第9話 『無理難題』
リンの能力が発動し、桐人の空間から、さっきまで危機に陥っていた2人の学生が消える。
敵がリンに気を取られている隙に距離を取る千無。同時にリンからも遠ざかったため、千無とリン、桐人らで三角形が出来る位置取りとなる。
「ねえ、何してんの!?あと少しで全員殺せるはずだったのに!お前もアオイの雫持ちなのか!?」
焦りと驚嘆が混じる桐人は、これまでよりも早口でリンを詰問する。
「いいえ、私はアザミの雫持ち。…本来ならばあなたと手を組んで、アオイの雫持ちである彼を倒すべき立場よ」
桐人の「だったら…」と発した言葉をかき消すほどに、語気を強めてリンは続ける。
「でも、私はあなたに味方することなんて出来ない!あなたの行いを許せない!私の望む世界に、あなたのような男は必要ない!」
リンはこの空間に、殺された学生たちを残している。桐人が犯した罪、その証明。
ゆえに彼らを残したのは、自分の想いを今度こそ揺らがせないためなのだ。
男のいない世界を作るという願い。それに必要な覚悟を、今度こそ揺らがせないために…。
「はいはい、わかりました、わかりました!お前ら、その女も殺して…。………いや、待て。…似ている……。その女は生かして捕らえろ。よく見ると、顔も身体もいいじゃないか。…そろそろ僕も、オナペットってやつが欲しかったんだよ」
リンを警戒して動きを止めていた4人の少女に命令する桐人。
そのあまりにも低俗な言動に、千無は思わず間の抜けた表情を浮かべてしまう。
一方のリンは、澄まし顔で桐人の言葉を聞き流しつつ、会話が出来るまで千無との距離を詰める。
「昨日ぶりね、泣き虫くん」
「泣いてねぇよ」
「強がらなくていいわよ。目が赤いわ」
当然突かれるであろう図星を突かれ、千無はぐうの音も出なくなる。
昨日はリンが泣く側だったことは指摘しない。大人の男だから…というよりは、リンの性格的に面倒くさくなりそうだから。
なによりもその性格の悪さが、強がる千無を見つめる表情に表れていた。
リンの性格的に、千無の窮地をわざわざ救いに来たのも、昨日の屈辱を晴らしたかったからだろう。
「……あなたは、あの娘たちを知っているかしら?姫騎士ライラ=ロランド、魔法少女ユリユリ、装甲乙女クライシス、くノ一ヒバナ。どれも…有名なキャラクターなのだけど」
「…まあ、少しくらいなら…」
名前を挙げられた少女たちは、行動を起こしあぐねている。
リンを警戒しているのだろうが、だとすると、さっきまで遠慮なしに攻められていた千無が可哀そうになる。
「そう。それなら知っていると思うけど、あの娘たちの能力、設定はどれも凶悪よ。設定どおりのあの娘たちを相手にすれば、私たちなんて簡単にやられてしまうわ。…ましてや、あなた1人なら瞬殺でしょうね。……でも、実際はそうなっていない」
「設定通りじゃない…ってことか?でも、ライラの剣技、ユリユリのビーム、クライシスの重火器には相当な威力があった」
千無を苦しめた少女たちの力。アニメを見て興奮したほどの力ではなかったにしても、確かな強さが彼女たちにはあった。
そんな千無の意見を聞いたリンは、考えるそぶりを見せる。
しかし、初めから答えは決まっていたようで、彼の言葉を裏付けにして答える。
「では、こう仮定しましょう。あの男の能力には、一定の具体性が必要となる」
その仮説に対し、頭の上にハテナを浮かべた千無を見かね、リンがそのまま続ける。
「あなたはも『ネコ衛門』の道具は知っているわね?…でも、道具の能力は分かっていたとして、どうしてそうなるのか、その具体的な理由が分かるかしら?」
『ネコ衛門』。子供から大人にまで愛されている、有名な漫画及びアニメである。その人気っぷりは、日本において、この作品を知らない人がいないと言い切れるほどだ。
未来からやってきたネコ型ロボット侍『ネコ衛門』が主役で、ドジで間抜けな野ブタ君を助けるために、毎回個性的な道具が登場することも魅力である。
「え~と…『大きくなるヒカリ』っていう道具は、光を当てたものを大きくする。…でも、何で光を当てただけで大きくなるのかは分からない、ってことか…。それと同じくらいの難しい設定が、あいつらにも存在するのか?」
「ある意味それ以上に難解な設定だけどね。例えば、クライシスの太陽エネルギー。フェルタン結晶1億1087万個を溶かして形成された核の中に、ギニム粒子を最小単位まで濃縮することで、その超異次元エネルギーを実現しているの」
千無がアニメを視聴している間は、単に「凄い」という感想しか抱かなかった。そんな凄さの中に、そこまで濃密な設定があるとは思ってなかった。
しかし、専門用語のオンパレードで、全くといっていいほど理解が出来なかったのも事実。
千無はリンの解説に、相変わらずの「凄い」をこぼすのだった。
「あなたの反応が、私の仮説の証明よ」
かなり間抜けな顔をしている千無に、勝ち誇った笑みを浮かべてリンが結論付ける。
つまり、桐人の生み出した少女たちは、本来の力を出すことが出来ないだろう、ということだ。
なおも勝ち誇った顔で反応を窺うリンに、千無が少し引っかかっていたことを口にする。
「アニメ、お詳しいんですね?意外でした。僕もよく見るんですよ。…でも、ここまで詳しい人には初めて会いました」
千無の言葉を受けたリンは、途端に顔を真っ赤にしながら俯いてしまう。…かと思えば、顔を上げ、ゆっくりと一歩前に進む。
「私が各個撃破するから、あなたは残りの娘たちの標的にでもなっていなさい」
さっきまでの明るい声色が嘘のように冷たく言い放ち、ライラに向けて駆けていくリン。
リンに悟られないよう、心の中で小さくガッツポーズする千無。
散々警戒していた少女たちも、思わぬリンの奇襲に態勢が崩れる。
リンの作戦を受けるならば、彼女がライラに向かっていったため、千無は残りの少女の相手をしなくてはならない。
回避と防御に努めつつ、標的がリンに移ると、ナイフを投げて牽制する。それによって、3人の少女の相手を1人で担う。
改めてのことだが、少女たちは原作に忠実な鬼畜技を使わない。初めはそれを手を抜いているためだと思っていた千無だが、リンの仮説通り、これが桐人の妄想の限界なのだと理解する。
リンはというと、相変わらずの竹刀で、姫騎士ライラ=ロランドと互角以上の戦いを繰り広げている。
千無を苦しめた剣技。いくらライラの力が紛い物であろうと、それに対抗できるということは、リンの剣の腕前も相当のものといえる。
その姿に千無は、ミコトの言葉を思い出さずにはいられなかった。
「どこかの剣道サークルにね、超綺麗で超強い剣道小町がいるんだって~。…気になる?」
横目でチラチラと千無の反応を窺っていたミコト。
尋ねられた千無にだって、百点満点の答えは浮かんでいた。
(綺麗という点まで認めるのは癪だが、たぶん神崎さんが噂の剣道小町なんだろうな)
ちなみに千無、はミコトの質問に対し、「気になる」と答えた。相変わらずの天邪鬼である。
「あなたも悔しいでしょうね。誇りと信念を胸に聖剣を手にしたはずが、あんな奴のもとで戦うことになるなんて…」
ライラと戦うリンの口から出た同情の言葉に、聞き間違いを疑う千無。
一進一退の逃防を繰り広げている自分に対しても、少しはその優しさを見せてほしい、と思ってしまう。
「そこの泣き虫くん!ボーっとしてる暇があるなら手を貸しなさい。…この娘たちには、どうしても外せない弱点が存在するわ。それを作成しなさい!」
(手を貸してほしいのは俺の方なんだけど…)
