道行けば4

 サンサッカを後にした二人は近くの宿で峠の労を癒す事にした。小さいながらに趣のある、丸太を組んだ家屋は木の匂いに満ちており、ベッドは上等なものが設えてある。しかしファティスがそのベッドの上で瞳を閉じる事はまだできなかった。なぜなら彼女は今、うーうーと唸りながら身に付けている衣服を脱ぎ出さんとしているからである。


 ローマニアは風呂が盛んで公共浴場には人が絶えぬのであるが、ファティス達が泊まる宿も、それに倣って大きな風呂場を用意していた。

 ローマニア周辺は至る所に湯源がある為に独自の風呂文化が発達していて信仰に近い形で民に浸透していた。遥か昔は湯を出るままにして湯気を充満させる蒸し風呂が主流だったのだが、いつの間にか湯そのものに入るようになっていった。ローマニア人は傷を癒すも疲れを取るも湯に浸る。それは近隣の国では異質な習慣であり蔑みの対象でもあったのだが、一度ひとたび湯に浸かれば皆こぞってその効能を絶賛して羨み、再びローマニアへと足を運びたくなるのであった。その心変わりを、ファティスも辿ることとなる。

 彼女は最初、不特定多数の人間が同時に利用する湯場に不快感を示し乗り気ではなかったが、「是非ローマニアの湯を味わってください」とロセンツォが薦めに薦めるので入らざるを得なかった。風呂は男女別であったが、同性といえど人に肌を晒すのも、身体に刻まれた痣を見せるのも恥ずかしく思っているようで、ファティスは慎重に、ゆっくりと時間をかけて服を脱ぎ、モジと身体を隠しながら浴室に入ったのであった。

 人の数は少ない。しかも概ね老婆ばかりであった。だが、やはりどうにも羞恥の心は疼くようでぎこちなかった。どうにも慣れないといった様子である。それでも、ファティスは伏せた顔の先にある自身の乳房を覗き見ながら、湯番に聞かされた手順通りに身体を洗い流し入浴したのであった。するとどうだろうか。ファティスの懐疑に満ちた表情がみるみると柔らかくなっていくではないか。眉間に寄っていた皺が徐々に解れていく。それどころか、「あぁ……」と間抜けな声を漏らすしまつである。

 湯の効能は旅の疲れに覿面てきめんのようだった。ファティスは中々湯船から上がらず、遂には寝息を立ててしまっていたのだが、老婆の一人に「風呂で寝ると危ないよ」と起こされ、火照った顔を更に赤くするのであった。









「いかがでしたか?」


「はい。大変良いものでした!」


 風呂から出て、食堂で簡単な料理を頬張りながら二人は話に花を咲かせた。

 ここに至るまで存分に語らったのではあるが、野外と屋内とではやはり内容が変わるようで、この、幾らか落ち着きのある柔らかい広間の中では、必然のように家庭的な、あるいは牧歌的な、まとめてしまえば、人間然とした話題が中心となった。


「この宿は中々いいんですよ。風呂もそうだし、飯も上手い。ローマニアへ帰るときは必ず泊まるようにしてるんです。他の宿も利用した事がありますが、ここがこの辺じゃあ、一番じゃないかなぁ……」


‪ ロセンツォは少量の果実酒をちびりとやっていた。盃を用心深く口に運ぶ様は貧乏くさく見え、まったく体躯に似合わず女々しい事この上ないのであるが、なぜだかそんな巨漢が微笑ましくあり、ファティスはクスリと笑って話を聞いていた。


「ローマニアはいいところですよお嬢さん。私は小さい頃、行商をしていた父に付き添って色々な国を回ってきました。多くの国が良いところで面白かったんですがね。ローマニアに帰ってくると、やっぱりここが一番だなと父に言っていたんですよ。その気持ちは今も変わりません。時代と共に街は変化していきますが、街と、そこに住む人々の魂は同じままなんです」


