第2話 夜に訪れた者
ある晩、カナンと少女が住む家の扉を叩く音がした。もう10年になるだろうか。元より仮住まいとしてほんの一時のつもりが、いつの間にか時が経っていた。今では愛着のようなものを感じる「わが家」だ。全く人と関わろうとしないふたりが侘しい暮らしを送っていると、村の者たちが憐れんでいることをカナンは知っていた。確かに間違いではなかったが、そんな中でもカナンにとっては楽しいこともあり、それなりに満ち足りた日々をこの家で過ごしていたと思っている。その厚い木の扉がドンドンと二回、低くにぶい音だった。暖炉の前にいたカナンはその音に、何か暗いものが横切るような感覚を覚えた。村の者は皆、日が暮れると家に引き上げ出歩くようなことはしない。そもそも、この家に人が訪ねて来ることなどなかった。また、夜に寄り合いと称して酒を酌み交わす村の大人たちの集まりに、カナンが出向くこともなかった。そんな村の外れにひっそりと住む男の、家の扉を叩く者がいる。
カナンは悪い霊でもやって来たのかと疑った。あちこち彷徨ううちに行き場を忘れた霊が訪いをしたのかもしれないと。すると今度は扉の向こうからややくぐもった声が上がった。
「夜分遅くにすいません。カナン様のお宅ではありませんか」
その家の主、カナンはそう呼ばれ、生身の人間が自分に会いに来たことが分かり少しだけ肩の力が抜けた。実体のないものを相手にするのはやっかいだ。だがみぞおちの辺りがきゅっと絞られるような嫌な感覚は、むしろ強まる。いい報せであるとは思えなかった。
「カナン様」
先ほどより確信を持った声が呼ぶ。若い男のようだ。頑丈な椅子に座っていたカナンはゆっくりと立ち上がった。蝋燭と、暖炉の炎の灯りでできた彼の影が、狭い部屋の中でゆらりとうごめく。外に立つ男にも扉の下のわずかな隙間から彼の影が動いたのが分かった。家の扉を叩いた若者は、その影が何ともいえず恐ろしく感じた。家の主の隠された本性が、影に現れているのを図らずも見てしまったような、見てはいけないものを見てしまったと恐れた。
扉がゆっくりと開けられた。若者は、自分がまるで敵に相対するように身構えていることに気づく。現れたのは、以前と少しも変わらぬ様子のカナンだった。若者はかなり大きい方で、近くだとカナンを見下ろす格好になる。彼らの元を去ったカナンと久しぶりに会うことができた。色んな思いが駆け巡り若者は言葉を詰まらせた。
「久しぶりだなトウジ。随分大きくなったな」
彼らの中でカナンを知らぬ者はいなかった。そのカナンが自分の名を知っていることに驚き、思わず嬉しさがこみあげる。しかしすぐに、そんな気持ちになった自分を恥じた。カナンは理由も告げずに去り、共に戦うことを止めた謂わば落伍者なのだ。
「わが名を知っておりますとは、光栄なことです。主の命でやって来ました」
トウジは深々と頭を下げた。主からは、カナンに何も問うてはならないこと、昔と変わらぬ礼を尽くせと言われていた。しかし命じられなくても、自然に態度は改まる。まだカナンが皆と共にいた頃、10代だったトウジたち、剣士の修練をする者にとって、カナンは憧れの存在だったのだ。当代屈指の刀の使い手としてカナンは、遥か西にある王の都にさえ、その名が知られていた。
「トウジ、何もないが入ってくれ」
少しだけ間があったが、すぐにそう言いながら体を開き、家の中へトウジを招き入れる。淀みないその一連の動作にトウジははっとした。何気ない動きに、まるで何かの舞を見るような思いがした。
石造りの平屋建ての家の中に入ると、部屋はそれなりに明るく、何より暖かだった。土間からわずかな段差の上に木の板が敷かれた一間が広がり、そこが居間であり炊事場であり、寝床であった。加えて部屋の奥に扉があるので、もう一部屋あるようだった。部屋にある家具は全体的に大きく頑丈そうなものが目につく。ぶ厚い木の大きなテーブルと、使い込まれた二脚の椅子。無骨な石造りの暖炉。テーブルの蝋燭の灯りよりも、暖炉からパチパチと心地よい音を立てて炎をあげる薪の明かりが、ゆらゆらと部屋全体を照らしている。カナンがマグカップに果実酒を注いで持ってきてくれた。夜になるとだいぶ冷えてきたので、トウジはありがたくいただくことにした。カナンも美味そうにごくごくと飲む。この秋に取れた葡萄だろうか、酸味があって美味かった。
「お休みの方を起こしてしまいませんでしたか?」
カナンが音を出さないようにしていることに気づいて、遅まきながらトウジも小声で尋ねた。カナンは奥の扉に目をやったが何も答えなかった。あれから10年が経つ。あの時の幼な子はもう大きくなっているのだろうか。誰か別の者も住んでいるのかもしれない。いずれにしても、これから伝える話はカナンにだけ報せたかった。前置きなどなくトウジは話をはじめた。
「私は、4人の仲間と共に鬼の地に行って来ました。そこから戻った私に主は、カナン様に会いに行くように命じられました」
そこで間を置いてみたが、カナンは何も応えない。トウジが先を続けるのを待っているようだった。トウジには何を考えているか、その表情からは分からなかった。
「そこで鬼どもの動勢を見てきました。詳しい話は出来ませんが、近いうちにいよいよ、人の住む地にやって来るのは避けられそうにありません」
そこまで話し口をつぐむと、あとはパチパチとはぜる薪の音以外、張り詰めた静けさが家の中を満たすばかりになった。カナンは、トウジのほうを見るとはなしに視線をやってはいたが、何の反応もみせなかった。トウジは何か言ってくれるのを待つほかなかった。
しばらくの沈黙があってようやくカナンが口を開いた。
「鬼の地から戻ってきたのはお前を入れて何人だ」
今度はトウジが押し黙ってしまった。当然あってもおかしくない質問だったが、すぐに答えられずに気詰まりな沈黙が続いてしまった。
「……、私独りです」
重い口を開いて答えたトウジの返事にカナンの顔が一瞬ゆがんだように見えた。
「よく還ってこられたな。それだけで立派な手柄だ」
「……いえ手柄など、とんでもない。私は思いあがってました。鬼たちに易々と打ち勝てると思っていたんです。ましてや仲間がいました。我らの中からさらに選ばれた強者たちです。それでも鬼たちは、想像以上に恐ろしく、狡猾で手強く、しかも多勢だった。やつらと正面から戦う愚は避けていましたが、最後は数の前に私たちは追い込まれてしまいました……。皆、鬼たちを圧倒するほどの激しさで立ち向かいましたが、最後は力尽きました。私がこうして五体無事に生き延びたのは、少なくてもひとりは、かの地の動静を伝えなければならないと、他の皆が身を挺して私を逃してくれたからです」
ぽつぽつと、だが途切れることなくそこまで言ったトウジは、マグカップの酒を勢いよくあおり、大きく息をついた。そのまましばらく黙っていたが、ぽつりと呟いた。
「申し訳ありません」
トウジは、奥の部屋で休む者がいることを忘れていた。
「大丈夫だ。この時間ならまず起きない」
そうは言いながら、テーブルに置くカナンのマグからは、ことりとも音は聴こえてこなかった。カナンの言葉から、奥の部屋で寝ているのはやはり、あの時の少女なんだろうとトウジは察した。
「今夜は泊まっていくがいい。ご馳走などは出せないが、腹一杯にはなるぞ」
「いえ、それには及びません。すぐに出なければなりません。どうぞお気遣いなく」
言いながら腰を上げて外套に手を伸ばし、すぐにも出て行こうとするのを一旦は止めたカナンだったが、泊まるのを固辞するトウジをそれ以上引き止めようとはしなかった。まだ行くべきところがあるのだろう。事態は切迫しつつあった。こちらの準備が整う前に鬼どもがやって来るかもしれないのだ。
「こんな時でもなければカナン様のお話をもっと聞いてみたいところですが、あまり長居もできません。でもひとつだけ伺いたいのですが……。
カナン様はどうなさるつもりですか」
「来ると分かった以上、ここを離れるつもりだ」
予想はしていたが、その言葉に軽い動揺が走った。カナンは共に戦うつもりはないのだ。彼が一緒に戦うことをトウジは虚しく考える。しかし、やむを得ない。トウジがまだ16才の頃、突然カナンは彼らの元を去った。カナンが連れていた幼子の存在は、しばらく経ってから皆の知るところとなった。カナンはまだ独り身だった。その子の母親を誰も知らない。カナンの子供かどうかもはっきりとしなかった。皆が分かったのは、ただカナンが去り、再び戻ることはない、ということだった。主を含め、然るべき上の者に尋ねても誰も何も答えてくれなかった。そして、カナンのことを問うのは憚れるようになった。
それから10年が過ぎ、カナンが去ったことが少しずつ皆の記憶から薄れてきた今、死地から帰ってきたトウジはここに来た。主がカナンの居場所を知っていることの驚き以上に、カナンの姿を見たいと思う気持ちが強かった。赴くまでの時間がひとりというのも、トウジには都合が良かった。今はまだ誰かに、自分に起こったこと、還ってこれなかった仲間のことを話すような気分ではなかったからだ。
しかし、ひとりでカナンの家を訪れ、暖かな部屋と、旨い果実酒、カナンの姿を目にすることで、無性に皆のところへ帰りたい気持ちになった。ここは自分のいるべき場所ではない。まだ自分には為すべきことがあると、トウジは思いを新たにした。
トウジは今度こそ暇を告げた。
「お前の旅の安全を祈っている」
カナンのその言葉を最後に、彼の家を辞した。結局カナンの居場所をなぜ主が知っていたのか、カナンがなぜ去っていったのか、その幼子はいったい誰なのか、鬼の襲来をなぜカナンにいち早く伝えねばならなかったのか、報せを受けてカナンはどこへ行くのか……。分からないことだらけだったが仕方のないことだった。
彼は夜を徹して歩くつもりだった。夜はもう彼を脅かすことはできなかった。
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