第14話 『不足』

 月曜日の昼休み。

 千無は教食(教育学部最寄りの食堂。経済学部からも近い)に来ていた。

 いつもの昼食は人目を避け、空き教室を利用するか一旦帰宅している千無。余裕がないときには、トイレを利用するというまでの徹底ぶりである。

 そんな彼がどうして人目につく教食にいるのか。それは、教育学部のミコトに誘われたからである。

 普段なら、いくら誘われたところで食堂を利用したりしないのだが、以前の口約束が効いていた。例の騒動の時の約束を出されてしまっては、千無も大人しく従うしかない。

 約束の内容は、大学カフェのスイーツから食堂の安いスイーツへとグレードダウン。

 しかし、問題はその量にある。

 席についている千無から見えるのは、手持ちのお盆に大量のスイーツを載せたミコト。それを千無の奢りで食べられる彼女は、満面の笑みを浮かべている。


(俺の残高、大丈夫か…?)


 神都大学で採用されている電子マネー制度。学生証に一定の金額をチャージしておけば、会計がスムーズに行えるというものである。

 かく言う千無も、学生証にある程度の金額をチャージしていたのだが、食堂の利用が少ないため、ほとんど宝の持ち腐れとなってしまっていた。

 そんな宝が今日一日で海に沈むのではないかと、千無は身震いする。


「見てよ~千無~。チーズケーキに~プリンに~ティラミス~。ドーナツもこんなに種類があるんだよ~。和菓子フェアの抹茶わらび餅まで取っちゃった~」


 千無の学生証で会計を済ませたミコトが、嬉しそうにスイーツの報告を始める。

 スイーツが嫌いという訳ではない千無も、その大量の甘味を前に、渋い表情を浮かべてしまう。


「ごめんね。こんなに奢ってもらって」


「ま、まあな。…約束したし、当たり前だろう」


 声を震わせつつも、しっかりと強がり、ミコトから学生証を受け取る千無。

 彼の声を震わす理由には、甘味を前にした嫌悪感と共に、カード残高の危惧というものがある。

 どうして彼がそこまで無理をするのか。

 それは、これからの交渉を上手く進めるためである。


「ミコト、食べながらでいいから聞いてくれるか?」


「うん…っく。…んく…ん…いいよ」


 食べながらでいいと言われたにもかかわらず、咀嚼を中断するミコト。口元の生クリームを拭き取ることも忘れず、千無の次の言葉に集中している。


「お…あ…ぇ…そ、そうか。…それじゃあ…言うけど…」


 ミコトの態度に、千無の方が気後れしてしまう。

 だが、そんな彼を前にしても急かすことなく、次の言葉を待ってくれているミコトに、千無は落ち着いて言葉を続ける。


「俺の部屋にリンが住むことになるわけだけど…。その予定に、1人加わることに…なりました」


「…へ、へぇ~。…あ、笑愛さんってオチでしょ?結構ダダこねてたもんね~。それで、じゃあ自分も住むって言ってきたんでしょ?」


 てんで的外れなミコトの推測。さっきまでの引き締まった姿が、途端に落ち着かないものへと変化してしまっている。

 そもそも、彼女が知っている千無の知り合いは、鬼塚笑愛とリンだけなのだ。それ以外の人物の予想がつくはずもない。

 そんな悲しい事実から目をそらしつつ、千無が正解を口にする。


「速水輝っていう子でさ…。先週末、リンと2人で出かけた時に知り合った子なんだけど、知らない間に同居することになっててさ~。俺も困ってんだよ~」


「…困ってる顔…してない」


 千無の誤魔化したっぷりな発言に、ミコトが低い声で呟く。

 ふて腐れているというよりは、素直な怒りを表したその態度に、千無も「へっ?」とだけしか返すことが出来ない。


「困ってる顔してないって言ったの!…何?…あんなに大学で友達が出来ないって嘆いていたくせに、友達が出来た途端に浮かれちゃってさ。…おまけに同居ってふざけないでよ。大学生が同居ってそんなの……」


