落花6

 初仕事から六日が経ち、ファティスは不器用ながらも夜の仕事に勤しんでいた。

 床の仕方は未だに慣れないようだったが、それでも彼女を買った客は概ね満足していく。それは彼女の容姿の為でもあり、拙い対応が初々しく得難いという者もいた。しかし何よりも、ファティスの邪のない、献身的な態度が男達の琴線に触れるのである。


「不慣れで申し訳ありません」


 彼女はそう言いながら、必死に客に奉仕をする。それは男の胸の中だけではなく、部屋に入ってから出ていくまで一貫しており、ファティスは男に尽くしたのであった。「共する殿方の意を向ける為には器量良く賢女でなければなりません」というアルトノの教育の賜物でる。アルトノは普通なら侍女にさせるような小間使いをファティスにやらせ、時にはキイクロープスの身の回りの世話さえさせていたのだった(その際キイクロープスは引きつり笑いをしていた)。もっとも、斯様な事の為にアルトノが苦心していたわけではないのだが……


 ともかくそういった経緯によりファティスを目当てに来る客は後を絶たなかった。中には彼女を抱かず、会話の中でそっと手を触れるだけで満足する酔狂な客もおり異様だった。ファティスは彼らに対し、返って申し訳ないと言いつつ、内心では「助かった」と思っているようだった。

 とはいっても娼館は娼館。時には酷い相手に当たる時もある。




「娼婦が気取ってんじゃねぇよ。高い金払ってんだ。ほら、脱げ。素っ裸になって目の前で踊ってみせろ」


 


 歯が抜けた、酷い悪臭を放つ男であった。とはいっても下層に位置する人間ではない。そうでなければいくら金を積まれてもムルフはファティスに相手をさせはしない。

 商品に上等下等があるように、客にも上等下等の差は存在する。下等な客に上等な品を降ろすのは、商人にとって最も必要とされる、信用という武器を削ぎ落とす愚であり、最大級の禁忌といっても差し支えない。上等と下等を分け隔てるもの。それは身分と地位と資本であり、ファティスが相手をしている歯抜けの男は、三番目の資本により格を上げた人間であった。男の生業は金貸である。金を得れば得るだけ嫌悪される仕事をする中で彼の歪んだ自尊心は醜く肥大化していき「どうせ嫌われるのであれば、とことん醜悪に、悍ましくなってやろう」と、どす黒い執念を燃やしていたのだった。


「ほら、早く踊ってみろ淫売。それとも、ベッドの上でしか上手にできないのか?」


 ファティスは下衆な言葉を投げる男に従った。服を脱ぎ、昔に習った歌を歌い身をくねらせた。男はそれを見て品なく笑い、ひとしきり見世物にした後、粗野な手付きでファティスを押し倒し、自分勝手に果てたのであった。


「随分評判がいいと聞いたから買ってみたが、大した事ぁないな」


 去り際の言葉にファティスは堪えていた涙を落とした。身体は汚れていたが心は清いままだった。その清らかさが彼女を蝕んでいた。ファティスは度々自らの首を絞め窒息に至ろうとする事があった。しかし、その度に父の顔が、母の声が脳裏に蘇り、ひたすらに自己嫌悪するのであった。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 その謝罪は誰の為のものなのか。何の為なのか。それは彼女にしか分からないし、もしかしたら彼女にすら分からないのかもしれない。いずれにせよ、彼女は傷つき疲弊していた。


 ファティスの受難はまだあった。ムルフの娼館は女一人につき一部屋が当てられているのだが、そこには商品価値によって明確な区別がなされており、質の悪い女は豚小屋のような部屋に詰め込まれ、日夜山堀のような男達の相手をしていたのであった。

 そんな女達が美しく若い、しかもいきなり特室を与えられたファティスをよく思うはずがなく、醜女達は事ある毎にファティスに対して嫌がらせを繰り返していたのだった。無視や暴言は勿論の事。替えの下着に糞尿をかけたり、湯浴み用の湯が水に替えられていたというような陰湿な嫌がらせも受けていたのだが、ファティスはそれに対し受け身に徹するばかりで沈黙を貫いていた為に、女達の悪意は止まる事を知らなかった。木偶の如くやられるままのファティスを、不自由な顔をした人間がせせら笑っていたのである


