落花8
時流というのは不思議なもので、早い遅いと思っていても結局は同じ間隔で過ぎていくものである。
ファティスが娼婦として使われる期間は十日。彼女にとってその十日のほとんどが不幸であり、想像以上に長く感じていただろうが、数刻前に相手をした男が、ファティスの最後の客となった。全てを終え、月が一番輝く時間に湯を浴びに来たファティスの肌にはやはり幾つもの痣ができている。その痣の一つ一つに彼女の涙や悲鳴が記憶されていた。ファティスは湯を浴びながら、抱かれた数を数えるようにして痣に触れここで味わった辛苦を思い返しているようだった。まだらに変色している柔らかな肌を化粧で隠すのも今日まで。湯汲み用の手桶を持ったファティスの手は強く握られている。一つの苦難の終わりを噛みしめるかのように、手の平にもう一つ痣を作ろうとしていた。そんな折、湯浴み小屋の扉が大きな音を立てて開かれ、ファティスは咄嗟に胸を隠した。
「邪魔するよ!」
カリスであった。一糸纏わぬその姿は野獣のそれに近く、逞しい身体肉体に陰茎がないのが不完全に思われる程である。彼女の筋骨は娼館に来るどんな男達よりも雄々しく密度があった。薄く光る火に照らされた肢体には幾重もの傷が浮かんでいるのだが、痛ましさよりも力強さを感じさせる。
そんな大女丈夫が狭い湯浴み小屋に入って来たものだから、ファティスは端に追いやられてしまった。こうなっては、余韻も何もない。
「め、珍しいですね。こんな時間に湯浴みだなんて……」
カリスは基本的に身体を売る事がない。店の女が埋まっていてどうしようもない場合に男の相手をするのだが、ムルフは最後まで決断を渋る。なぜなら、カリスが相手をした男の半分が肉体的な傷を負い、もう半分が精神的な傷を負うからである。女ならなんでもいいという男に対し、再三説明をした挙句ようやっと出すのがカリスという女なのである。したがって、カリスがこの時間にこの場所へやって来るのは極めて稀なことなのであった。というより、例え客の相手をしていたとしても。一人で使用する事を前提とした湯浴み小屋へズカズカと入り込んで来るのがそもそもの間違いなのだが。
「あぁ。珍しく客がついたんでね」
嘘である。カリスは今日、アルサッカの麓にある森で大量の獣を狩り、一日中干し肉を作っていた。ムルフに「ウチを肉屋にするつもりか!」と、陽の入りに怒鳴られていたのをファティスも聞いている。過剰分を売り回って何とかムルフの溜飲を下げたのがファティスが客を相手にしていた時刻なのだから、客など取れるはずがない。
しかしファティスは言及せず「そうですか」と言うだけに止めた。カリスに気を使ったのもあるだろうが、圧迫され言葉が出ないのである。それを知ってか知らずか、一、二回湯を汲んでザブと浴びたカリスは「お疲れさん」と言って出て行った。呆気に取られしばらく不動となっていたファティスであったが、クスリと笑い、カリスの真似をするように行水をして湯浴み小屋を後にした。威風は伴わなかったがその背筋は伸びており、纏っていた影が霧散していくように濡れた肌が輝いて見えた。
カリスがなぜ、こんな時間に、しかもこんな場所へやって来たのかは分からない。ただ、闇に纏われつつある少女に光を取り戻させたのは確かである。それが故意なのか偶然なのかを聞くのは野暮であろう。部屋に戻り笑顔を浮かべて眠るファティスは、そんな事を望んでいないのだから。
「お前さんが稼いだ分だ」
翌日。朝一番にやってきたムルフは掃除をしていたファティスを無理やり座らせ、机の上にに金貨を並べた。一娼婦に支払われる額にしてはいささか多く、他の女が見たらヒステリックな声を上げかねない金だった。
「随分と稼いだじゃないか」
だが例外もある。
傍で茶を飲んでいたカリスはまったく気にもしていない様子であった。この女はやはり金に興味がないようだ。目の前の大金も仕事前の茶飲話の種になるなというぐらいにしか考えていないのだろう。また、受け取る側のファティスも「ありがとうございます」と驚きもせず和かに返すだけで、ムルフは気に入らなさそうに喉から音を発した。