 怒りで始まったミコトの言葉だが、口にするごとに収まっていったのか、尻すぼみに勢いが無くなっていく。

 しばしの沈黙。

 周りの学生たちも、ミコトの怒声に一時は興味を示していたが、静まった途端、自分たちの話題に戻っている。

 雰囲気を変えようと、千無がミコトのドーナツに手を伸ばす。

 そんな卑しい手が、俯いている自身の視界に移るや否や、お盆ごと千無から遠ざけるミコト。


「あげない。謝って」


「…ごめんなさい?」


 リンの時にお許しを得ていた千無は、輝のこともついでに許してもらえると思っていた。

 だからこそ、ミコトがここまで怒り心頭に発する理由が分からない。謝る理由にも自信がない。

 そもそも本気でドーナツが欲しかったわけでもないため、ますます謝る理由を見失う。


「私に黙って、そんな重要事項を決めたこと。あと、リンさんと2人で出かけたことも。……羨ましい」


 口ぶりからするに、怒りの理由は前者と後者で半々ほどなのかもしれない。

 リンの何がそこまでミコトを引き付けるのだろうか。千無は少し不思議に思った。


「黙って決めたことは、リンの時も併せて悪かったよ。…でも、リンとの外出には…」


「…分かってる。雫絡みだったんだよね?多分、その速水輝って人も雫持ち…」


 千無が言い淀んだところに、ミコトの正確な推測が入る。

 言い淀んだ理由は、ミコトを雫の問題に関わらせたくない、というものだろう。

 しかし、心配されている側からすれば…。


「千無の気持ちだって分かってるつもりだよ。でも、私だって千無のことが心配なの。…だってリンさんに負けないくらい、千無のことが———―」


「久しぶり~」

「心配したよ」

「大丈夫だった?」 


 突然食堂に大勢の大きな声が響く。

 ある女学生に対し、学生の集団が心配の声をかけたようだ。

 心配された学生をよく見れば、引田桐人から千無とリンが救った女学生。ユリユリの魔法が抜けず、昏睡状態が数日続いていたようだが、どうやら元気になったらしい。

 そんな女学生に対する祝福ムードなどつゆ知らず、千無とミコトは、自分たちの会話に集中していた。

 全く気は散っていない。それでも、ミコトから千無への大事な言葉は届かなかった。

 千無から見れば、まるでその言葉の部分だけがミコトの口パクで、周りの学生たちに吹き替えられたのではと疑うほどだった。

 だからこそ、千無のミコトに対する返事は——――


「え?なんだって?」 


 それしか存在していないのだ。


「えっ!?あ…た、大したことじゃないよ。よ、要するに、私も千無が心配だってこと」


 千無に聞き返された大事な言葉を、ミコトがもう一度繰り返すには、あまりにも度胸が足りなかった。

 心配という本意のためか、想いが伝わらなかったためか、なおも暗い表情を浮かべるミコトに、千無が優しく語りかける。


「えっとさ、新しく同居が決まった輝ちゃんって子は、リンが同居を決めた子で、俺がそうしたいと思ったわけじゃないんだ。…それに、リンのことだって心配すんなよ。…だって俺は…」


「そうなの~。だったら先に言ってよ~」


 そう言って、即座にスイーツに手を伸ばし始めるミコト。

 その豹変っぷりに、千無は言葉を続けることが出来なくなってしまう。

 開いた口が塞がらない。

 それでも、嬉しそうにドーナツを頬張るミコトの姿に、自然と笑みがこぼれてしまう。

 笑みとは、油断の証である。


「それで、速水輝さんってどんな人なの?」


 そのミコトの何気ない質問に、


「あ~、そうだな~」


 何も考えず返事した千無は、


「今も病院に入院してはいるんだけど」


 いつかは伝えることになるその事実を、


「走り回れるくらいには元気な」


 せめて今すぐは避けるべきだったと、


「女子高生だよ」


 ひどく後悔した。

 成人男性が女子高生と同居するという暴挙。

 その事実を知ったミコトは、残ったスイーツをタッパーに詰め、教食を後にする。自身の失言に気づいた千無も、すごすごとミコトの後に続く。

 人目につかない場所に移動して始まったのは、有無を言わさぬ説教。先ほどまでとは明らかに違った怒気。

 ミコトの威圧に負けた千無は、自然と正座をしてしまう。

 そんなミコトの怒りは、正座によって、千無の脚の感覚が皆無になるまで続いた。


「はぁ、リンさんもいるから間違いは起きないだろうけど…」


 そんなことを口にすると同時に、千無に手を伸ばすミコト。一見すると、優しい彼女らしい手助け。

 だが、千無はその手を握ることが出来ない。脚が痺れた状態で強引に立たされることが、どれだけの負荷をもたらすかを理解しているから。


「千無」


 抵抗虚しく、その呼びかけだけで、手を伸ばさざるを得なくなる。

 さらに抵抗すれば、余計に辛い目に遭わされると、千無は理解しているから。


(リンのやつ、速水輝の件の報告は、俺一人に任せるとか言ってたけど、このことを予測してたんだろうな)


