憂国の姫君3

 マーネンに集結した兵達が三度目の斜陽を見送っている頃、キイクロープスはその日に送られてきたクルセイセスからの書簡を読んでいた。

 それは両断した使者の首を送りつけた蛮勇への皮肉のこもった賛美と、滅びへ向かう者への手向けであった。


「これ程までこのクルセイセスに挑戦的な者はいなかった。過ぎたる愚行であるが、その恐れ知らずに免じ貴公の名を我が国の歴史に刻んでやろう。亡国の王よ。その花を可憐に散らし、我が慰みとなる事光栄に思え」


 手にした手紙を破り捨て、キイクロープスは執務室を後にした。その行いは怒りからくるものなのか、はたまた憂からくるものなのか……その心中は王にしか分からなかったが、彼が寝室に入ったおり、アルトノはその尋常ならざる悩みに触れたようで、老いた肉体をしっかりと抱きしめ妻の役目を果たした。

 言葉はいらなかった。喋れば禁句が口をついて出てくる事をキイクロープスは知っていた。戦いの前、国を背負って立つ人間が口にしてはならない言葉がある。弱気。不安。恐れ……僅かでも漏れてはならぬ。心許した相手ならばなおの事。王の矜持とは孤高である。一国を背負うには、まさしく頂きに立つ孤でなくてはならない。いかに良き臣下を持とうと、いかに民草に愛されようと、王の傍に立つ事ができるのは、また別の王しかいない。

 王妃の務めは、その王がその高みから転落せぬよう、立つべき所を示す事にある。アルトノの抱擁は、弱気が差していたキイクロープスの心を確かに奮わせたのであった。





 時を同じくしてファティスはバルコニーで夜を眺めていた。経験のない、戦争という暴力的な外交が始まるのを前にして、自分の立ち位置をどこにやればいいのか分からず思い悩んでいるのである。


「一国の王女たれば、この身嬲られ、絶えようとも……」


 穢れを知らぬ無垢なる少女が呟いた。

 彼女がいかなる想像を働かせようとも、世に蔓延る悪鬼の所業には到底考えが及ばぬだろう事は明白である。頭に巡るは、稚戯にも等しい細やかな辱め程度のもの。それにも関わらず己が両肩を抱き震えるのは、覚悟不足とも世間知らずとも、また純粋ともいえる。いずれにしろ、この娘は戦争とはいかなるものかを知らない。敗者がどのような扱いを受けるかを。人間が、玩具の如く使われるのを……





 夜は深まった。ファティスはバルコニーから戻ったはいいものの寝付けず、闇の中でその両眼を見開き俄かに見える天蓋を眺め、未だに脈打つ胸の鼓動に悶えていた。

 何度目かの寝返りを打ち、彼女はついに起き上がり部屋を抜け出すに至った。頃合いは草木のざわめきさえ聞こえぬ程の時刻。いかに城内といえど、一人の娘が、それも王女が出歩いていい時ではなかったが、彼女は度々このような戯れを繰り返していた。


 広い廊下を忍んで歩き、向かう場所は庭へと通じる裏口である。ファティスは昔から寝つきが悪いと決まって夜の世界に身を投じる癖があった。星光に当たる植物達は、昼間とは違ってしずとした鋭い芳香を発する。それを纏うと、少女の落ち着かぬ四肢や走る脈は沈まり、いつの間にやら夢の世界の招待状が届けられているのであった。この日も彼女は、目に見えぬ妖精が虚ろなる国の客間へと案内してくれるだろうという算段であったのだが、急に響いた、つんざくような悲鳴が細い二本の足を止めたのであった。


「……っ」


 あどけなさが残る少女は臆していたが、王女たる者の責任か、はたまた子供の好奇心からか、ファティスは悲鳴がした方へと進んで行った。辿り着いた先は王の、我が父の寝室……そこからは、ぎしりと、何かが軋む音と、水滴が滴る音が聞こえる……


「何かが起こっている。異常な何かが」


 ファティスの脳裏にそう浮かんだであろう。目は大きく見開き、酸欠に陥ったように呼吸は荒い。しかし、それでも彼女は、そっと寝室の扉を開け部屋の中を覗き見た。すると、そこにあるのは、松明に照らされる、鉄槍に串刺され血を滴らせる父と、猿轡をされ、幾人もの男に汚される母の姿であった。


