道行けば1

 なだらかな勾配と平らな道が続くのがサンサッカの特徴であった。

 アルサッカは難所であったがサンサッカは遊山に訪れる者もいる名所で、所々に景観を眺める広場が存在している。エタリペアの様な集落はないが、休憩所や食事処や宿が転々と軒を構えている。山頂へ続く道もあり、一晩明かして頂きを目指す者もいればそこそに遊歩を楽しむ者もいる。勿論、ファティスのように峠越えを目指す者もいるのだが、皆、いずれにせよどこかの店に立ち寄り、食なり酒なりを頼むのに変わりなかった。





「はい。お茶と干し果実ね。銅貨三枚頂くよ」


「あ、はい。こちら、金貨ですがよろしいですか? あ、はい。ありがとうございます。では、いただきます」


 エタリペアを出立して一日。途中宿を取り、ようやく峠の中腹まで来たファティスは一軒の茶屋で休息を取っていた。愛想のいい店主に気を良くし、身体を売って稼いだ金を特に惜しむ事なく使い茶を頼んでいたが、元より金銭の価値が違う人種故に、割高な茶と三等品の干し果実を楽しみ、広がる絶景に見とれているのであった。高地の風は乾いており清涼。遥かまで続く群青は己の立ち位置さえ忘れさせる。音はよく響き、空を駆る鳥の声や砂塵の擦れ合いまで聞こえてくる。殊に人間の談話などは、聞こうとせずとも耳に入った。


「マーネンを知ってるかい? なんでも、皆殺しらしいぜ」


「あぁ。俺は実際見て来たんだが、辺り一面焼き払われて、ヘイレン兵の死体が串刺しになっていたよ。しかもありゃあ大分責られた様子だった。ゾッとしないな」


 道すがらに知り合った風な商人同士の会話であった。声を貼る二人の声がファティスだけに届かぬわけがない。彼女は体裁も気にせず、休憩所の奥で話をする二人に飛びついた。


「そのお話、もっと詳しく教えて頂けないでしょうか!」


 ファティスの形相に二人は慄いた。懇願と悔恨の狭間に揺れる表情は、ファティスの美しさも相まって、怨念が込められたかのような、言い知れぬ不気味さを晒していたからである。


「詳しくったって……さっきの言葉通りだよ……マーネンは地獄。串刺しになった死体は野晒しにされて鳥の餌さ」


 男の一人が遠慮もなしに現実を告げる。今話している少女がヘイレンの王女だと知るはずもない。


「そうですか……」


 ファティスの唇は真一文字に結ばれた。彼女の顔が苦悩に染まったのは、哀悼と自責によるものであろう。全てを失って尚も生きる道を選んだファティスであったが、生来持つ精神がそうそう変わるはずもなく、「死を全うせねばならなぬ身でありながら……」と一人ごちる事がままあった。王女として産まれたファティスは、死した兵と苦しむ民に対し、命をもってして償わねばと考えずにはいられないのである。それが、王家の人間としての責務なのだからと。


 城から逃げ延びてからずっと、ファティスは死の幻影に取り憑かれていた。償えない、償うわけにはいかない罪科に煩悶し、死という救済に希望を見出しながらも拒絶していた。生きる意味や目的などがあるわけではないし、これから先にどのような苦しみがあるかも分からない。しかし、生きねばならぬという意思を持っていた。


 命がある以上は死ぬわけにはいかない。


 それが、亡き父と母の願いなのだとファティスは思っていたのである。エタリペアのカリスが聞いたら「分からない」と笑い飛ばすような生への脅迫じみた執着である。もっとも、あの巨体はそもそも何にも価値を認めない狂人であるのだが……


「あんた、マーネンに家族でもいたのかい?」


 幽鬼が如く蒼白な面持ちのファティスに男の一人が言った。


「え、あ、はい。そうです。父と母が……」


 ファティスは慣れぬ嘘をついたせいかぎこちなく不振な挙動となっていたが、それが逆に男達を信じさせる材料となったようで、神妙な顔つきとなり互いに目配せをして、しばしの沈黙の後一人が口を開いた。


「そうかい……兵士以外はヘイレンに避難したって話だけど、パルセイアが既に制圧していて国民を奴隷のように扱っているらしい……悪い事は言わないから、このままローマニアに行った方がいい」


「……」


 ファティスは黙って頷くと、茶と干し果実を残しサンサッカの大地を踏んだ。揺らぐ身体は風に飛ばされる落ち葉のようにローマニアへと向かっていく。彼女の顔は先までの、景色を眺めていた際の輝きはなく、まるで敗残兵のように峠道へと消えてゆくのであった。




