乾いた風とひび割れた大地が続く荒野で、遠方には大きな休火山を眺める事ができる。

 火山はヴァイヴォルという名であった。今でこそヴァイヴォルの活動は止まっているのだが、古来からこの火山の噴火によって幾つもの都市が消滅したという記録が残っている。ローマニアの人々はヴァイヴォルを恐れ、憎む者もいたのだが、彼らは、彼らが愛する湯の源泉が、ヴァイヴォルの恩恵である事を知らないでいた。





 ファティスとロセンツォはヴァイヴォル火山を眺めながらローマニアへと続く街道を歩いていた。しかし、どこかぎくしゃくとして、前日までの活気はない。どうやら両名とも昨晩の尾を引きずっているようで、ロセンツォは自己の軽口に、ファティスは新たに発芽した感情の蠢きに、それぞれ苦しんでいるようだった。






「そろそろ休憩にしましょう」


「あ、はい、そうですね」


 ロセンツォはファティスの上の空を申し訳なさそうに眺めていた。酒が入っていたとはいえ、故国を失った歳半ばの少女になんと軽率だったかと自責しているようである。ロセンツォは自身の視線から逃げるようにして顔を背けるファティスの赤面には気付いていなかった。いや、もしかしたら気付いていたかもしれないが、それが自らに向けられた恋心故のものだと、善良なる中年のロセンツォが考えるわけがない。彼女の頬の赤みは地熱と疲れによるものばかりと決めつけていたに違いない。彼はファティスの身を案じ、また、関係の修復を、父子のような関係の復活を願っているだけだった。


「疲れていませんか? このお茶をどうぞ。アルサッカに自生している薬草を使ったものなんですが、よく効きますよ」


 ファティスは惚けた顔をしてその茶を受け取り、吐息で冷ますこともせず一気に口に流し込んだ。すると必然。彼女は茶の熱と薬草の香りにむせ返ってしまい、瞬時に口外へと吐き出してしまったのであった。


「大丈夫ですか!?」


「だ、大丈夫です! 申し訳ありません! はしたないところを……あ、だ、駄目です!」


 !


 巨漢は尻餅をついた。かかった茶を拭き取ろうと近付いたロセンツォを、ファティスが突き飛ばしてしまったのである。


「も、申し訳ございません!」


 オロオロとするファティスはロセンツォに手を伸ばすことができず不安そうな顔をしていた。

 一体自分の身体を支配しているこの感情がなんであるのか、どうして助け起す事ができないのか。恐らくそんな事を考えているのだろう。


「いえ、こちらこそ、少々軽率でした。非礼をお詫び致します」


 ファティスをなだめ、ロセンツォは和かに立ち上がった。


「こんな中年が理由を付けて女性に触れようとするなど言語道断。いやはや、失礼つかまつりました」


「え、あ、ち、違うんです! その……」


 必死に弁明しようとするファティスであったが言葉を上手く出せていなかった。慌てふためきどもりながら、汚れた衣服をはためかして埃を巻き上げるばかりである。ロセンツォのやや卑屈めいた冗談が彼女の思考をより回りくどくさせてしまったのだろう。


 突き飛ばしてしまって申し訳ない。

 貴方に非はない。

 男は苦手だけど貴方は違う。

 だからそんな事を言わないで。

 そもそも粗相をしてしまったのは私です。


 瞬く間の内にファティスの顔は変わっていき、それぞれがそれぞれの申し開きを表していた。勿論ロセンツォは恣意的に彼女を苦しめているわけではない。たな、恋する乙女の心情を察するには、些かの彼の感受性が不足していたのである。ロセンツォは口には出さないながらも、「やはり昨晩の軽薄が不味かった」と、茶を淹れ直す際に溜息として悔恨の念を露わにしていたのであった。

 そんな溜息はロセンツォばかりではない。彼の後ろで、胸に手を当てながら、滲みができた服を見ているファティスも彼とほぼ同時に、苦しげな悩みを吐き出すようにしていた。ファティスの気配は、まるで色が変わりゆく深緑のようである。彼女の心は紅葉の如く色づかんとしているた。

 しかし彼女のその美しさと儚さを見る者はいない。この年頃の乙女ならばそうした人間の存在は必須である。ファティスには恋の理解者が、求道者がいなければならなかった。それは母親が担うべき役であったが、彼女の母はもういなかった。


 恋の心痛を至福と人は言うが、それは回った毒が少量であったか十分な処方を受けているからであるし、なにより成長の過程で耐えうる精神ができあがってるからだ。ファティスに注がれた恋の毒は過量であり、治療するべき薬もなく、また、彼女の心は、恋をする準備がまだできていなかった。孤独にて打ち勝つのは不可能な猛毒に、ファティスは侵されてしまっていた。

 彼女が今感じているであろう辛苦はこれまでとは質が異なる。なぜなら、恋というのは失う苦しみではなく、与えられる苦しみなのだから。時としてその授かりは妙薬にも成り得るのだが、ファティスが持たされたそれは……


「ロセンツォさん」


 茶を淹れるロセンツォにファティスは声をかけた。しかし、後が続かない。何を言っていいか。自分が何を伝えたいかが分からないのだ。口をまごつかせるだけで、肝心の想いを、気持ちを、心を吐き出せず、彼女は愛しき人の名を呼ぶことしかできなかった。


「どうなさいましたか?」


 ロセンツォは相変わらずの笑顔であった。その笑顔がファティスの毒となっているとも知らず、善意に満ちた面持ちで彼女を苦しめ、痛めつける。


「あの、私、少し体調が悪いみたいなんです。ご迷惑をお掛けしてしまって、お詫びの言葉も……」


 違う。こんな事を言いたいわけではない。でも、それでも、私はこんな事しか言えない。

 そう聞こえてきそうなほど、ファティスのこうべは重くなっている。


「……こちらこそ、お嬢さんに無理をさせてしまいました。申し訳なありません。この先を少しいくと、小さな宿場があります。今日はそこで休みましょう」


「……はい。ありがとうございます」


 晴れぬままのファティスを心配そうに見つめるロセンツォ。彼もまた苦しんでいた。その苦しみから解放されたいが為なのか、彼はこの日、昨夜に続いて、再び口を滑らせてしまうのであった。


「あまり無理をなさらないでください。私にも娘がおりますので、貴女が辛そうだと、つい、過剰に心配をしてしまいます」


 「……娘」


 ファティスはその言葉を繰り返した。ロセンツォは特に顔を変えずに「はい」と答え言葉を続ける。


「まだ三つになったばかりでして……女房には無理をさせてしまっています。いやまったく、面目が立たない」


「……女房」


 ファティスは再びロセンツォの言葉を繰り返す。さすがにこれはおかしいと思ったのか、ロセンツォの顔は神妙となり「どうなさいましたか」とファティスを見据えたのであった。


「あの、その、つまり、ロセンツォさんはご結婚されていて、お嬢様もいらっしゃると……」


「えぇ。そうですが……」


 ファティスはフラと蹌踉めいた。転倒こそしなかったがガクリと膝をつきそうになったものだから、ロセンツォは慌てて彼女に駆け寄り沸かしていた茶をひっくり返してしまった。


「どうなさいましたか!」


「なんでも……なんでもないんです……あれ、私は、どうして……」


 ファティスを支えたロセンツォが見たものは、失恋の雫を落とす少女の白顔であった。

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