道行けば3

 翌朝から二人は連れ立って峠を歩いた。いつの間にか寝入ってしまい、しかも平素よりも遅く朝日を拝んだファティスはロセンツォに謝りに謝ったが、そのロセンツォは一向に気にした様子もなく、温め直した昨晩の残りのスープをファティスに勧めたのであった。

 肩を並べてスープを口に運ぶのが、どこか画になるのは二人の歳が離れている為に、返って擬似的な親子としての完成度が高くなったのか、むしろ妾を連れて遊山に興じる痴れ者としての見方が強まったのかは、見る者の品性にかかっているのだが、どちらと取るにせよ、歳の差が、一つの作品として映えているのは事実であった。






「お嬢さん。この辺りの石はよく滑りますから気をつけてください」


 大荷物を持ち、なおかつまともに寝ていないはずのロセンツォだったがその動きは体躯に似合わず軽快であった。朝食を終えて一間の息を落ち着けた後、「さぁ行きましょう」と意を高めたのもロセンツォである。たまにある巨岩を飛び越えファティスの手を取り、泥の溜まった足場などはファティスを抱え、歩速が上がらぬようファティスに合わせ、偽の娘の、あるいは妾の身体を気遣って、本来ならば不要な休憩も、彼女の身体を案じ何度か取っていた。







「申し訳ありません。お手間をかけさせてしまって……」


 両手の指が折れるか折れないかの休息の際、ファティスはそんな言葉を口にした。身体は血潮の色が透けて見えたが顔色は悪い。薄くなった唇は、謝罪をしながらも中々に合致せず小さく震えている。


「構いませんよ。それより、よく休んでください。山道は、慣れないと堪えますから」


 頃合いは陽が頂点から少し下がり始めた辺り。二人はポツポツと店が建っている場所にやってきていたが、岩肌に腰を下ろした方が楽しいと、双方の沈黙が合致した為に、茶屋には入らず野良で過ごした。ファティスは満身創痍であったが決して茶屋に入ろうとは言わず、ロセンツォもそれを勧めず、ファティスから渡された干し肉を「美味いですな」と齧っている。下り坂も平坦に近くなってきた。峠の終わりが近づいているのが分かる。このまま何事もなく進めば、今日中にサンサッカを渡り切ることができるだろう。


「ここを越えればもう楽なものですよ。サンサッカを抜けたら乾燥地帯が広がってまして、三日も歩けばローマニアです」


「三日も……」


 ファティスは驚愕していた。サンサッカの下り道はまだ楽しく歩けたかもしれない。なにせ、わざと道をくねらせ負担が軽減されるよう設計されているのだ。峠そのものが一種の遊技場として捉える事ができる。困憊の少女とて、それくらいの道程を渡る体力は持ち合わせていよう。しかし、そこを越え、三日も時を有さねばならぬのは、ファティスにとってみれば途方のない労力であるに違いない。疲労の上に続く単調は、快調で挑む困難よりも心を削る。ファティスの白く細い御御足は浮腫み腫れ上がっていた。仕方のない旅路とはいえ、この有様で3日も歩けというのは酷な話だ。


「心配せずとも、道中にちゃんと宿はありますよ。昔は、サンサッカの入り口からローマニアまで馬車が通っていたのですが、最近は軍に馬を取られてしまっていまして……」


「……」


 ファティスは、ロセンツがあえて隠した言葉の真意を汲み取ったようだった。軍が馬を使うとなれば、その目的は決まっている。血生臭い戦場へ駆け抜ける死の駒として使う以外にない。戦争だ、ローマニア程の大国が、民から馬を徴収しなければならぬ程の相手とは何者か。答えは聞くまでもない。


「……どうなさいましたか?」


 ロセンツォの問いかけに、ファティスは夢から覚めたような反応をした。見渡すサンサッカの風景はもうそれほど美しくはない。多少の凹凸がある地面とその横に木々が点在しているだけである。切り開かれた道はもう街道とさほどの違いはなかった。彼女が捉えたこの風景。現実とは、まさしくそんなものである。 どのような過程を経ようと、結局はつまらぬ、淡々とした苦痛に苛まれなければならない。だが、それが、それこそが人生なのだ。喜びや幸せ。悲しみや憂い。そんなものを飲み込んだ先にある無味無臭の悲劇こそが、生きるという事なのだ。それをどう感じるのかは個人の価値観に委ねるしかない。果たしてファティスはローマニアに着き、何をして、どのように生きても、過去の自分とはいずれ決別し、音も色もない現実を生きていかねばならぬわけだが、彼女がそこに見出すものは如何様なものか。未だ渦中にあるファティスは、その一片すら知り得ないのであった。


 手にしている干し肉を、ファティスは勢いよく口に放り込んだ。ロセンツォは呆気に取られ見ていたが、ファティスが口をもごつかせながら「頑張ります!」と言ったのを快笑し、「道中のお世話、賜りました」とにこやかな冗談を返したのだった。少女がつまらぬ低度の峠道に何を見たか。凄惨たる戦場だろうか。無限に続くローマニアへの道だろうか。それとも、それとも……






 




 陽が暮れかけた頃。斜陽に照らされた看板には、「偉大なるサンのご加護を」と記されていた。


「お疲れ様です。これにて、サンサッカは踏破致しました」


 ロセンツォは執事のように首を垂れ平伏した。一連の動作には無駄がなく、さも慣れているという風であったが彼の肥満体に洗練された作法が似合うはずもなく、相手がその手の儀式に慣れていればいるほど笑いが込み上がる仕掛けとなっていた。

 ファティスは放浪生活の中で初めて大笑した。絶倒しかねる程の抱腹にロセンツォは気を良くしたのか、さらに執事の真似事をして、「もうやめて下さい」と息すらままならぬ非難を受けたのであった。


「いやはや、笑いというのは大切なものですよ。いかな悲劇も、微笑一つで喜劇に変わるものです」


 ロセンツォはたいそう真面目に言い訳をした。それもまた、ファティスの内臓を振動させ呼吸を困難なものとし、喉から喘息患者のような音を発し始めてからようやく、ロセンツォは度が過ぎたと反省に至ったのであった。息を整えた後、「もう!」と頬を膨らませるファティスは歳姿より幼く見えた。

 幼児性というのは一つの魅力である。男は、時として聞き分けの良い賢母よりも爛漫なる身勝手な、遊び盛りの童女に惹かれることがままあるのであるが、ファティスがそれを知って頬を膨らませたのかは判断の難しいところであった。なにせ、もし彼女が意図的にそのような真似をしたのだとしたら、その行いはいよいよ女の狡猾由来のものであり、となれば、髄まで娼婦の精神が根付いてしまったという他にないのであるが、無垢が服を纏って歩いているような、天真のあどけなさがその想像を閉じ込めてしまい、容易に彼女の性根を覗き見ることが、殊更男であるならばできないようになっているからである。


「これは参ったなぁ……どうか、機嫌を直してください」


 おどおどと気弱に伺いを立てるロセンツォは情けなくもあったが、それが彼の人の良さと大人気と人徳を映し出したようで、反対に、その姿を見てペロリと舌を出すファティスは意地の悪い印象を受けるのだが、それが彼女の、女の濃度を上げているのだった。しかし、やはりそれが故意なのか無意識なのかは、男の目では、俄かに看破できぬ現象なのであった。


 夕陽に照らされる少女の笑顔は、聖魔入り混じる、混沌とした偶像の表情が彫られていた。

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