道行けば2

 轟々と燃える火炎。生まれ育った城が燃えてゆく。

 声は届かず、身体は動かず。灼熱が全てを焼き尽くさんとするを、ただ見ているだけ……揺れる炎を前には立ち竦む彼女に、後ろから声がかかった。


「ファティス。こっちへおいで」


「お父様!」


 父の声を聞き、安堵の表情を浮かべるファティスが振り返るところそこには、数多の兵と共に、串刺しにされたキイクロープスとアルトノの姿が…………








 目覚めたファティスの前にあるのは小さな焚き火であった。息は荒く、憔悴している。大粒の汗が流れ落ちるのをそのままに、彼女は自らの心臓に手を当て息を整えようとしていた。その時である。


「おはようございます。といっても、まだ夜分ですが」


 覚えのない人間の声にファティスは素早く反応した。鎮めようとした鼓動が再び大きくなり、火に焚べられた木が爆ぜる音と混ざる。跳び起き視線を向けたファティスが見たものは、よく肥えた、見知らぬ中年の男であった。


「ど、どなたですか……?」


 娼館に落ちた経験からかファティスは男を警戒していた。いや、普通の人間ならばそれが普通なのだが、ファティスは並ならぬ苦悩を経てようやくその普通が身についたのであった。助けた相手に取る態度ではないが、どうやら彼女の記憶は一部欠落しているらしく、目の前に立つ男が恩人だと分からぬようだった。男はそんなファティスの態度に嫌な顔一つせず、丸みを帯びた顔を更にまるまるとさせ、丁寧に口を開いた。


「失礼。この肥満体は気付けにしても過ぎましたかな。私の名はロセンツォ。しがない商人でございます」


 ロセンツォは派手に笑いファティスの対面に座った。冗談めかした丁重な口調がおかしく、喜劇役者のような愛嬌があった。しかしファティスは未だ警戒を解かない。娼館にて、最初に相手をした男の記憶が彼女の心に厚い壁を作っているのだろう。あの男も、最初は優しい顔をしていた。


「迂闊に信じるな」


「用心しろ」


 ファティスの顔にはそのように書かれていた。彼女の額からは依然汗が噴き出している。もしロセンツォが身体を求めてきたとしたら、ファティスはきっと抗うであろう。それが無駄な抵抗だと知りつつも、やはり歳足りぬ乙女である。花弁は無残に毟られてしまっていたが、ファティスの精神は決して卑に落ちていない。


 だがファティスは気が付いた。焚き火の横に、自分を食い殺そうとしたウォールフの死体がある事に。

 しばしの間を置き、ファティスは顔を青くさせ「助けてくださったんですか」と間の抜けた質問をした。どうやら失神前の記憶が蘇ったようである。ロセンツォは愛想を笑いを浮かべ何も答えなかったが、ファティスは大いに感謝と謝罪の弁を並べ立て、


「ご恩にお応えできぬばかりか何たる失礼を……大変申し訳ありません……」


 と、最後にそう締めたのであった。


「なに。女性がこんな場所で私のような男に会えば、食われるのではないかと心配にもなりましょう」


 ロセンツォの脂肪と体毛に覆われた身体は事によって嫌悪感を抱きかねない男らしさを持っていたが、彼の冗談めいた言葉や振る舞いによってそれは愛らしさに変わり、見る者の顔を自然と綻ばせるのであった。平身低頭に謝り尽くすファティスの口からは一息の含みが漏れ、「申し訳ありません」と、謝りながらも笑ってしまっていた。ロセンツォはそんなファティスを見て安心したのか柔らかな表情を見せて、彼女の前に木製のカップを差し出した。


「スープです。クズ野菜しか入っていませんが、ないよりましでしょう」


「え、あ、はい。いただきます……あの、これは、あなた様が……」


「はい。味は保証し兼ねますがお食べください。いかになだらかといえど峠越えは力を使いますからね」


 見れば端に小さな鍋が置いてあった。ロセンツォは仕事がら最低限の野営道具を持ち歩いており、また過ごし方も心得ていた。これは何も彼に限った話ではなく、行商人であるならば必須のものであったが、ファティスにはそれがいたく衝撃だったようで、「凄いです!」と声を弾ませたのであった。彼女からしたら厨房もないのに料理をするというのは信じられない絶技のように思えたのだろう。目を輝かせて賛美する少女を見てロセンツォは「大した事じゃないですよ」と言いながらも嬉しそうにしている。

 二人の姿は親子に似ていた。ロセンツォの善意とファティスの純粋がそう見せるのだろう。邪心の入り込む余地のない信頼が、一夜の星のように輝いている。目には見えない美しさが、彼と彼女の間に確かに存在していた。二人はしばらくと話を続けた。極めて表面的で他愛ない会話だったが、それ故の悦もある。殊にファティスが込み入った話などできるわけもなく。彼女は久方ぶりの、善良な、あるいはまともな人間との平凡な会話を楽しむ事ができたのであった。








「さて。夜も更けてきました。そろそろ休みましょう」


 火を挟み、時の流れを忘れて談笑していた二人であったが、ファティスが漏らした欠伸を見てロセンツォはそう言った。


「そうですね。申し訳ありません。つい長話をしてしまいました」


「いえ。私も喋るのは好きですから。あぁ、夜は冷えますから、これを。一枚は地面に敷いて、もう一枚は上からかけてください」


 彼が取り出したのは二枚の布であった。薄手ではあるが、丈夫な生地でこしらえてある良品である。


「ありがとうございます。でも、ロセンツォさんの分がないように見えますが……」


「私は大丈夫ですよ。火の番をしないといけませんので、寝入ってしまうわけにはいきませんから。座りながら、うとうととさせていただきます」


「それでしたら、私がその役を仰せつかります。助けていただきましたし、スープもいただきましたから、それくらいはさせてください」


「なに。気になさらないでください。私は貴女から干し肉をいただきましたし、こんなことは慣れていますから。なにせ昔はローマニアで兵として勤めていた経験もありますからね」


「あら、ローマニアに。それは奇遇でございますね。実は、私の親しい方もローマニア兵だったんですよ」


「ほぉ。名をなんと?」


 ファティスがカリスの事を話すとロセンツォは「あの厄介者とお友達なんですか」と驚いた。それから二人はまた話を始めた。ロセンツォはカリスと同じ時期にローマニア兵となった事を話し、彼女の非常識を蔑みにならぬようファティスに聞かせ、笑わせた。その際、カリスが兵長を殺した事をロセンツォは黙っていた。知っていようがいまいが、ファティスがその話を聞いたらきっと顔を曇らせると察したのであろう。彼がカリスに対しどのような感情を持っているかは定かではないが、本人がいない所で人を悪く言うのは彼の信条に反するのだった。 

 公平と潔白がロセンツォの持つ美徳であった。それ故に、時には悪でさえ是とする兵の勤めに嫌気が差し退役したのだろうが彼は多くを語らなかった。そもそも語る気もなかっただろうが、話をしている途中に眠りこけてしまったファティスに気づき、語る相手を相手を失ったのである。ロセンツォは静かにファティスを寝かせ、火を見守りつつ朝を待った。時折寝息を立てるファティスを見ながら、満足そうな笑みを浮かべて。

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