落花1

 アルサッカとサンサッカの両峠はニ柱の神が変化した姿と伝われている。

 主神アルダインの息子であるアルとサンは、どちらが優れた神であるかと口論となり、やがてその身をもって争いを始めたのであった。二柱は百二十年もの間暴れ周辺に甚大なる被害を及ぼした為、アルダインは止むを得ず息子たちを石に変えてしまったそうだ。その際にアルダインが流した涙が、両峠の間にある湖、レイクラマスアルダイトだと云われている。




 ファティスはよろめきながら、細く頼りない脚で第一の峠、アルサッカの勾配を進んでいた。その出で立ちは、ボロ布と化した衣装を何とか繕って纏っているだけである。剥き出た彼女の四肢は、埃と傷と血で彩られていた。


 城が落ちてからまる半日。追っ手が来ないのを見るに、ファティスは、自分が死んだと判断されたか、あるいはそれ以上に優先すべき事があるのだろうと考えていた。それ以上に優先すべき事。とは、王亡き後のヘイレンに対する、最後の一手である。

 エルディーンは死んだであろうが、その後釜がいないとは考えられない。現に副騎士団長のルインは城に留まっている。彼が何も知らずにその身を置いていたというのは考え難い。十中八九、エルディーン側に立っていたであろう。彼が此度の沙汰の事後処理をして事を進めているとするのは、推測の域を出ないが妥当な思考である。死体の損傷が少ない王と王妃が死んだのは既に知れていはずである。ならば、姿の見当たらないファティスを探すよりも、速やかにヘイレンを掌握し、次にマーネンにいる残党兵を叩いた方がパルセイアへの貢献になると考えるだろう。

 マーネンに集結したヘイレン軍の正面をパルセイアの本体が叩き、後ろからルイン率いる逆臣兵を進軍させ挟撃戦を敢行する事もできるし、ヘイレンをルインに任せ、兵糧攻めをする事もできる。もしくは、裏切り者達が援軍と偽り、籠城しているヘイレン軍を内部から食い破るという外道も可能なのだ。パルセイアがそういった手を使うのは十分にありえる話である。いずれにせよ確かなのは、残った兵達は無事では済まないという事である。


「民や兵達が無事ならいいのですが……」


 独り言は祈りのようであった。マーネンにはヘイレンのほぼ全軍が集結していたが、王が討たれ、補給も不可能となった現状に希望はない。また、ヘイレンに住まう民草がどのような扱いを受けるのかも分からない。歩き通しで今にも倒れそうなファティスは己の身より、力無い民草と屍を重ねるであろう兵達の事を想ったのであった。

 


「……っ!」



 岩肌が露わになった地面にファティスは足を取られ倒れた。アルサッカの足場は悪く、歩き慣れた者でも事故を起こすことがある険しい山道である。野を駆けただけで悲鳴を上げるファティスの可憐な両足が崩れるのは必然であった。それに……


「う……!」


 ファティスは倒れたまま嘔吐した。見れば汚れきった顔は熱みを帯び、異常なまでの汗が噴き出している。発熱しているのは明らかだった。一夜にして起きた波乱が、彼女の心身に多大な負荷をかけていたのである。


「お母様……お父様……」


 少女の身体から力が抜けていく。命の躍動が小さくなっていく。激しかった息遣いも次第に弱々しくなっていき、血の気は引いて、汗も止まっている。まるで死体のようにピクリとも動かない。死神の大鎌がファティスの首に添えられたようだ。何もかも失った亡国の王女は、その命さえも蝋燭の儚火はかなびが如く消え去るのであろうか……





「何だ。死体か?」


 意識のないファティスの元に、人影が一つ。随分と逞しい、大きな人影であった。


「……生きてるのか」


 人影はファティスの細い呼吸音に気づいたようだった。しかし、だからといって何をするわけではない。それは決して非情な人間だからではなく、ファティスの形を見て、このまま死んだ方が幸せだと思ったからに違いなかった。この巨大な人影は、カリスという女はそういう人間である。刹那的で、あらゆるものに拘りを持たない。それは自らの生死にもいえ、生きているから生きている。死ぬのだったら死ぬのだろう。という、身もふたもない考えによって彼女は行動していた。