思うだけに留め、リンの言葉について考察する千無。
リンほどではないにしても、彼女たちが登場するアニメについての知識は持ち合わせている。
ライラに関して言えば、作中無敗を誇っていたため、当然のように弱点なんて存在しない。しかし、作中で唯一彼女に傷を負わせた男、彼女の師匠が存在する。
その他の少女たちに関しても、そういう視点で考えれば、いくつかの弱点候補が思い浮かぶ。
だが、桐人にも無理だったように、妄想の忠実な具現化なんて出来るはずがない。
その時、リンとライラの一騎打ちに熱中している桐人の姿が、千無の視界に映る。
そして確信する。桐人だからこそ、桐人の妄想だからこそ成功するという確信。
「『無理難題』」
無理。それを覆す千無の能力。
可能性が残っているものは無理ではない。無理を覆す能力にも、無理なことが存在する。
だからこそ、言葉巧みに物事を捉え、無理を存在させることが必要となる。
そして今回の場合、千無の前には、アニメの世界にしかいないキャラクターが存在している。この妄想空間において、その弱点を生成することも、全くの不可能ではないように思われる。
つまり、千無の能力は失敗する。
「神崎さん!」
その言葉で察したのか、リンはライラから退き、千無の方に全速力で駆ける。
自身の周りに4本の剣を生成している千無は、集中のため両手が使えず、無防備な姿を晒している。
その隙を突こうと、クライシスがビームソードを構え、フルスロットルで接近する。
(斬られる)
千無が覚悟した瞬間、リンが真横を通りつつ、一本の剣を受け取る。
「やれば出来るじゃない」
千無の耳元で聞こえた心地好い呟き。
彼の鼻先数cmという距離で、クライシスのビームソードが止まる。
「おい!何やってんの!?あと少しだろ!?早く殺しちゃえよ。僕の言うことが聞けないのか!?」
桐人の怒鳴り声に、クライシスは一寸たりとも反応しない。
当然と言えば当然である。クライシスを斬りつけたリンの剣には、装甲乙女強制停止ボタンと同じ電子回路が混ざっているのだから。
「どんなキャラクターにも、弱点が存在する。…完璧なキャラクターなんてつまらないからな。…お前が妄想大好きのオタク野郎なら、設定をきちんと遵守していると思ったよ」
「何だって!?僕の下僕に何をした!?最強の装甲乙女クライシスだぞ。お前らみたいな弱っちい人間に、負けるはずないだろ!?」
意識的な所業かどうかはさておき、結果からして桐人は、自身の生み出したキャラクターに弱点を残していた。
キャラクターをキャラクターたらしめるもの…。
当然、キャラデザや声というものがある。
つまりは設定である。そして設定の中には、苦手なものや弱点というものも含まれる。
前作でトマトを苦手としていたキャラが、続編において、何ともなくトマトを食していたとしたら…。
ファンであるからこそ、譲れないものがある。桐人にも、ファンとしてのプライドが働いたのだろう。
その気持ちに共感出来た千無だからこそ、この方法が思いついたと言える。
「さてと…残るあなたたちも、せめて設定の中で敗北させてあげる」
リンは、千無のもとへ駆けては一本の剣を取り、その剣に対応した少女へ向かっていく。
剣の設定自体で凌駕しているため、倒す際にかなりの手心を加えている。
実際のところ千無にも、桐人と同じく妄想の限界がある。
クライシスを例にとると、強制停止の電子回路の構造など、千無は全く理解していない。ただリンが手にした剣には、電子回路が内蔵されているという設定があるだけだ。
英国生まれの師匠が大切にしていたという設定の太刀。ユリユリの嫌いな黒百合の紋が刻まれた黒剣。悪代官が使ったという設定の黄金剣。
