落花2
ファティスが目覚めたのはそれから丸一日経った頃である。万全とはいえないまでも血色は幾らかよくなり、眼の翡翠は艶を取り戻していた。
「私は……」
半身を起こし周りを見渡す。彼女は自分が小さな部屋で、粗末なベッドに寝ていた事に気がついた。
「……」
怪訝な面持ちでファティスはベッドから降りた。一瞬ふらついたが別段支障はなさそうである。己が四肢を見て五体に問題がない事を確認した彼女は、そのままゆっくりドアへ向かって歩き出し、ノブを回して扉を開けて、廊下に顔を出す。するとすぐに、男の怒鳴り声が聞こえてくるのであった。
「いつまであんなのを置いとくつもりなんだ!商売の邪魔だ! それに勝手に薬と包帯まで使ったな!?」
怒り心頭に発するといった様子である。それに対して、返事をする女の声はまったく
「仕方ないだろ。起きないし、身体も汚かったからちゃんとしないと膿んじまうよ」
「自分で面倒見切れないくせに首を突っ込むな! だいたい……」
声を荒げる男は顔を真っ赤にしながら唾を飛ばし前のめりとなり、口から火炎でも吐くかのようにその語気には力が入っていた。しかし、それを途中で遮ったものがあった。コンコン。と戸を叩く音が家屋に響いたのだ。その後に、「ごめんください」という声もあったので、男は話を中断しないわけにはいかなかった。
「何だ! 誰だ!」
「すみません。アラサブですが……」
「アサラブ? 何の用だ」
男の声に連れられて入ってきた痩身蒼白の男はアサラブという医者である。彼は気は弱いが腕は確かで、外科手術や薬草の調合。あん摩や整体術といったものまでその身に収めた実践派の名医であった。
「何の用だと言われても……ご存知ないのですか?」
男はいまいち要領を得ないようで、「知らん」と不機嫌に応えた。
「カリスさんから診てくれと言われこちらにお伺いして、女の人を診断したんです。それで、お代は後ほどと伺いました」
アサラブの話を聞いた途端、先ほどまで喚き散らしていた男は急に黙り、じっとカリスの方を見た。カリスは不敵な笑みを浮かべ「支配人払っといてくれよ。後で返すから」と、自分に支払い能力が無いことを述べたのであった。
「……いや、返さなくていい。今ここで、私が払う」
「そうかい? 悪いね。その代わりしっかり働かせてもらうよ」
「そうか。せいぜい頑張ってくれ。ウチ以外でな」
男は笑っていたがその眼には憎しみが込められていた。そもそも人助けをして咎めるような性格の持ち主が、何の打算も思惑もなく金を出すことなどありえないのだ。アサラブに渡す金は、いってしまえば手切れ金代わりである。カリスとてその意味は理解しているであろう。しかし、その上で尚も「分かった」と返事をするカリスの表情は、変らぬ笑みが作られていたのだった。
「厄介者のお前がここらで生きていけるかは知らんがな。どうだアサラブ。お前、雇うか?」
呆けながら二人の争いを見ていたアサラブは男の軽口に「いやぁ」と目を逸らし言葉に窮していた。よほどカリスを使いたくないのだろう。彼の額には汗が噴き出している。
「ローマニアを追い出されたお前がどこに行くかは知らんがね。いっそパルセイアに行くか? 馬の代わりくらいさせてくれるかもしれんぞ」
皮肉とも冗談とも取れない文句であった。
「それもいいね。まぁ、なんとかなるさ」
それでもカリスの微笑が崩れることがなかった。支配人と呼ばれる男はその綻びが決して強がりや虚栄ではない事を知っている為により憎らしいといつまた風に舌を鳴らし、「早く出て行け」とカリスを急かした。その時である。
「あの……」
か細く不安そうな声を出す少女は集まる視線に気後れしながらも、彼女はよく通る可愛らしい声を響かせたのであった。金糸の髪も翡翠の瞳も、場違いなほどに気品高く不相応な存在であったが、彼女は気にもせず問うたのであった。
「申し訳ございません。こちらは、
「そうしますと、カリス様が私を助けてくださった為に、こちらを去らねばならぬという事態になってしまわれたと……」
椅子に座ったファティスは申し訳なさそうに目を伏せた。落ちた視線の先には薄い色をした茶が淀んでいる。その茶は無論、カリスが勝手に用意したものであった。当然のことながら、味も香りも粗悪である。
「気にする事はないさ。私はどうやっても生きていけるし、死ぬなら死ぬで、ただそれだけの事なんだから」
あっけらかんとしているカリスであったがファティスの顔は晴れる事はなく、膝の上で握っている手を硬くした。自責の念に駆られているのだろうか、強く目を閉じ、肩を震わせている。そんな彼女を見て、男は御構い無しに「それだけじゃないぞ」と口を開いた。
「お前さんに使った包帯。薬。一泊分の宿代と、今出している茶代。こいつらはしっかり戴く。このバカ女が溜め込んでるとも思えないが、いったいどうやって払うつもりだね?」
嫌味ったらしい男の口調には粘つきがあり、なんともいえぬ不快感というか、他人の気を重くさせる性質があった。しかし、その悪性もカリスには効かないらしく、ファティスとアサラブが眉をひそめる中、一人だけ平時と顔をしていた。だが。
「金は出すと言ったじゃないか」
「アサラブにやる分はな。他は知らん」
男の言葉に、さすがのカリスも黙ってしまった。金も働き口もない彼女が「私が払ってやる」と言っても男は信用しないのを知っているからである。
「あの、また伺いますので本日はこの辺りで……」
「そうか。すまんな」
険悪な空気に居たたまれなくなったのか、アサラブはコインをいくつか置いて去って行った。男は止めもコインを拒みもせずそれを見送り、大きな溜息を吐き腕を組んだ。
「それで、どうするつもりだ?」
男はファティスではなくカリスに問い詰めた。それは彼がファティスに気を使っているわけでもなければ特別カリスに責任を押し付けたいわけでもない。そもそも薬と包帯とまずい茶と、くたびれた部屋の貸し賃などたかが知れている。金額を言えば、カリスにだって何とか消えせる額かもしれないし、払えなくとも適当な行商人を引っ掛ければ一夜で返済が可能なのである。だが男は、それでは困るのであった。なぜなら……
「あの……なにか私にできる事はありませんでしょうか……こうなったのも元はと言えば……」
「ほぉ。なるほど」
わざとらしく頷き男は目を見開いた。彼はまさにその言葉を待っていたのである。舐め回すようにしてファティスを眺める男の眼は、異様な光沢を放っていた。
「下手な事を言うのはやめときなよ」
カリスの表情が変わった。上がっていた口角が平となり、嗜めるような冷めた目付きでファティスを見据えている。
彼女がそういった顔を覗かせるのは極めて稀であったが、「黙っていろ」という男の一言により、カリスは黙する他なく、仕方なく茶をすするのであった。
「お前さん、年は若いが中々いい女だ。どこの誰だか知らんが、どうだ、うちで十日間だけ働いてみないか。そしたら今回の事は水に流して幾らか工面もしてやろう。どうだ」
「本当ですか!」
ファティスの声は跳ね上がり美しい笑顔を咲かせたのだが、それを見たカリスは呆れたような口調で一言漏らした。
「娼婦に堕ちるのが、そんなに嬉しいもんかい」
一瞬にして静まり返り、男が「余計な事を言いやがって」とカリスを睨んだ。しかしファティスは惚けた顔をして、こう聞いたのであった。
「しょうふ……? とは、なんでございましょうか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます