第4話

 ぼんやりとしていたあの白い染みがずんずん拡大されていく。はっきり見えるようになると、そこには女の子が立っていた。じっとこちらを見つめている。茶色の瞳がくるくるとかなたを見つめ、かなたの果てに何かがあることを知っている。けれど、ヨリタマは知っていた。かなたなどない。少女の小さな目に映っているのはヨリタマの姿だった。

 静かな眠りの淵にたゆたい、いつの間にか意識は遠のいていった。

 ハッと目が覚めた。

 なじんだ木の根の寝床の匂いと温もり。そして、相変わらずの闇。

 ヨリタマは右手で壁を伝い、仕事のため、そしてなじんでしまった習慣のために地表すれすれの穴道へ向かった。

 光が闇を切りつけているのが遠くから分かった。あそこへ行けるのは彼女だけ。光を浴びてもやけどや火脹れができないのは彼女だけだった。

 幾筋ものか細い光に照らされる細い穴道が、曲がりくねりながら地中をうねっている。

 あの白い蛇のことを考えた。

 昔、語り部は闇の世界のことを蛇だと言った。穴道は、大地の下に重なり合って眠っている蛇のようだと。その奥深くに熱泥の炎があり、蛇はそれを玉にして抱いている。

 光を浴びる明るい穴道には、しかしそんな怪しげな雰囲気はなかった。安穏とした空気が、冷たい闇の空気とせめぎ合っている。

 ヨリタマが光の方へ入り込むと、なぜだか彼女にしがみついていた暗がりが、おびえるようにスッと退いたかに見えた。

 いつものように彼女は穴道を調べて歩いた。いつごろからか、彼女が眠っている夜に、こっそりとだれかが行き来しているようだ。何をしているのかは分からないけれど、物好きもいるものだと彼女は思っていた。月の仄かな光すら体が痛むのに、何の為なのか? ただ天井の穴へはい上がろうとする痕跡があるだけ。

 その土壁に真新しい爪痕があった。周辺の地べたにきれいな石がいくつか落ちていた。赤、青、黄、緑、乳白色、大きさといい文字石に使われる石に似ている。けれど、落ちていたその石には文字はなく、加工されたのかつるつるに光っている。

 ヨリタマは何げなく拾い、首にぶら下げた袋から文字石を出して、見比べた。

 どちらもきれいな色をしているけれど、滑らかな石の方は不安な色がにじんでいた。

 ヨリタマは不思議に思い、石を光にかざしてみた。

 不安、それと恐れ。期待。

 ひとつひとつ石を光にかざした。五つの石から焦りと不安が漂っている。

「あっ」

 次に手に取った緑の石を、彼女は驚いて落としてしまった。

 今までのとは根本から違う。再び拾う気になれず、その石から後ずさった。まるで、火に指を差し込んだように痛かった。強烈な痛みだ。痛んだ指を急いで調べたが、ケガひとつしていない。

 彼女は緑の石から不吉なものを嗅ぎ取った。これは良くないものだ。初めてのものだ。自分の知らないものだ。

 徐々に不吉な石が異様に息づき始めた。

 緑の石がかすかに震動している。膨れては縮み、脈打っている。緑色の血管がうっすらと表面に浮かび、緑色に肉付き始め、形になろうとしている。

 彼女はヒッと息を呑んだ。

「だめっ!」

 彼女は引きつった声で、石の成長を制した。

 そして、気が付くと、ただの緑の石が地べたに転がっているだけだった。

 息を詰めた静寂が訪れる。

 今のはなんだったのだろう……彼女はぼうぜんと石を見つめた。

 また嘘を思い込もうとしていたのだ、きっと。名前に意味があると思い込み、幻を本物だと勘違いするように、落ちていた石にも同じことをしていたのだ。

 しかし、彼女はもう一度その石を拾おうとは思わなかった。石が見えなくなるまで、振り返りもしなかった。

 心臓がドキドキと鳴っている。鼻先がかさかさに乾いていた。彼女は舌でぺろりと鼻をなめた。

 恐かった……

 と思って、彼女は急いで否定した。なぜ、自分の思い込みを恐がるのだ。引き返して、あの石を拾うんだ。彼女は逆らう体をむりやり振り向かせ、石へ向かわせた。けれど、足ががくがくと震えて、一歩も進めなかった。

 あの石は何もしない。彼女は自分に言い聞かせる。あの石には何の力もない。大丈夫。あんな石ころの悪意だけで自分は決して死にやしないんだから。

 この道を引き返せなかったら、地下の穴道を遠回りして、自分の寝床に行かねばならない。それにもしも赤子があの石の向こうに降ろされたなら。本当に自分は役立たずになってしまう。ますます闇の世界へ溶け込めなくなる。

 それなのに、彼女は立ち尽くしているだけだった。長い時間そうしていて、やっとあきらめた。

 自分はふぬけにもあんな石ころが恐いのだ。暗い穴道に置いてけぼりにされるよりも恐ろしいのだ。赤子の泣き声があちらから聞こえたら、遠回りして行かねばならないほど恐れているのだ。

 しかし、ヨリタマは強く思い込もうとした。

 決して石が恐いのではない。石に見た強烈な嘘が恐いのではないのだ。石ころごときで仕事をおろそかにしてしまった後のことが恐いのだ。ただでさえ目が見えないというのに。

 そして、深いため息をつくと、石とは反対の方へ歩いていった。

 遠回りして、光の差し込まない暗闇に踏み込んだ。散々歩き回った道だ。迷うことはない。

 彼女の左手には、あの不安の小石が五つ握られたままだった。これが何のためにあそこにあったのか、彼女には見当もつかない。彼女はそれを投げ捨てることで石のことなど忘れることにした。

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