自分も理解していない設定を内包した、作中にすら存在しない武器を作る。
これこそが、千無における無理難題だったというわけである。
リンの一太刀で、4人の少女が戦闘不能となる。負傷、粒子化、緊急停止、捕縛。状態は違えど、設定に逆らえなかった末路である。
たった今、ユリユリを粒子化した黒剣を桐人に向けて、リンが告げる。
「さあ、残るはあなただけよ。新たなキャラクターでも生み出す?…そんなことしても、結果は見えてると思うけど」
「うるさいよ!そんなもの必要ない。姿が似てるだけの偽物なんて、もういらないんだよ!…ハァ…ハァ……っそうだ!二次元の娘たちに限界があるなら、三次元の娘たちに頑張ってもらえばいいんだ」
そう言って桐人は、背負っていたリュックサックから、何枚かの写真を取り出す。
「僕の現実の嫁は、僕を裏切ったりしないよね」
その言葉を口にした途端、桐人の周りの空気が一変する。
「今度は何だってんだ!?」
千無の驚きに反応することなく、リンは桐人の次なる行動をじっと見据える。
次第に落ち着いていく空間。桐人の周りに現れる人影。
「…何だ、あれ?」
現れたのは女の子。10代半ばから後半ぐらいの女子が3人。年齢だけで言えば、さっきまでの少女たちと大差ない。
しかし決定的に違うのは、彼女たちが包丁などの武器を持った人間であること。
「お前たちは僕を裏切らないよね?だって、僕の現実の嫁なんだから」
要するに、生み出すものを、二次元の女の子から、三次元の女の子に変えたのである。
「どういうことだと思う?」
千無が問いかけ、リンの反応を窺う。
またアドバイスをもらえるものと思っていた。それを用いて、この状況もすぐに打倒できると思っていた。
そんな驕りからか、心に余裕が出来ていた千無は、思わず小さい悲鳴が漏れてしまうのをなんとか耐える。
リンの瞳には、これまでにないほどの怒りの色が滲んでいた。自分の願いを吐露した時よりも、桐人が非人道的に学生を殺した時よりも、遥かに強い感情。
リンをここまで変えるものが、桐人に生み出された女子に存在するということだ。
だが、何もおかしな部分はない。現実の女子を手駒にしたことへの怒り、ということだろうか…。
(………いや、そうじゃない)
小さな違和感を覚える千無。
3人の女子のうち1人が、何となく、似ているのだ。
おそらく、あの子は…。
「気づいたの?そう、あれは私の妹。すでにこの世にいない、私の妹よ」
千無の思考を遮り、彼の求めた結論を口にするリン。
この世にいない。その重い言葉を前に、千無は何も口にすることができない。
「さっきあいつが取り出した写真、私の妹が映っていたわ。…あの子の知り合いに、あんな男はいなかった…」
リンは淡々と言葉を続ける。
無感情というよりは、他の感情を何とか抑えてると言ったほうがいい。
「…ごめんなさい。理由も聞かず、あの子たちの足止めをしていて欲しい。…それと、これは私の我が儘なんだけど、出来れば傷つけないであげて欲しいの」
抑えてる感情は簡単に読み取れる。
抑えていても滲み出てくる感情の強さに、千無は先ほどまでのような気軽さで言葉を返すことが出来ない。
「…ありがとう」
リンはそう言い残すと、全ての腱が切れてもいいと言わんばかりに足に力を込め、桐人に向かっていく。
少女たちの武器による妨害は、リンに届く前に千無が対応する。要望通り、武器を持つ手をはたくだけである。
何か特殊な細工をしているわけでもなく、本当に普通の女の子なのだ。少しばかり場数を踏んできた千無とでは勝負にならない。
全ての女子が、武器を投げ出されると同時に動きを止める。それは、桐人の命令が途絶えたということ。
そのことで察した千無は、桐人とリンに視線を向ける。
「っお前が!お前が私の妹を!
