第十節
おばさんの家は、バス停からちょっと歩いたところにあった。十分もかからない距離だ。
一軒家で、一階建て。周囲を畑に囲まれていて、隣の家まではけっこうあるっていう、そんなところだ。
玄関の前に立ってインターホンを鳴らそうとしたんだけど、見つからなかったので呼びかけることにした。
「あのー、すみませーん!」
「はーい」
すぐに返事があった。大人の女性の声だ。
「はいはい、どちら様?」
玄関扉のすりガラスに人影が浮かんだ。
「あのう、一昨日に電話をもらった――」
「――ああ! はいはい、マサくんのお友達ね。どうぞ、入ってちょーだい」
扉を開けてくれたのは、お婆ちゃんにしてはちょっと若いぐらいの女性だった。優しい感じのする人だ。
鍵を開けた様子が無かったけど、かけてなかったのかな? 不用心だなぁ。
「お邪魔します」
初めての家だから、やっぱり緊張する。
「遠かったでしょう、ご苦労さんだねぇ。喉が渇いたでしょ、なにか飲む? オレンジジュースがあるけど」
「いただきます」
図々しいかもだけど、確かに喉が渇いているので、遠慮はしないでおいた。
「さぁさぁ、上がって上がって」
おばさんについていくと、多分に字が書いてある掛け軸のかかった部屋に通された。客間だろうな。
出された座布団の上に座って、なんとなく部屋の様子を眺めていたら、オレンジジュースとカステラを持ってきてくれた。
「ありがとうございます。いただきます」
「ご丁寧にどうも。マサくんから聞いていた感じとは違うねぇ。礼儀正しい子じゃないの」
「正義はなんて言ってたんですか?」
「元気で、気さくで、物怖じしない子だって言ってたよ」
マサのことだから、言葉を選んでくれたんだろうなぁ。
「よっこいしょっ」
おばさんはもう一つ座布団を持ってきて、オレの正面の位置に腰を下ろした。そして少し間を置いてから、深々と頭を下げた。
「この度はマサくんが迷惑をかけてしまって、本当にごめんなさいね。あの子もすごく反省していたよ。友達を巻き込んでしまった、怖がらせてしまったって」
「あ、いえ、あれはタイミングが悪かったというか……アイツが――正義が悪いわけじゃないですから」
オレはカステラを食べるのをやめて、首を横に振った。
「あの子らを守るためだったとはいえ、実の両親に暴力を振るってしまうなんて……ああ、あの子らというのは仔猫のことね」
うん、多分そうだと思った。
「マサくんはね、あんな恐ろしいことができる子じゃなかったんだけどねぇ。どうして、あんなことになってしまったんだろうねぇ」
おばさんは憂鬱そうな顔をし、大きな溜め息をついた。
「ご両親との関係がギクシャクしていたみたいですね」
「そうらしいねぇ。仕事にかまけて目を離してしまったんだろうけど、それにしたってひどい話だよ。仔猫ぐらい許してあげればよかったのに……」
「お母さんが潔癖――いえ、きれい好きだったから」
「マサくんの母親はねぇ、元々きれい好きな子だったんだけど、いつの頃からか悪化して、潔癖症になってしまったんだ。それもひどいぐらいのね。野菜についた土も許せなかったみたいでねぇ」
マサが言っていたっけ、息子を触った手まで洗っていたと。わけわかんねぇよな。自分の息子まで汚いと思っていたのか……?
「原因はストレスだろうねぇ。仕事と子育てを両立しようと頑張って、頑張り過ぎて……」
「正義の母さんも仕事をしていたんですか?」
「うん。子育てのためにやめていたんだけど、マサくんの手がかからなくなったから復帰したの、小学校の四年生のときにね」
それは初耳だ。
「あの子はとにかく真面目でねぇ、頭も良くて器用だったから、仕事にはすぐに馴染めたみたいだけど、そうなったら仕事が忙しくなって、肝心の子育てが疎かになってしまった。またちょうど父親の仕事が上手くいかなくなってねぇ、本当なら母親の分もマサくんの面倒を見るという約束だったんだけど、そうはいかなくなってしまって、結局は母親がほとんどの面倒を見る羽目になってしまった。家のことは家政婦さんに一任していたみたいだけど、それ以外のことはすべてあの子が管理していたから、徐々に追い込まれてしまったんだろうねぇ。そのストレスで潔癖症はひどくなるし、周りにも当たり散らすようになって、そのせいで今度はマサくんが追い込まれてしまって……」
負のスパイラルってヤツだな。
「ご両親も大変だったんですね。全然知りませんでした」
最低最悪な親だと思っていたけど、あの人たちにはあの人たちなりの事情があったってことか……まぁ、だからといって同情はできないけどな。正義にした仕打ちは最低最悪だ。
「二人ともいわゆるエリートでね、マサくんが生まれる前はバリバリ仕事をしていたし、それが生きがいみたいだった。お互いを認め、尊敬し合う関係だった。それでいつしか交際するようになって、順調だった頃に赤ちゃんができた。母親は子育てのためにと仕事を諦めたけど、一段落ついたら復帰したいとずっと願っていて、夫婦でも約束をしていたんだ。それで小学校四年生のときに復帰した。前の職場には戻れなかったけど、それでもやっと昔の自分を取り戻せたってとても喜んでいたし、やる気にもなっていた。イキイキしていたよ。もちろん心配はしていたんだ、仕事をすれば当然家を空けることが多くなるし、そのせいで子育てが疎かにならないかって。両立してみせると言ってはいたんだけどねぇ、やっぱりダメだったよ……」
おばさんはまた溜め息をこぼした。なんだか申し訳なさそうな顔をしている。
「心配はしていたんだ、手のかかる時期は越えたし、マサくんは他の子と違って大人で聞き分けもいいから大丈夫だとは思うけど、でも、これから一番厄介な思春期がやってくる。子供が特に不安定になる時期だから、充分気をつけたほうがいいよって」