 「ひっ!」


 口を開いてしまった。声を出してしまった。悲鳴を上げてしまった。

 いかに蛮行を働いていようとも、部屋の中にいる男達が美しく若い少女の、鐘の音のような声を聞き逃すことはなく、また、部屋の中に招き入れないということもなかった。ファティスは首もとを掴まれ、この悪夢よりも凄惨な、現実の惨状へ招かれたのである。雑に引っ張られ、潰されるように床に伏せられた彼女に向かって、一人の男が膝を屈してにやりと笑った。


「これはこれはファティス王女。かような夜分に如何なされましたか」


 平伏するのは、騎士団長のエルディーンであった。彼はファティスを前にして、娼婦を見るような目をしながら付いた膝を立て直した。


「これは……」


 ファティスは現状が把握できないのか口を開いたり閉じたりしていたが、ようやく出た言葉がそれであった。

 未だに犯されるアルトノは娘に気づき、この場から逃れんと必死に抵抗しようとしている。しかし、それは暴漢達の欲情をより一層唆らせる効果しかなかった。


「なんだ。娘に見られて良くなってきたんじゃないか?」


「王妃様に比べたら娼婦も聖女だな」


 下衆な笑いがこだまする。抗えば争うほどに、アルトノは嬲られ、汚されていく。よく見れば、この男達は皆ヘイレンの兵であった。それが、仕えていた国の王を殺め、王妃を……





「やめなさい! 不敬ですよ!」


 震える声でファティスは叫んだ。しかしそれも男達の慰みにしかならず、誰一人として、かつてのように彼女を敬おうとはしなかった。


「おやめなさい! 今ならばまだ……」


「王を殺して王妃を犯して、今更どうにかできるわけないだろう!」


 エルディーンはファティスの頬を殴った。硬く握られた拳が少女の顔面を撃ち抜いたのである。この暴挙に他の兵達は声をあげた。


「団長! 王女はクルセイセスへの貢ぎ物だと……」


 途端、一人の男の首が飛んだ。揺らめく火に、鮮血の花弁が照らされる。


「クルセイセス陛下だ」


 エルディーンは恐ろしく冷淡にそう告げ、更に続ける。


「事の次第に気付いたファティス王女は、自ら舌を噛んで自害致しました。生きて捉えられなかった不覚者は処分致しましたが、私自身も責の一旦を背負うは騎士として当然の慣し。が、此度は我が部下の首一つで落着と温情を賜れば、このエルディーン寛大なるクルセイセス陛下にますますの忠義を持ってお仕えする所存にございます……と、こんなところでいいだろう。元より陛下の狙いはヘイレンの土よ。田舎娘の一人や二人死んだところで、さしたる罰は受けんさ」


 この言葉にエルディーンの部下達は黙るしかなかった。


「買われたのは俺一人だが、どうしてもといって何人かはまとめて面倒を見てくれる事になった。俺はお前と天下を取る戦いに参加したい」


 これがエルディーンの甘言であった。

 あくまでエルディーンのおまけとしてパルセイアに雇用されると思っていた兵達にとっては、エルディーンに意を唱えることなどできるはずもなく。ただ彼に従い信じるしかなかった。しかし実際にエルディーンがパルセイアから高く評価されているかというとそうでもない。


「キイクロープスを殺せば我が国の兵となる許しを与える」


 エルディーンがパルセイアから受けた密書の内容である。これが露見したとしてクルセイセスにしたら僅かな面倒が増える程度のもので、エルディーンがどうしようが然程の関心はなかった。ただ彼は、己が剣に覇道の夢を見た。最強の国に仕える最強の騎士だと酔いしれ、その言動は、身の丈に合わぬ鎧を着飾っていた。


「ではファティス様。僭越ながら……」


 エルディーンはファティスの薄着を破り、乙女の柔肌を、未だに最中であるアルトノの前に曝け出して、彼女の娘が持つ花を踏みにじった。赤く染まった密が滴る。アルトノは目を逸らさず、血涙が流れるまでその様子を眺めながら猿轡の中で呟いたのであった。


「殺してやる」


 と。

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