リンが、空間を震わすほどに覇気がこもった言葉を、桐人にぶつける。その手には、真剣が握られている。
桐人は腰を抜かしており、リンが彼を見下ろす形となっている。
「ぼ、僕は、殺してなんてない。僕は自分の嫁を大事にするんだ。そ、そんな僕が、恋ちゃんを…こ、殺すわけないだろ?」
「そんなこと、分かってる!お前が直接手を出してなくても!お前のその行為が!あの子を殺したんだ!」
桐人のおどおどした主張に理解を示しながらも、リンが引くことはない。
桐人もリンの圧に負け、さっきまでの狂人ぶりが嘘のように大人しくなっている。
「そして…恋は…お前の嫁なんかじゃない!私の、大切な妹だ!」
リンはそう口にすると、手にした太刀を強く握り、上段の構えを取る。
「待ってくれ!」
思わず口に出た千無の言葉に、リンは少しだけ耳を傾ける。
千無から、彼女の醜い顔を窺うことは出来ない。
「姉が自分のために誰かを殺すなんて、妹は本当に望んでいるのか?…妹のことを全く知らない俺が、何言ってんだって感じだろうな。月並みな言葉だけど…こんなことしか言えなくて情けないんだけど…考え直してくれないか」
千無はそんな拙い言葉を投げかける。
本人の言う通り、なんて月並みな言葉だろう。千無もミコトのことは言えない。
千無の言葉を聞いたリンが、ギリギリ見える口の端を少し緩める。
千無からは、笑っているようにも見えた…。
「…神崎さん」
直後、リンが全力で太刀を振り下ろす。
千無が束の間に抱いた安堵まで断ち切るかの如く、その全身全霊をかけての一振り。
リンは、桐人を斬った。
斬られる直前、桐人は振り下ろされる太刀から逃れようとする。しかし、逃げたその位置まで巻き込むように太刀は振り下ろされた。
逃れられるはずがない。
リンは、桐人を斬ったのだ。
…桐人の…足だけを…。しかも、かすり傷程度に。
リンが情けをかけたわけではない。彼女は本気で殺そうとした。
では、千無が止めに入ったのか。それも違う。
リンの殺害を止めたのは、桐人の足元に転がる包丁。
千無がはたいて飛ばした包丁が、偶然にも、桐人の足元に転がっていたのである。そして偶然にも、桐人はそれを踏むことで体勢を崩した。
その偶然の重なりが、リンの太刀を綺麗なままにしたのだ。
そして、桐人の足元に落ちていた包丁の持ち主は…。
「うわ、うわゃひゃー…うわぁぁぁぁぁああああ」
情けない悲鳴を上げながら、桐人が逃げていく。彼が生み出したものも、遠ざかるにつれて徐々に消えていく。
リンは桐人を追わない。
空間が崩れていき、暗い空が現れる。
星が見えない夜空を見上げた千無は、額に冷たいものを感じる。
「…そっか、梅雨だもんな」
千無はいつもの傘を広げ、リンに歩み寄る。
「余計なお世話よ」
その心遣いを、一言で突き放される。
雨に打たれていたい、という心境なのだろうか。
しかし、リンの涙をかき消すには、この雨はあまりに弱く、哀しみを表すには、あまりにも優しかった。
「散らかってるけど、むだに広いからスペースはあるんだよ。好きなとこに座っていいぜ」
そう言って千無は、風呂上がりのリンに部屋を案内する。
あの後、雨に打たれながら全く動こうとしないリンと、その横で無遠慮に傘を差す千無、という構図が10分は続いた。
結局リンの、「ずぶ濡れの女性を放って帰るの?」という言葉が決め手となり、家に招待することとなる。
ちなみに、ここまでの図々しさを見せるわりに、道中の相合傘は一切同意しないという頑なさであった。
「あなたは、温まらなくていいの?」
そう言いつつ、何故かベッドの上を陣取るリン。
千無も、人のベッドに勝手に上がるな、と主張するほど器は小さくない。
ただ、初めての男の部屋、2人きり、風呂上がり、と言う条件の中で、女性がベッドを選択するということに疑問を持った。
「俺はおかげさまでほとんど濡れなかったからな。タオルがあれば十分だよ」
「…そう」