 ロセンツォは酒のせいか多弁となり故郷の賛美を謳った。ファティスは和かにそれを聞いてはいたが、次第に言葉数は少なくなり笑顔は消えた。かといってまるで仏頂となったわけではない。

 ファティスに形作られた面をどのように表現したものか。様々な感情が入り混じった混沌の泉に、雫が落ち波紋を立てたような深淵を覗かせている。

 だが、その顔がなんと見事な美であったか。

 彫刻や絵画のそれではない。芸術などという人間の手に負える代物ではない。およそ生者の司る美でなければ、即ちそれは死者の美であった。天寿尽きぬファティスに死の麗観が宿ったのは、贄となったヘイレンの人間達が死して冥府の化粧を施したからに他ならない。


 ロセンツォは魅入られたかのように舌を止めてしまった。目の前に座る少女が、得体の知れぬ魔性に取り憑かれ、悍ましい程の色香を放っているのである。その色香は劣情を刺激し、男を罪人へと変えるであろう。女の持つ影は、深ければ深いほどに、闇は光輝を孕むのだ。


「ロセンツォさん」


 ファティスはそのまま、弁の絶えた中年男に問うた。


「祖国を奪われた人々の魂は、どうなるのでしょうか」


「……」


「失われた祖国に根付いていた魂は、どこへ行くのでしょうか」


「……」


 ロセンツォはサンサッカで聞いているはずだった。ファティスと二人の商人の会話を……


「ロセンツォさん……教えてください」


 悲痛であった。

 ファティスにとってこの問い掛けは八つ当たり以外の何ものでもない。生まれ育った街を誇る人間への妬みと逆恨みである。本人もそうと知っていながら、あえて礼を失しているのが見て取れた。それがまた、ロセンツォのやるせない胸の痛みを誘発させているようであった。


「……お嬢さん。私は、いろんな国を見てきたと言ったでしょう」



 後生大事そうに飲んでいた盃を空け、ロセンツォは、ファティスの問に答え始めた。


「はい」


「全部が全部素晴らしかったわけじゃない。民が貧困に苦しんでいたり、酷い差別があったりする所もありました。そんな中の一つに、住んでいた国がなくなり、移民となった人達が暮らす場所も見だ事があります」


「……」


「国がなくなり、知らない土地で大変な目に遭っていました。日に食べるものもなく、蔑まれ、劣悪な環境の中で過ごしてるんです。でもね。その人達は、生きているんです。苦しく辛くとも、悪の道に堕ちようとも」


「……」


「それの是非については伏せます。しかし、一つ言える事がある。それは、彼らの中には、紛れもなく魂が宿っているんです。その魂がある限り、必ずどこかで、また魂は集まるはずです。人の意思とは、街の、国の意思とは、そういったものだと私は信じます」


 根拠のない話であった。言葉に窮した大人がほざく綺麗事のそのものであった。しかし、ロセンツォから発せられる声に偽りはなかった。彼は、間違いなくそう思っているのである。そう思っているからこそ、彼はファティスの魔性を退けたのだ。

 先までファティスに塗られていた死の白粉はすっかり剥がれていた。今彼女にあるのは、清んだ純真だけである。


「少し、酔ってしまいました。今夜は寝ましょう」


 ロセンツォはファティスの言も聞かぬままに部屋に戻っていった。己の軽薄を恥じたのか、はたまた、自分の甘い言葉に辟易したのか、彼の口元は硬く閉じられ、奥歯を強く噛んでいた。

 一方、取り残されたファティスの翡翠は煌めき、束ねられた金糸は風が吹いたように躁ぎ、日に焼けた肌は俄かに色付いて、胸の鼓動は、絶え間なく響いていた。


 ロセンツォの真心と言葉が、少女の心に花を咲かせた。


 ファティスは、この感情の正体を、恋という心の錯覚を今日まで知らなかった。


「……え、あれ? 私、どうしちゃったんだろう……」


 一人惚ける少女は頰に手を当て、自身に起こっている異常の原因を探っているようであった。

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