「気の毒な事だ」


「まったくだ。しかし、明日は我が身だぜ」


「……ヤサを変えんといかんかもなぁ」


 二人の商人にはそんな事を言い合いながら、「素面じゃおれん」と酒を頼んだ。

 暗く同情的な面持ちで、「可哀想なことだ」などと格好のいい台詞を抜かしていたが、本当のところは他人の不幸を肴にしたいだけである。その証拠に二人の舌はよく回っていた。

 悲劇というのはいつの世も麻薬の役目を果たす。自分は思慮深く慎みのある人間なのだと錯覚させる罪深き毒。偽善という悪徳を肯定せしめる愚劣な娯楽である。

 しかし、世には悲劇の作用にがまるで効かない人間がいる。それは他人の幸不幸に興味のない悪魔と、真の慈愛を持つ聖者。また、カリスのような破綻者の三つに別れるわけであるが、ここにも一人、悲劇の毒に侵されぬ者がいた。二人の商人からやや離れた席に座っているその人物はやはり商人風の出で立ちであったが、身の周りは悪く、擦り切れたボロのクロークに古びた皮袋を宅の隅に置いており、色の禿げたツバの広い帽子を膝の上な載せている。厚い肌に不精している髭が特徴的な、中年の男であった。


「ご馳走さん! 美味かったよ!」


 男はそう言って席を立った。やや肥満体で恰幅のある、体毛が豊かな風貌は貴婦人に生理的嫌悪感を与えかねない粗野な印象を受けるが、見た目に反し卓の上は綺麗なもので、食べカスも茶の落滴もなく、皿もグラスも端に寄せていた。


「ロセンツォさん。いつもありがとね!」


 店主の愛想に笑顔で手を振り、ロセンツォは店に背を向け歩き出した。のしりとした歩みは愚鈍そうではあったが、不思議な包容力と頼もしさに満ち溢れ、どことなく、温和な大型動物のような愛嬌があった。










 陽が傾き始めた。ファティスはそろそろ泊まる場所を決めねばならぬと周りを見渡したが、そんな時に限って周りに宿がない。サンサッカは山頂近くともなると自然に店は減ってくるのだが、城育ちのファティスがそんな事を知るはずもなく、ただ闇雲に歩を進め、顔を不安に覆わせる以外に術がなかった。宿がなければ当然人もいない。山の夜は、いかに長閑のどかなサンサッカであっても危険なのだ。好んで歩く人間は皆無である。例外なく全ての者が、ここまで来る前に宿を取る。


 どんどんと暗くなっていく。闇は方向を狂わせ、気温は下がる。足元は見えなくなり、小さな石でさえ躓きかねない。野営という手もあるが、ファティスにそんな準備があるわけでもなく、ついに、彼女はその場にへたり込んでしまった。


「どうしましょうか……」


 一人蹲るファティスは不安そうにそう呟いた。既に太陽の後光は消えている。闇の世界に彼女は取り残されてしまった。


「……?」


 そんな中で妙な音が聞こえる。擦れるような音と、重音。それは徐々にファティスに近付いているようである。


「だ、誰ですか!」


 ファティスは堪らず叫んだが返事はない。それも当然である。ファティスに近付いているのは、人間ではなかったのだから。


 !


「ひ……」


 生臭い息と、脂と埃の臭い……ファティスの前に現れたのは、この辺りに生息している夜行性の肉食獣。ウォールフであった。

 ウォールフは低く唸りファティスを見ている。間合いは人の歩にして七、八。ウォールフならば一跳躍の距離である。身を固め悲鳴すら発せないファティス。彼女は怯え、ガクガクと震えていた。心なしか、表示のないウォールフに笑みが浮かんでいるように見える。この獣にとって此れ程狩りやすい獲物もいまい。野生の感覚が緩んむのも仕方のない事である。


 しかし、それが命取りであった。


「!」


 ウォールフの首がネジ折られた。一瞬の事に、自らが死んだ事さえ気付いていないだろう。油断しているとはいえ、獣の間合いに入り必殺するは見事と言う他ない。それを成したのは……


「大丈夫ですかお嬢さん」


 そう言ってへたり込んだファティスに手を差し伸べたのは、擦り切れたボロのクロークを羽織った、恰幅の良い中年の男であった。ファティスはしばらくその男を見ていたが、糸が切れたように意識を失ってしまった。彼女が失神するのはこれで何度目であったただろうか。残念ながら、その数は記録されてはいない。

 

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