 それを見て黙っていなかったのがカリスである。それは五日目の夕暮れ。つまりは昨晩の事なのだが、仕事が始まる前の時間。狭い広間で醜女同士が鳴いている中にカリスが割って入り、その内の一人の顔面を思い切り殴り抜けたのであった。耳障りな悲鳴がこだまし、それを聞いたムルフが駆けつけて来た。


「何があった!」


 息を切らせたムルフに、不細工の一人が狼狽えながらも嬉しそうに薄汚い唇を上下させる。


「こ、こいつがいきなりカチュアを殴ったんだよ!」


 ムルフは倒れているカチュアという娼婦を見て息を飲んだ。顔の正面はへこみ、前歯が弾き飛ばされた口と折り畳まれた鼻柱からドロドロと腐ったような血が垂れ流されている。おまけに失禁と脱糞までしており、この世の物とは思えぬ、魍魎の類のような格好をして転がっていたのだった。


「何を考えているんだ!」


 ムルフは蛮行を働いた巨大な女を怒鳴りつけ顔を赤くしていたが、「今度こそ厄介払いしてやる」という魂胆が透けて見えていた。しかし、「これを見なよ」と、カリスが鼻を鳴らして差し出した紙を見ると途端に肩を落とし、心底残念そうな声で「全員部屋に戻れ」と命令したのであった。


 カチュアと呼ばれる女は麻薬を売りさばいていた。エタリペアではそれを自分が使う分には誰も文句を言わなかったが、他者に渡す行為は硬く禁じられており、あまつさえ金銭のやり取りがあったとなればそれはもう酌量の余地のない重罪であった。カチュアと呼ばれた娼婦は、あろう事かローマニア内に存在する麻薬組織と内通し、売り子として密かに麻薬を売り捌いていたのだった。

 先にカリスがムルフに見せた紙は、ローマニアからの身柄引き渡し状だった(エタリペアは名目上ローマニア領である)。カリスがなぜそんなものを持っていたのかは不明だったが、ともかくとして無法者を粛清した人間を咎めるわけにもいかず、ムルフは改めてカリスを呼びつけて「やりすぎだ」と小言を漏らすだけに止めた。また、その日からファティスに対する嫌がらせがなくなったのは言うまでもない。




「あんた、黙ってちゃ駄目だよ。あぁいう輩は抵抗できない人間を食い物にしてるんだ。やり返さないと、いつかえらい目に遭うよ」


 カリスの言葉に何やら考え込むファティス。それを見て、カリスは「どうしたのさ」と聞くと、ファティスは小さな声でこう呟いたのであった。


「何だか可哀想で……」


 ファティスが口にしたのは哀れみの言葉であった。

 彼女はこれまで平民やそれ以下の人間と関わる機会がなかった。心の貧しさを、屈折した情念を知らずに生きてきた。ファティスにとっては、横柄な客も狭量な女達も、皆等しく哀れで、同情に値する精神の貧困者に見えたのである。


「私には、あんたの方がよっぽど惨めに思えるけどね」



 カリスが吐き捨てた言葉に、ファティスは自虐的に「そうですね」と返した。ファティス自身もそれを分かっていただろうし、ややもすれば自分の態度が侮辱に繋がりかねないのも知っていた。

 しかしファティスはどうしようもなかったのだ。

 

「私も同じだ……」


 彼女は一人の時間にそう呟く。弁明のような、諦観のようなその言葉は、全て失ったのにも関わらず生き延びている自分への戒めの意味が込められているように思える。約束の期日まで残り僅か。人生の中では短い間であるが、ファティスにとっては、永遠のように感じられているだろう。日に日に増えるファティスの傷跡は、世の悲劇を集めてまとめたようで、一つ一つに人間の業が刻み込まれているようだった。

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