 そしてその破滅的な価値観はしばしば他人に対しても用いられる。


 奴隷のような服装で息も絶え絶えな人間なんてのはこれから先、生きていたってどうせろくな目には合わない。死んだ方がはるかにマシなのではないか。


 と、彼女はそんな風に考える性格なのである。だが……


「たす……けて……」


「……」


 多くの人間は、自らの生を諦め切れない。この時ファティスは半ば無意識であったが、彼女の命が、傍に立つ人間に救いを求めたのだった。

 助けを懇願する見知らぬ少女を前にカリスは少し考えたようであったが、「うん」と唸って逞しい腕でファティスを抱えた。彼女の頓着のなさは善意も悪意も、自己も他人も超越しているのである。カリスは少女を、荷物か何かを持ち上げるように拾い、肩に担いで峠を登って行くのであった……







 アルサッカ峠の頂上は道中と打って変わって安定した大地が広がっている。

 ここでは昔、一人の商人が同業者や兵隊相手に商売をしていた。最初こそ「すぐに破綻するさ」と笑われていたが、ローマニアと他国を結ぶアルサッカでの商売は予想異常に儲かった為、他の商人もこぞって店を開き発展していった。そうすると商人以外にもそこに住み着く人間が出始め、峠の頂上は、小さな町のようになっていたのだった。今ではこの峠の町は、開拓者である商人の名にちなみエタリペアと呼ばれている。


 そのエタリペアの路地奥にある、日が当たらぬ一角に、他の商店とは違う怪しげな雰囲気を出した小さな建物があった。そこは宿にしては小さすぎたし、酒場というわけでもない。休憩所という表現が近いように思えるが、その割にもてなすような設備は皆無で、せいぜい薄い壁に覆われた個室に粗末なベッドがあるだけだった。まだ陽は高いというのに、人の気配はまるでしない。


「今帰ったよ。支配人」


 カリスはそこに慣れた様子で足を踏み入れ、背を向けて窓の外を眺めている男に挨拶を投げた。ボロボロの少女を抱えた巨体がかような場所に入っていく様はまったく異様な光景であったのだが、彼女はまるで気にもしていなかった。


「あぁ。ちゃんと値切って……」


 支配人と呼ばれた男は振り返りカリスを見て驚愕していた。麓の村で行われる市へ買い出しに行かせたはずなのに、奴隷商の仕入人みたく肩に女を乗せて帰ってきたのだから無理もない。


「それが無理だったんだよ。なんでもヘイレンが攻め落とされて、村まで品が回ってこないらしいんだ」


 間抜け面を晒している男を尻目にカリスはその場を立ち去ろうとした。本当に、何事もなかったかのように、平然として。


「ま、待て」


 当然、彼女を呼び止めた。脂肪がよくついた赤ら顔であったが、血の気は引いている。


「なんだい。釣りならないよ。私の朝飯代に当てちまったんだから」


「その女はなんだ!」


「拾った」


「ひ……」


 男は信じられないといった目をして絶句し、大きくため息を吐いて近くにある椅子に座った。座ったというより、自然と腰が落ちていったようである。急に脱力した彼は腰を曲げ、落ち着かせるように深呼吸をしてから低い声で「捨ててこい」と疲れ切ったように言った。


「いいじゃないか別に。迷惑はかけないから」


「もうかけているんだよ。いいかカリス。私はろくに客の相手もできないお前を追い出さず使ってきてやった。今日みたいに買い出しに行かせたのもそうだ。この辺りで馬鹿な値段を付けてる輩に金を払うより、お前に釣銭をちょろまかされた方がまだ我慢できると考えて仕事をやった。暇をしているお前の為にだ。だがその結果がこれだ。そんな女を連れて来てどうするつもりだ。飯は? 水は? その格好じゃ服も買わなきゃならんだろう。それに怪我もしている。事によっちゃあ薬もいるだろう。それを誰が用意するんだ? 朝飯代も自分で払えないお前が世話をするのか? だいたいそんな形だ。厄介事に巻き込まれているに決まってる。私は面倒はごめんだぞ。いいかカリス。ここに居続けたいんだったら……」


 まくし立てる男の言葉を「はいはい」と言って聞き流しながら、「とりあえず私の部屋に寝かしておくよ」とカリスは奥へ引っ込んで言ってしまった。男は大きな声を出し彼女の名を叫んだが、ただ虚しく響く自分の声に、頭を抱えるばかりであった。

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