確かにそうだ。オレが今まさに思春期で、だからこそわかるけど、この時期に親の支えがないのは正直ツライ。いつもそばにいると鬱陶しいとは思うけど、それは居てくれるからそう思えるんであって、居てほしいときに居てくれないのはすげぇツライはずだ。経験したことないからわかんないけど、例えば夕飯を一人で食べなきゃいけないなんて、オレには想像できない。
「おばさんの家には子供がいないから、あまり強くは言えなくてねぇ。それに、二人ともプライドが高いから、お節介なことを言えば反発するのは目に見えていたし。だから、なるべく気にかけて、見守ってはいたんだけど、うちの旦那さんが倒れてからはそれも出来なくなってしまってね」
「どうしてですか?」
「ああ、そうだね、わかんないよね。うちはちょっと前まで農家でね、色々な野菜を作っていたんだよ。美味しいって評判でね、親戚とか近所の人に大好評だったんだ。マサくんのところにもとれたての野菜を届けていてね、ついでに面倒を見てあげたり、家政婦さんに変わって料理を作ってあげて、マサくんと一緒に食べたりしてね。でも、旦那さんが倒れたことで余裕がなくなって、できなくなった。癌だったから長く入院したし、そのお世話で大変でね、会うことすらままならなくなって、電話でときどき話すのが精一杯だった」
「そうだったんですか……今はもう、野菜は作られていないんですか?」
「私は手伝っていただけだから、旦那さんのように美味しい野菜を作ることができないんだよ。それにもう年だからねぇ。今は他の人に畑を貸しているんだ」
「そうですか……」
食べられるなら食べてみたいと思ったから、残念だ。
「あ、そういえば、正義にはお祖父ちゃんやお祖母ちゃんっていないんですか?」
「ううん、いるよ。ちゃんといる。父親のお父さんやお母さんも、母親のお父さんやお母さんも、まだ元気に生きてる。あ、私は母親のお父さんの妹ね」
「両方のお祖父ちゃんお祖母ちゃんは正義の面倒を見てくれなかったんですか?」
「うん……ちょっと複雑な事情があってね。簡単に説明すると、父親側はお金持ちなんだけど、息子には別の女性と結婚させようとしていた。でも息子はそれを拒み、こっそりと別の女性と交際していた。それが母親。ずっと内緒にしていたんだけど、マサくんを身籠ったから内緒にできなくなって、それで報告したんだけど、これが揉めに揉めてね。結局、喧嘩別れして、駆け落ちみたいな感じになってしまった。だから、父親側の祖父母とは絶縁状態なのさ」
「はぁ、なんだか、昼ドラみたいな話ですね」
「ほんとだよ。次に母親側の祖父母だけど、そっちは反対に貧乏でねぇ、原因は元々家が貧乏だったっていうのもあるんだけど、祖父がねぇ、つまりは私の兄で、母親の父親なんだけど、これが仕事をしない人でね。昔からずっと小説家の真似事みたいなことをしているんだけど、いつまで経っても日の目を見ないんだ。だいたい完成させたこともろくにないんだから。きっと才能が無いんだろうね。そのくせ、しっかり嫁はもらって、その嫁に養ってもらっているようなものだったのさ。そんなんだから、裕福な暮らしができている娘――母親は、マメに仕送りをして助けてはいたんだけど、近頃はそれに甘えて催促までするようになって……情けない話さ。始めのうちは仕方がないと思って許していたんだけど、金は要求するくせに子育てに協力しようとはしないから、いい加減怒ってしまって、金の打診の電話が来ても無視するようになった。そんなんだからあっちもへそを曲げてしまって、これまた疎遠になってしまったのさ」
「ほんと、ドラマみたいな話ですね」
「まったくだよ。いっそ、それをネタにすりゃあいいのにねぇ」
ほんと、まったくだ。それはそれでけっこう面白いかもしれない。
「あの夫婦はね、なんだかんだ大変だったんだよ。身内の助けがまるで無かったんだから。お金はあるから家政婦さんを雇ったりできるけど、所詮は他人でしょ。それに母親はプライドが高いから、自分ができることはなるべく自分でしようとするし、自分のやり方を曲げようとはしないし、言い方がキツイところもあったから、相性の合う人がなかなかいなくてねぇ、ころころ人が変わった。家政婦さんのことね。そんなんだから、マサくんも落ち着けないし、心も開けない。年頃だから、余計に大変だったろうねぇ」
「それは……ツライですね」
マサがどれだけ寂しい思いをしていたか、聞いているだけでひしひしと伝わってくる。一人じゃないからこそ余計に寂しいし、余計に孤独を感じると思う。
そんなの、誰だっておかしくなる。アイツはまだ我慢強いほうだよ。よくグレなかったよなぁ。まぁ、そんなんだから爆発しちまったんだろうけどな。
「ペットとかいれば、まだマシだったかも」
「うん、本当にそう思うね。自分が必要とされている。それだけでも、寂しさってものは紛れるもんさ。おばさんはそれを、今まさに実感しているよ。――おっと、そうだったね。よっこらせっと」
そういうと、おばさんは勢いをつけて立ち上がった。
「すっかり話し込んじゃったよ。ゴメンねぇ、おばさんの長話に付き合せちゃって」
「いえ、全然大丈夫です。正義のことがよりわかったので良かったです。教えてくれてありがとうございます」
これは本当にそう思う。
「そうかい。それじゃあ、仔猫を見せようね」
「はい、お願いします」
オレは残りわずかなオレンジジュースを飲み干し、急いで席を立った。
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