落花3
幼いムルフはローマニアで集荷物整理の仕事をしていた。
母は死に父は病に伏していた。そうでなくとも金も資産もない貧民の家庭である。十年も生きていないムルフは、生きる為に働かざるを得なかった。
朝一番に起き、父親の世話をして街へ行き、意地の悪い親方から理不尽を受け、馬車に積まれてくる重い荷物を運び込む。それがムルフの日課だった。過酷で非常な現実であったが、この世の中で彼のような子供はそう珍しくもなく、また彼にとっても人生とはそういったものであると思考を止めて納得をしていた。
しかし、そんな価値観が一変する出来事が起こった。それはムルフが仕事の合間を縫って、路地に座り休んでいた時である。乾燥したパンを齧って飢えを満たしていたムルフのところに、見慣れぬ行商人がやってきてこう言ったのだ。
「君くらいの歳で、君のような生活をしている女の子はいないかい? もしいたら私に紹介してほしい。そうすれば……」
行商人はムルフに大銀貨を渡した。それは彼が一日働いて得られる十倍の金である。その金に、貧しいムルフの目の色が変わらぬはずがなかった。
「く、くれるのかい?」
「あぁ、この一枚は頭金だ。もし本当に女の子を連れてこられたら、これとは別に銀貨を四枚あげよう」
ムルフは慌ててパンを飲み込み、大袈裟に首を振って遮二無二走り出した。銀貨が五枚もあれば当分の食事には困らないし、父親を医者に診せる事もできる。こんな美味しい話はない。彼は何も考えず、手当たり次第に自分と大差ない生活をしている少女に声をかけて回った。しかし、誰もがムルフを怪しみその誘いに応じることはなかった。休息の時間もじき終わる。どうしたものかと途方に暮れていたムルフであったが、一つの名案を思いついたのであった。
「なぁ。ちょっと僕についてきてくれないかい? そしたらこの銀貨をあげるから……」
声をかけられた、一人の、乞食のような格好をした少女は二つ返事でムルフの誘いに乗ったのだった。やはりムルフと同じく、差し出された大銀貨に目の色を変えて……
彼はその日から銀貨一枚で貧しい少女を釣り上げて売っていき、いつしか自前の娼館を持つようになった。これが支配人と呼ばれている男の過去である。商売人として成長した彼は、突然舞い込んだ麗しい少女を商品にしようと目論んでいるのだが、いかに年端のいかぬとて、ファティスが夜迦の奉仕を知らなかったのは予想外であった。
「そんな事……」
ムルフから仕事の内容を説明されたファティスは青ざめ怯えた。無理もない。彼女がここに至るまでの経緯を考えれば至極当然であるし、そもそもが最上流の血筋である。娼婦に身を落とすなど本来ならばあってはならない。それも、こんな場末の娼館である。
だがそれもヘイレンが存続していた場合の話。ファティスが一国の王女であったのも、もはや過去の事である。今は身寄りのない放浪者の一人に過ぎない。
「できないというなら、どうやって金を返すね? 言っとくが、他の店はどこも雇ってくれんぞ。流れ者なんざ信用できんからな」
「……」
押し黙るファティスを、カリスは不思議な目で見つめた。世の全てに縛られない彼女にしたら、適当にあしらって逃げればいいだけなのだが、この美麗なる少女はそうもいかない。義理や道徳。施されてきた教育が、例え打算的なものであったとしても、受けた恩に背くを許さないのだ。
カリスが敢えて「逃げたいいじゃないか」と言わないのはムルフの存在もあるのだか、それ以上に、自分とは違う考えをしているであろファティスが、どのような決断を、どのような声で、どのような顔をして下すか興味を持ったからである。
「さぁ、早く決めろ。時間は有限だ。お前さんの為に、これ以上浪費する気は無い」
従うか逃げるのか、決断の時であった。