千無は疑問をわざわざ口にすることはなく、リンの問いに答える。
しかし、そこからつなげる話題もなく、2人ともが黙り込む。
しばらくの間、雨が窓を打ちつける音のみが、無駄に広い部屋に響いた。
同時に流れるぎこちない空気。
「聞かないの?私の妹のこと。どうして男が嫌いなのか」
その空気を消し去るように、リンが尋ねる。
「聞いて…いいのか?」
千無のその発言を聞いたリンは、ベッドの上の、自分の隣のスペースをポンポンと叩く。そして、千無の目を見て、柔らかな笑みを浮かべる。
つまり、隣に座れということだ。千無は、一応の渋々という態度を取りながら、リンの隣に座る。
お互いの顔が見えないよう、並んで正面を見据える。
「私の妹は
丁寧な口調でリンが話し始める。
違和感を口にすることなく、千無はただただ黙って聞く。
「特に違っていたのが、恋愛に関してです。中学生になると、妹はその容姿と性格から、異性にたいへん好意を抱かれるようになり、そのうちの何人かとお付き合いしました。当時から男嫌いがあった私は、2つ下の妹に対して畏怖に近い感情を抱いていました」
そこまで言い終えると、リンは両脚を抱え、体育座りの格好をして話し始める。
「転機が訪れたのは、妹が高校に入学して数ヶ月経った時、今と同じ梅雨の時期でした。妹がストーカー被害にあうようになったのです。幼い頃から剣道をしてきた私は、妹の頼みもあり、ボディーガードをすることにしました。妹が言うには、私が護っていた間は、ストーカーに怯えることが無かったそうです。でも、いつまでも私が護っていられる訳ではありませんでした。私には剣道部のインターハイがあり、家を留守にしなければならなかったのです。妹の承諾と、本人の強い意志もあり、私が留守の間は妹の当時の彼氏が護衛を担当することになりました。私は…インターハイに向かいました」
そこで、リンの両脚を抱える力が強くなる。同時に口も強くつぐむ。
千無は、リンが自分で話そうと思うまで、いくらでも待とうと思った。
…5分後、リンがゆっくり口を開く。
「…私のインターハイ優勝報告は、真っ白な病室で行うことになりました。そこにいたのは…心が完全に壊れた妹でした。どんなことを話しかけても、泣き出し、発狂してしまうのです。…原因は、集団による強姦です」
そこまで言い終えたリンの視界を、千無の手が遮る。
こんなこと、まともな精神状態で話し続けられるはずがない。
しかし、リンは首を横に振る。
「大丈夫です。最後まで、話せますから。………強姦されたのは、人通りの少ない路地裏。普段とは違う帰り道を選択したそうです。その理由は、私がいなくて怖かったから。そして、ストーカーに見られている気がしたから。…これは、妹の彼氏から聞きました。襲われた時の彼氏はと言うと、相手の数に怯え、すぐに逃げ出したそうです。…事件のことを聞いた日、妹の彼氏から言われた言葉が分かりますか?」
千無は、首を縦にも横にも振らなかった。
「『僕が本当に好きなのはリンさんで、少しでも良いとこを見せたかったんだ。今度はきちんと護るので、挽回のチャンスをください』です。妹は、その1週間後に舌を噛み切って亡くなりました。最後は面会謝絶になっていたことから、相当ひどかったんだと思います」
「…そのストーカーが引田だと?」
全ての話を聞いて出てきた千無の第一声。慰めの言葉すら出てこない自分を、とても情けないと思う。
「いえ、今になって思えば、本当にただのファンだったのかもしれないわね。誤って殺さなくてよかったわ」
「神崎さんは優しい人だ。その心を見抜いて神様が手助けしたんだよ」
口調は戻ったリンの、らしくない言動に、思わずらしくない慰めをしてしまう千無。
「………あなた、私を抱きたい?」
「はぁっ!?」
突拍子もないリンの発言に、千無が漫画の一コマのように飛び跳ねる。
