落花7
さて。ファティスが働くようになって、娼館は少しばかり様変わりしていた。共有の空間は清潔となり、時には花などが花瓶に挿され飾られて、館の前の砂埃は途方に失せていた。
「おはようございます」
「……あぁ」
朝。忘れ物をして館にやって来た際にムルフが見たものはファティスの掃除姿であった。昨夜遅くまで客の相手をしていた娘が、早朝からやらなくともいい仕事をしている。ムルフはそれが気に入らないようで、咎めるようにしてファティスに言った。
「掃除や雑用は穀潰しのカリスの仕事だ。無駄な事はするな。余計な金を払わけりゃならんくなる」
「あら、それだと、今までの分、幾らか頂かなければなりませんね。私、今日までずっとお掃除をしていたんですから」
夜とは違い、ファティスは少女らしい顔の崩し方をして冗談を言ったのだが、女を扱う商売人は若さの誘惑に絆される事なく、眩い美顔に対してしかめっ面をしている。
「……カリスは?」
ムルフが本来の役割を放棄している女の所在を聞いた。ファティスがそれに応えようと、少しばかり口を動かしたと同時に、見計らったように勢いよく扉が開かれ、「薪は切り終わったよ!」とやかましい剛声が轟いた。ガタガタと頼りない音を立てる玄関板の上に立っていたのはムルフが館の掃除を命じていたはずのカリスである。彼女の上半身はほぼ裸体であったが、むき出しとなっている隆々とした筋骨に浮かぶ玉粒のような汗はエロティシズムから程遠く、嫌悪感すら抱きかねない過ぎたる健康体が、ムルフの弛んだ顔を震わせるのに絶大な効果を発揮したのであった。
「掃除はどうした! なぜこの娘がやっている!」
あまりに苛烈な怒号であった為ファティスは「きゃっ」と小さな悲鳴を上げたのだが、カリス慣れた様子ではいつものような笑みを浮かべ理由を説明した。
「どうしても掃除を代わって欲しいっていんで、私は後回しにしてた力仕事を片付けていたのさ。あんた、雨漏りが酷いって客と女共に文句言われてたろ。そいつを五日前に全部直して、その次に、棘が刺さるとか言われてた、ささくれてた湯浴み桶の修繕。で、割れた壁の補強を昨日終わらせて、今日は火の付きが悪かったから新しい薪を割ってんだよ。おかげで煩くなくなっただろう。感謝してほしいもんだね」
そう言われてみればとムルフはハタとした。最近は女共に何か言われることもなかったなと思い出したのだろう。彼は、うむ。と、考え込むようにして腕を組んだ。一見して冷静となったように見えるのだが、刻まれるつま先のリズムが、湧き上がった怒りと不満を持て余していると告げていた。
「あの……」
「なんだ!」
ファティスは再び「きゃ」っと悲鳴を漏らした。しかしこれは彼女のタイミングが悪い。
「えっと……」
すっかり肝を潰されたファティスは身を縮め影を作った。
激昂している人間に対してこういった態度は本来逆効果である。が、腹の辺りで指を交差させているファティスが自分より遥かに歳の下回る小娘だというのを思い出したのか、ムルフの怒気はなりを潜め「言ってみろ」と、いつもの冷淡な口調で聞くのであった。
「はい……あの、掃除の件は私が無理にお願いしたんです。それで、お金はいりませんので、どうか続けさせていただけないでしょうか……」
申し訳なさそうに上目となるファティスには妖花の芳香が漂っていた。先刻まで下女の如く埃を取っていた少女は瞬く間に艶やかな触手を伸ばし、ムルフに迫ったのだ。
その妖艶さは、私心を殺し慣れているムルフにさえ生唾を飲ませた。美しいというだけではない。若いからというだけでもない。
天稟
幸か不幸か、過酷な経験がファティスの持つ魔性を開花させていた。様々な男に触れ、彼女は知らず知らずの内に情動を突き動かす術を身につけていた。それに加えファティスの純粋である。汚れながらも真っ白な彼女の心は、淫乱な処女を求める男の理想に限りなく近い存在であり、神格の如く、幻惑めいた魅力を醸し出していたのであった。
この無自覚なる罪の創造主にどれだけの男が抗えるというのか。それは、数々の女を売ってきた、ファティスの雇い主であるムルフですら、俄かには答え難い命題であろう。
「……好きにしろ」
ムルフは逃げた。取りに来た忘れ物の事すら忘れ、立ち塞がるカリスの脇を通り抜けて足早に駆けて行った。背を丸めてそわりとする姿は少年のように青く見えた。
「あの支配人が骨抜きじゃないか。大した
カリスは豪快に笑って皮肉を飛ばした。迸る汗が掃除したばかりの床に飛び散り木目に黒い斑点を作る。ファティスはそれを眺め、カリスに釣られて顔を崩した。
ファティスはカリスの皮肉に気付いていなかった。ムルフが館を飛び出して行ったのは自分の愚鈍さに呆れ返っていたからだと思っているのだろう。そうでなければ、かようなる無垢な声を上げるはずがない。そうでなければ、男を魅了した後に、
「ご飯、食べますか?」
本人は気にもしないと言った様子でカリスにそう聞いた。カリスが「あぁ。いただくよ」と返事をする前から既に二人分の用意がされていた。
手慣れた手つきで朝食の準備をするファティスには年相応の可憐さとあどけなさが見られる。もはやムルフを退散せしめた魔は消えて、簡単な料理を作る少女の姿だけがそこにはあった。
ファティスは鬱として泣いているばかりではなかった。今のように炊事や掃除もしていたし、ファティスの掛けているエプロンも彼女の手製である。幾らか縫い目の荒い部分はあったが丁寧に織られており、胸の辺りに小動物の刺繍が
「本当に、大した女だよ」
今度のカリスの言葉は皮肉ではなかっただろう。なぜなら、彼女の表情はいつもの薄ら笑いではなく、慈しみを帯びた、母性が見える微笑となっていたのだから。
「ありがとうございます!」
ファティスの声は弾んでいた。美しく響くその声は、彼女がこの娼館を去るまで、ついぞ聞かぬ日はなかった。
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