一度汚れた身とはいえ熟れる前の肉体が欲望の捌け口となり、恋を知らぬまま男の味を知るのである。血筋や産まれの区別なく、乙女が辿るべき道でないのは明らかではないか。悩まないはずがない。迷わないはずがない。そして、そのような方角へと足を進めたいはずがない。美顔は憂いを帯びている。ファティスの指は震えながら、欠けたカップを覆った。淹れられた茶にはまだ熱が残っている。その熱が白い五指に血の色味を与えた頃合いに、少女の唇は哀歌を奏でた。
「分かりました……貴方のお話を、受けさせて頂きます……」
「よろしい」とムルフはニヤつき、カリスは興が醒めたように茶を飲み干した。だが。
「ですが、一つお願いが」
ファティスの声に、二人は同じ顔をして彼女を見据えた。
「なんだ」
ムルフの声は落ち着いていたが明らかに苛立っている。言葉には出さないが「まだなにかあるのか」と、批難するような声色であった。ファティスはそれを察し一瞬たじろいだが、意を決したように、毅然とした口調で述べたのであった。
「カリスさんをお許しになっていただけませんか」
彼女の願いは清らかであった。失落し、汚物を
思わぬ条件にムルフは面食らったようでしばらく沈黙していたが、その後、二人の女を交互に見据え、わざとらしく、肩を落として「いいだろう」と呟いた。
実際のところムルフは、もはやカリスの事などどうでもよさそうであった。十日間だけとはいえ、金になる商品を売り出せるわけだから不良在庫を一つ抱えたところで釣りがくると考えたのだろう。
交渉によっては更にファティスの身を縛る事もできたであろうが、欲をかけば足元を掬われると経験上知っていたし、何より商売人としての哲学が彼に歯止めを効かせた。
「道を外した仕事はするし儲けが多いに越したことはない。安く商品を買って高く売るのは常識だ。だが、私心で動けば必ず失敗する」
ムルフは誰にも言わなかったが、そんな言葉を胸に掲げていた。
「もう話は済んだな。なら私は出かけねばならん。カリス。その娘を特室に案内してやれ。それから、二度と勝手にツケにしたりするなよ」
受付を兼ねた部屋は二人きりになった。再び世話をすることになったカリスに忙しなく言い聞かせて出て行ったムルフを見送り、ファティスは机に突っ伏した。ご丁寧に、カップが身体に当たらぬよう端に追いやって。
「いやすまないね。こんな事になっちまって。でも大丈夫だよ。すぐに慣れる。男の相手なんざ、大した事はないさ」
先にファティスの軽率な発言を咎めた人間の言葉とは思えなかったが、彼女は彼女で気を遣っているつもりるしい。
「……うぅ…………」
しかしカリスの一方的な心配りも虚しく、ファティスは顔を伏せたまま泣き声を漏らし始めた。厚みのない、薄い肩が細かく上下し、折れた腰は弱々しかった。この少女が、これから数多の男に、金の為に抱かれるのだ。薄汚い獣が、白い肌に舌を這わし、乳棒を噛み、秘部を弄り、肉を繋げ一帯となるのである。あの夜のエルディーンのように……
ファティスが泣き止み
「だったら部屋に行こう。部屋といっても売り場を兼ねてるから、あまり好き勝手はできないけどね」
そう言って通されたのは、ファティスが寝かされていた部屋の更に奥であった。扉を開けた先は純白の壁に覆われていて、豪華なベッドが置かれ、上等な家具があった。さすがに城の一室とまではいかないが、彼女が寝かせられていた部屋とは随分な差である。
「いい部屋だろ。ここは特室っていって、売れてる女じゃないと貰えない部屋なのさ。あんたは綺麗だから、まぁ特別なんだろうね。私には縁のない場所だよ」
ファティスは少しばかり安堵した表情を浮かべ、そのまま倒れてしまった。カリスは「よく倒れる奴だよ」と憎まれ口を叩きながらもファティスをベッドに寝かせ部屋から出て行った。
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