「昔ね、学部の飲み会に参加した時、酒の量が分からなくて、結構酔っちゃった時があったの。その時に、何故かこの話を偶然近くにいた先輩に話しちゃって。…すごい同情して、慰めてくれてね。そのまま、その先輩に着いて、ホテルに行ったの」
動揺が上手く隠せない千無。
リンが口にした『ホテル』という単語に、今朝の記憶が呼び起こされる。
そして悲しくなる。記憶がないまま、ずっと守っていた童貞を失ったかもしれないのだ。
「でも、ホテルに着くなり、さっきまでの優しさが嘘のように豹変して、私を襲ってきた」
千無は思わず生唾を飲む。
「まあ、襲ってきた手首を捻りあげて逃げたんだけどね」
続けて深い息を1つ吐く。
「でも、今日は逃げるなんてことはしないわ。どう?抱きたい?」
「…何で、そんなに自分の身体をないがしろにしようとするんだ?」
リンの提案に対して、千無に浮かんだのはそんな疑問だった。
質問したと同時にベッドから降りた千無が、キッチンの方へと向かう。
「私は…人を殺そうとしたの!平気で人を殺せるの!妹のためなんて言いながら、自分のために人を殺せる人間なの!」
「でも、神崎さんは殺していない。…まだ神崎さんは、妹から慕われる優しいお姉ちゃんのままだよ」
そう言って千無が手渡したのは、リンが入浴している間に温めたホットミルク。時間を置きすぎたため、少しばかり冷めてしまっている。
千無の言葉、ホットミルクの温かさ、どちらで触れ切ったのか分からない涙腺が切れ、リンは大粒の涙を流し始める。
泣く姿は見せまいと唇を引き結んでいるが、口の端から、嗚咽が止めどなく溢れてくる。
どうしていいのか分からない千無は、先ほどまでと同じくリンの隣に座る。
肩だけでも貸そうとアピールする千無。傘の時とは違い、即座にその肩に泣き顔をうずめるリン。
先ほどから続く雨の音と共に、リンの悲しみが広い部屋に響いた。
だが、2人の間に流れていたのは、さっきとは違う空気だった…。
ひとしきり泣くと、マグカップを千無に渡し、無言で掛け布団をかぶる。…かと思えば、早めに寝息を立て始める。
(2日連続で女性と一夜を共にするなんてな。本来なら、嬉しいイベントのはずなのに…)
今朝の不祥事を思い出した千無は、二の舞を演じないよう、ベッドと離れた場所にスペースを確保する。
タンスの奥から引っ張り出した寝袋に身体をうずめ、千無も次第に安らかな寝息を立て始めた。
朝。キッチンには、エプロンをつけて朝食を作っているリンの姿。相変わらずの美貌に、完璧な料理スキルが合わさり最強に見える。
メニューは、ほど良くトーストされたバターパンに、コーンスープ、ハムエッグ、レタスとトマトの彩サラダ、ホットミルク。
まさに理想の朝。絵に描いたような朝――
――そんな朝があるはずもなく、千無が起きると、すでにリンの姿は無かった。
当然のように朝食は用意されてなく、お礼のおの字も見当たらない。
俺の妄想癖も大概だな、と自身にツッコミを入れた千無は、寝起きの顔を洗いに向かう。
時間を確認すると、11時半。朝食というよりは、昼食について考えなければならない時間。
ちなみに、土曜日は講義が無い。
冷凍庫を開け、冷凍食品が余ってないかと物色していると、部屋にインターホンの音が鳴り響く。
「はーい!」
彼は、この時の思慮のなさを嘆くことになる。
どうして、インターホンについているカメラで、来訪者を確認しなかったのか。どうして、土曜日の昼まで彼女に連絡を入れなかったのか。
「今日から、ここに住ませてもらうわ」
「千無、どうして連絡返してくれないの?」
「千無君、一昨日のホテルに下着忘れてたよ。ノーパンで帰ったのかしら?」
連続して来訪したのは、リン、ミコト、笑愛の3人。
女性が3人も、自分の部屋を訪ねてきてくれる。
そんな独り身男には嬉しいイベントに、ただただ顔を引きつらせている千無なのであった。
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