第7話
「あたしは目が見えないんだよ……」
ヨリタマは複雑な気持ちで答えた。確かに語り部になれれば、自分の背負っているものの大半が消え去り、気持ちが楽になるだろう。けれど、彼女は自分自身が信じられない。それなのにアワナミは彼女のでたらめを信じている。決して疑おうとしない。そのことが彼女にとって何よりも不思議なことだった。
「アワナミ、最初に捨てられた子供の話を聞いたことがある?」
アワナミは彼女から話しかけるなど珍しいと思いながら、「知らない」と答えた。
アワナミとは別れて、ヨリタマは独りで光の穴道に立っていた。
彼女がじっと見つめるずっと先に、あの得たいの知れない小石が転がっている。
どす黒い感情に満ちた石。
あの石は卵だ。なにかを孕んだ不吉な卵。ドクンドクンと脈打ち、緑色の薄い胎膜に穴があく。六本のかぎ爪が胎膜を引き裂いていく。どろりとした濁った血。煮凝りのような血がぼとぼとと爪を伝ってしたたり落ちる。そこから産まれてくる黒い影。
彼女は幻視のただ中に立ちすくみ、どうしようもない震えを抑えて黙っていた。ぐわんぐわんと頭の中で言葉が響く。
死! 狂気! 殺意!
叫び声の合間から、赤子の泣き声が聞こえる。
彼女の体がびくんと震え、たちどころに幻視は霧散した。
赤子の匂いは石の方向から漂ってくる。
あの石は汚れている。浄化しなければ。彼女の脳裏にあのカグツチの炎が浮かんで消えた。
彼女は急いだ。石を浄化する前に赤子を養育者の洞穴に連れて行き、アワナミに渡さなければ。
淡い光の下に白い毛並みの赤子がいた。あの石のすぐ手前に降ろされていた。珍しく布にくるまれているのか、小さな手足が見えない。そういえば、泣き声を感じてから、本当に赤子の声を聞いただろうか。
彼女はそろりと赤子に近寄った。
赤子はもぞもぞと動いていた。手足がなく、白い毛並みに覆われている丸い塊がそこにあった。顔すらない。
彼女は延ばしかけた手をそのままとめた。
なぜかしら、恐怖を感じない。
自分はこの毛の塊が何か知っている。この世の最初に捨てられた子供だ。そして、その名をためらいなく呼んだ。
「ヒルコ……」
毛の赤子にぽっかりと口のような穴があく。もぞもぞとその穴が蠢き、彼女に言った。
「あたしはずっとここにいた。捨てられる子供の中にあたしの民になる者を探してきた。光の民でも闇の民でもない者を捜してきた。あんたは充分にあたしの民になる資格を持ってるんだよ」
ヨリタマは強固に言い放った。
「これはあたしが産んだ幻だ……あたしにも生まれてきた意味があると思おうとして作った嘘だ」
彼女は声は低く震えていた。耳を伏せ、念じるようにこぶしを握り締めた。
ヒルコはいつのまにか、ヨリタマ自身になり、光の穴道に立っている。
「あたしを拒んじゃいけない。あたしは幻じゃないし、この石のイメージも嘘じゃない。これは避けては通れない闇の民の歴史の一つなんだ。でも、あたしがいれば大丈夫。今まで見てきた恐ろしいものは、もうあんたをおびやかさないから」
ヒルコは彼女の手を取った。そして、反対側の手で不吉の石を拾った。
「あたしはどうなるの? ヒルコはあたしに何をさせたいの」
「運命を変えていくんだよ。長い時間をかけて変えていくんだ」
ヨリタマはなぜか安堵している。
からっぽの器の意味がようやく分かった。
彼女の目は最初からヒルコだけを見るように作られたのだ。
闇の中に、手をつなぐヒルコの姿だけがくっきりと浮かび、彼女は穴道を下って行く。ヒルコは彼女がやろうとしていることを知っていて、それを助けてくれている。
沸き上がるように「ウラショラヨラショラ」と掛け声が響いてくる。熱気も高まってくる。強烈な硫黄の臭気。
道に迷うこともなく、ヨリタマは鍛冶師の洞穴にたどり着いた。
「語り部のまえであたしに話しかけたおばあさんはあんただったの?」
ヒルコはわざとらしく牙を剥き出して笑った。
「あたしに本当の姿はないの。今の姿も借り物。あたしがどんな姿だったら、あんたはあたしを認めるの?」
彼女はじっとヒルコを見つめた。彼女たちは双子のようにそっくりだった。彼女はヒルコ以外見えない闇の中で、決心したように息を大きく吸った。
「そのままでいいよ、あたしとあんたは同じ独り者なんでしょ?」
それを聞いて、ヒルコは微笑んだ。
二人は鍛冶師の洞穴に入っていき、周囲から聞こえる声を無視して、赤い溶岩の池のふちに立った。
いつの間にか、緑の石はヨリタマの手の中にあった。もう痛みなんか感じない。
石はぽちゃんと溶岩の池に落ち、不吉な力が彼女から遠のいていく。石は暗闇に現れた赤い大きな手にすくわれ、包み込まれた。カグツチの神は光の民の欲望を飲み込み、また闇の中に沈んでいった。
「さぁ、大きな声で言って。語り部になるのはあんただって」
ヒルコはギュッと彼女の手を握り締めてささやいた。その手の力はアワナミの気休め程度のそれとはまったく違っていた。
ヨリタマは鍛冶氏たちの存在をひしひしと感じながら、大きな声で告げた。
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