第2話
今思えば、あそこの穴道にはきっと見張り役が立っていたはずだった。そのときに限ってだれもいなかったのだ。
白い棒は何本も立っていて、近づくにつれ、その回りにある不思議なものも見えてきた。ヨリタマの心の中は驚きに満ちていた。今でもその思いは鮮やかによみがえってくる。緑色を初めて見て、まだその名を知らなかった。
棒の連なる先に、ヨリタマはだれかが立っている気がした。
「ねぇ、だれかいるよ!」
彼女はみんなの足が止まっていることに気づかず、白い棒の中へ走り込んだ。
「これ、手に握れない!」
興奮して振り向いたとき、ヨリタマは心臓が止まったように感じた。
たくさんの小さな白い塊が、赤い目を強ばらせて、じっと彼女を見つめていた。暗い闇の中、かすかに浮かんで見えた。
彼女は言葉に詰まった。だれがアワナミか分からなかったけれど、必死でアワナミを探した。体が震えてくる。がくがくと震えてきて、彼女は漠然と「大変なこと」をしたと感じた。
地上の光は沸き湯のように暖かく、柔らかく彼女の毛に反射した。けれど、彼女の心は寒々と凍りついていた。
子供のころに無邪気に駆け回っていた穴道を下っていくと、しだいに五周期くらいの子供らの声が近づいてくる。笑う声、からかう声、ふざける声、はしゃぐ声、泣く声。声が穴に反響してたくさん子供たちがいるように感じられた。子供たちの小さな体がヨリタマにぶつかって、バタバタとどこかの穴道へと足音と声が消えていく。
ヨリタマは穴道の空気をヒクヒクと嗅いで確かめる。もうしばらく行くと、養育者の洞穴にたどりつく。
彼女は匂いを嗅ぐ癖がやめられない。そのしぐさはこっけいらしく、よくからかわれた。今も変わらずこっけいだろう、
とヨリタマは考えながら、洞穴の入り口に立った。
「あんたたち、ちゃんと語り部んとこには行くのよ!」
大きな声が突然前に迫り、ヨリタマはとっさに体を引いた。アワナミの匂いがする。
「あら、ヨリタマ、赤子をつれてきたの?」
ヨリタマはアワナミに赤子を差し向けた。そして、ぶっきらぼうに尋ねた。
「この子、雄? 雌? 名前は?」
「ちょっといい?」
アワナミは赤子を抱き取り、しばらく無言だった。
ヨリタマは彼女の息の音と首飾りが揺れる音をじっと聞いたまま、待った。
「雄。名前はチカ」
チカ。名前を聞いたとたん、ヨリタマの目の前で白い薄片がチラチラと揺らいだ。
ちらつきがだんだん形を作り、頭部を貴重な布で覆った異装の大人の雄が淡い光を背に立っているのが見えてくる。
彼の目の部分は完全に布に隠されている。探索者特有の装いだ。彼の立っている場所は地表近くの穴道。見覚えはない。草の丈が低いので新しい穴道なのだろう。彼はどこかへ行こうとしていた。だれかに呼び止められたようにこちらを振り向いている。
ふっと映像が消え、また暗闇に戻った。
アワナミの期待に満ちた声がする。
「ね、この子の名前、なんて意味? 何になるの? どうなるの?」
ヨリタマは声のする方をじっと見つめ、アワナミの本心を見透かそうとした。これは予知というのだろうか。小さなころ、何も知らずに感じたことなどを彼女に話していた。彼女はひどく熱心にヨリタマの言葉を聞いたものだ。いまになっても相変わらずそれが続いている。そして、彼女は何度も言うのだ。「ヨリタマは語り部になったらいいね」と。その言葉はすごく重荷だった。
ヨリタマは平坦な声で答えた。
「名前は土壌を肥やすという意味。探索者になると思う。いろんなところへ行って……そのまま帰ってこなくなる」
アワナミが浅く息を吸った。
しばらく間を置いて、「じゃあ、それはこの子に教えない方がいいわね。だって、帰ってこなくなる、なんて」
「死ぬわけじゃない、戻ってこなくなるだけ」
「同じに思うけど」
「全く違うことだよ」
ヨリタマは一度しか見たことのない、名前も知らない探索者のことを思い出した。夜明け前の薄闇の穴道で、その探索者はヨリタマに言った。
確か、何げなく、文字石を転がしていたときだった。
この文字石と名前は自分がなにものか知るための証明なんだ。大事にしろよ。おまえ、光の民は知ってるだろ? 五十周期の世代が終わるごとに彼らはそれを確かめに来ると言われている。そのとき彼らは知るんだ、ああこいつはわたしの子供だったな、とね……光の民はどんなかって? ああ知ってるよ、彼らは闇では目がきかない、光がないと生きていけない、あんたと同じだ。あんたはきっと間違って地下に降ろされたんじゃないかな。
光の民のことは語り部の物語の中に出てくるので知っていた。けれど、それは大昔の神様の話の中に出てくるだけで、身近な存在ではなかった。
赤子拾いになりたてのころで、探索者のその言葉は深くヨリタマの胸に突き刺さって、いまだに痛い。
「どうしたの?」
長いことうつむいて考え込んでいるヨリタマをいぶかしがって、アワナミは尋ねた。
「なんでもない」
ヨリタマはぱっときびすを返し、壁を伝って光の穴道に戻ろうとした。
彼女はすたすたと歩きながらこぶしを握った。
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