「この後の夕食も、一緒に食べようね」


 恐怖の笑顔。握った手を引くミコト。

 後日、『教育学部屋外棟、断末魔の叫び声』という怪談が、学生の間で密かに囁かれることとなる。












「結構おいしかったね」


 ミコトの言葉に、素直に同意する千無。

 夕食で訪れた店は、ミコトの行きたがっていたイタリアンレストラン。

 痺れた脚を引きずりながらでも、何とかたどり着ける距離にあったのが、最終的な決定理由である。


(あんだけお菓子食べといてよく入るよな)


 数時間前にスイーツを大量に摂取したにもかかわらず、夕食を平気な顔で食べるミコトの姿は、何度も見てきた千無でも驚かされるものであった。

 さらに、メニューのスイーツコーナーを凝視し始めているのだから、余計に仰天させられる。


「そう言えば思ったんだけど…」


「ん~?そうだよね~。やっぱり小豆パフェだよね~」


「お菓子はどうでもよくて…。…さっきもだけど、どうしてそんなにリンのことは信頼してるんだ?同居にも何故か賛成だし…」


 小豆パフェに決めたミコトに、気になっていたことを質問する千無。


「そ、そうかな~。頼れる人だし、同居にも賛成はしたけど、別に特別信頼しているってわけじゃないよ」


 その返答は理想的とも取れるものであった。だからこそ、千無の中に小さな違和感を残すことにもなる。

 だが、小さな違和感だ。気にしなければ、考えることもない。

 むしろ、リン、レストランで2人掛けという条件が、千無にあることを思い出させる。


「この前、リンと話したんだけど…」


 千無は、以前リンと話した主人公談議を、ミコトに説明し始める。リンに比べて、明らかに拙い説明ながらも、ミコトは夢中で聞き入っていた。

 途中に運ばれてきた小豆パフェになかなか手をつけなかったのも、その夢中さの表れだろう。


「…という訳で、俺が主人公として考えられるらしい」


 結局千無が話し終え、パフェのアイスが溶け始めてから口をつけるミコト。

 話し終えた千無はと言うと、どことなく得意げな顔をしているように見える。輝に蹴られた等の、恥ずかしい部分を隠して話を展開したのだから、当たり前かもしれない。


「う~ん…。だとしたら、やっぱり不思議だよね。どうして、千無なんだろう?」


 パフェを数回口にしたミコトが、忙しなく動かすスプーンを千無に向けて、他意など全く感じさせない素直な質問をする。


「どうしてって……」


「不幸な過去、同情したくなる理由を持った人が主人公になった方が、みんなにチヤホヤされるじゃない?そうすれば、どんな強敵だって楽勝だろうし…そもそも、戦わなくてよくなるかもしれないし…」


 リンが言うところの恵まれた土壌。

 それを持ち合わせていないからこそ、千無は苦悶している。

 だとすれば、持ち合わせている人間を主人公にしておけばよかったのではないか。雫を与えた神様の考えが分からない。


「…それに、リンさんも不思議。どうしてリンさんは、千無の味方をするんだろう?」


 その質問の答えは、考えたところで出てこない。それを理解している千無は、肩をすくめるだけで何も答えない。

 千無の回答がないため、興味をパフェに戻し、上機嫌で口に運ぶミコト。

 その前方、優しいまなざしで見守る千無。












「じゃあまたね。部屋の片づけしなきゃだめだよ」


「ああ、分かってるよ」


 ミコトを家まで送った千無。

 時刻は22時。

 千無も、ミコトの忠告をよそに、片づけは明日以降に持ち越そう、なんて考えてしまう。


「さっきはあんなこと言ったけど…千無は主人公らしいと思うよ!だって…私は千無の良いところたくさん知っているから…。…私のために、戦ってくれたから…。これからも、主人公として私を…みんなを守ってね!」


 それだけ言い残して、顔を真っ赤にしながら部屋に駆け込んでいくミコト。

 千無は彼女が部屋に入るのを見届けてから、帰路に就く。その火照った頬を、夏の夜風は冷ましてくれない。


(みんな…か。アザミの雫持ちも、そこに含めないといけないんだよな…)


 切り捨てることは簡単だ。覚悟するだけだ。

 しかし、千無はそれが出来ない。アザミの雫持ちに比べて、あまりにも足りないから。


(そもそも、どうしてこんなハンデを設けたんだ。どうして、『無』なんていう雫を手にする俺が、主人公に見える状況を作ったんだ。どうして……)


 歩いていると、歩道沿いの部屋から、楽しげな学生の騒ぎ声が聞こえる。


(…どうして、俺には何もないんだよ)


 千無の遥か後方に遠ざかった騒ぎ声が、ただただ羨ましかった。

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