「夜の分と今までの掃除代。それから、そこの穀潰しにやるはずだった金の半分だ。それと色を付けてやったからありがたく思ってくれ」
ムルフが支払いに色をつける事など今までありえなかった。彼をよく知る人間が知ったらさぞ驚くであろう。
「何だよ。私は半額でこき使われてたのかい?」
しかし、よく知るはずのカリスは気にもとめず、また、自身に払われるはずの金が少なくっている事にも非難めいた冗談を言うだけであった。
「この娘が掃除を変わったから他の仕事ができたんだろう」
「それもそうだな」
カリスは茶を飲み干して馬鹿笑いをした。眉間に皺を作っているムルフとは大違いである。
「あの……本当にありがとうございます……」
そんな二人にファティスは心からの礼を述べた。ムルフもカリスも感謝され慣れていない。恐らく、ファティスが来てから、一生分のありがとうを聞いたであろう。恨まれ、蔑まれるのを当たり前にしてきた人間が初めて受けた他人からの感謝にどのような想いを抱いたのか知る由もないのだが、少なくとも、ファティスとの出会いが悪縁となる事はないだろう。芯の強い者は、時として人に希望を与える。それが、波乱に塗れた人間なら尚の事。ムルフもカリスも人生を悲観ないし諦観している面が強く捻くれているのだが、それも人の弱さや醜さしか見てこなかったからである。ファティスのような、愚直なまでに清らかな人間ともっと早くに邂逅していたならば、二人の人生は別の道に向いていたかも知れない。
「……金を受け取って早く出て行け。今日の分の掃除代は入ってないからな」
そうぶっきらぼうに吐き捨てるムルフであったがファティスは聞かず、「最後ですから」と引かぬ為、カリスが昨日作った干し肉を提供する事で落着した。ファティスが掃除をしている間、カリスは外で仕事をし、ムルフは、私かに胸に仕舞っていた、子供用の髪留めとファティスを見比べ何やら感慨深げにしていた。ファティスはそれに気付いていたが見て見ぬ振りをして掃除を終わらせ、「支度をしてまいります」と部屋へ戻った。ムルフが涙を落としたのは、その直後であった。彼の過去について語る必要はないだろう。男が涙を見せるような事を記すのは無粋である。
「短い間でしたが、お世話になりました」
「あぁ。こっちに来たら顔出しなよ。辞めさせられてなきゃ、ここにいるから」
「……はい!」
昼前。娼館の前でファティスはカリスと別れの挨拶を交わす。
惜別の悲しみはない。容姿も身体も性格もまるで正反対の二人であったが、この十日間は姉妹のようであった。気心を許した相手ならば別れは決して辛くはないのである。生きてさえいれば、いずれまた会えるのだから。
「それでは、ごきげんよう」
ファティスは歩き出した。その足取りはしっかりと大地を踏みしめ、心なしか逞しささえ感じる。彼女が次に目指すはサンサッカ。アルサッカよりも勾配は緩やかだが、その道のりは長い。彼女はそこで新たな感情を発芽させる事となるのだが、今はまだ、何も知らずに、軽やかに進むだけであった。
「……行ったか?」
ファティスが去った後。ムルフがゆっくりと館の扉を開けてカリスに聞いた。
「なんだい支配人。あんたも挨拶すりゃよかったじゃないか」
カリスの軽口を「うるさい」と一蹴するムルフは、続けて「なぜ一娼婦が出て行くくらいで私が顔を出さないかんのだ」と踏ん反り返った。
「そうかい。ところで支配人。ヘイレンが滅びたってのは知ってるよな」
「お前、私を馬鹿にしているのか。何日前の話だと思っているんだ」
「そうかい。なら、そのヘイレンの王女様の事は知ってるかい?」
「王女?」
首を傾げるムルフに、カリスは微笑を浮かべた。
「なんでも、ヘイレンの王女様は、翡翠の眼と金糸の髪を髪を持っているそうだよ。おまけに雪のような白い肌をした美人なんだってさ」
「翡翠の眼……金糸の髪……雪のような白い肌……!」
カリスは大声で笑い、ムルフは震えた。二人がファティスの正体を明確に知るのは、これから少し先の事である。
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