第5話 『命』

「千無…駄目だよぉ…」


 大切な人の声が胸の奥に響く。その声が聞こえただけで、無意識に心が温かくなっていく。

 か細くか弱いながらも、千無のことをただ心配してくれている言葉。

 千無は背後を軽く振り返り、その大切な人の顔を視界に入れる。


「…っ何て顔してんだよ」


 思わずそう口にしてしまうほど、ミコトの顔は、化粧と涙でグシャグシャになっていた。

 そんな不格好な様子も、千無にしがみついていたミコトの、彼を想う強さの象徴だろう。

 それと同時に、身につけている衣服には、数分前の惨劇の跡がしっかりと残っている。

 状況からすれば、千無はミコトの体調を気遣う言葉を口にするべきなのかもしれない。

 それでも、こんな言葉を第一声にしてしまうのは、ミコトに対して素直になれない性分が邪魔をするからだろう。

 無意識というのは、難儀なものである。


「千無が知らない人を襲ってるからでしょ。私の努力の証なんだから、感謝しなさいよぉ」


 千無から少し距離を置き、そう茶化しながら涙の痕を手で拭う。


(これだけで整った顔になるんだもんな。…認めたくないけど、素がいいってことか)


 ミコトの可愛さを再確認する千無。

 幻想の類を疑うという思考は、そんな惚気た態度が遮っているのだろうか。

 ……いや、千無には分かっているのだ。

 震える視線や指先から伝わる暗号が、彼女を大切な人であると強く意識させていた。。


「ああ、感謝してるよ。多分もう少しで、無意識のうちに人を殺めるところだった」


 手にしていたナイフを消滅させる千無。

 そのナイフの切っ先が向けられていた男は、先ほどより多少距離を離しながらも、警戒心を解いている様子はない。

 だが、戦意のようなものは感じられず、単純に千無達の様子をうかがっているだけだ。

 意識のある千無に表すことは不可能だが、純粋な殺意というのは、並の人間をここまで怯ませてしまうようだ。

 自分は好き勝手殺した殺人鬼のくせにと、もう少しで同類になるはずだった千無が、心の中で悪態をつく。


「何があったかは知らないけど、人を殺すなんてダメだよ」


「知らないって……お前、あいつに殺されたんだぞ」


 背後に立つミコトに、視線は向けず答える千無。

 荒唐無稽な会話。外国語の参考書でもなかなかお目にかかれない。


「そうなんだってね。笑愛さんからある程度の事情は聞いたんだけど、覚えていない私からすれば、全てが他人事で……。だから…」


 そう言うと、ミコトは千無のやや斜め前に来るように移動し、


「あの人がこんなことをした理由を聞いてみたいの」


 そんなことを口にする。

 千無の大好きな漫画の主人公は、こんな時に「しゃーねぇな。分かったよ」などと、そっけない態度を取りつつも寛容な姿勢を見せていた。

 そんな主人公が、千無の憧れている存在だったのだが…。


「そんなこと許せるわけないだろ!愉快犯に、理由なんかない!お前をまた危険に晒せるもんかよ!」


 当然のようにミコトを心配する言葉を、声高に口にする。それ以外の言葉を選択する理由なんて、微塵も存在しないとばかりに。


「千無ならそう言うと思ってたよ。…でもね、人が人を殺すって相当な理由が必要だと思うの。愉快犯だとしても、そこに至るまでには理由があるはずなんだよ。殺された…はずの私だからこそ知りたいし、その資格があるって思う」


 悟ったような顔でそんなことを口にするミコト。少しの許容を覗かせてしまう千無。

 今の広場には、先ほどのような悲鳴や騒ぎはない。視線を多少感じることから、建物内などから千無たちを見ている者は存在するようだ。

 広場の死体には、笑愛が行ったのか、ブルーシートが被せられている。

 記憶のないミコトが、この現状から笑愛の話を鵜吞みにするのは難しい。他人事のように思っているのも仕方ない。

 だが、だからと言って、ミコトが危険に晒される頼みを、千無が承諾するのも難しい。

 もう一度、ミコトの言葉を否定しようとした千無だったが、


「それに、私が危険な目に遭いそうな時は、千無が守ってくれるでしょ」


 そんな言葉を、大切な人が屈託のない笑顔と共に言い放つ。


(前に、これと似たアニメシーンがあったな)


 美しささえ感じるその光景に、千無は二次元の世界を重ねてしまう。

 こんなに頼られる主人公は幸せもんだな、と嫉妬した記憶も同時に思い起こされた。

 実際のところ、千無はミコトを守れていない。

 だからこそ、ミコトに無意識に焚きつけられては、断るのが難しくなってしまう。


「ぐっ…くっ……っしゃーねぇな」


 結局千無は、白髪混じりの頭をかきながら、こんな言葉を口にしてしまうのだ。

 あのアニメの主人公も、本当はかなりの苦労人なんだろうな、と認識を改めることとなる。


「ありがとね、千無」


 それだけ言い残すと、ミコトはゆっくりと前に歩き出す。

 ミコトが一歩進むごとに、千無の大和に対する警戒は強まっていく。

 足を止めるミコト。大和に対する警戒を残しつつも、相手に対して警戒を緩めてほしい気持ちが表れた距離。


「お前、あんなになったのに、死んでなかったのか?」


 意外なことに、先に言葉を発したのは大和の方であった。


「私もよく分からないんですけど、知り合いの方が治療したら治ったみたいです。昔から、身体だけは丈夫でしたから!」


 そう言って、元気いっぱいに力こぶを作るふりをするミコト。

 答えまでふざけたのではないかと思ってしまう千無と大和。

 治療したから治るというレベルの状態ではなかった。

 あれを治すとしたら、生き返らせるという表現の所業が必要だろう。まさに神の業である。

 雫の可能性に改めて驚く千無。

 そして、その雫の所有者が、おそらく彼女だろうという事実に、驚きを通り越して呆れてしまう。


「まあ、そういうことになるんだろうな。…で、お前はどうして、自分を殺した男の前にノコノコと出てきてんだ?」


「……教えてください。どうしてこんなことしたんですか?私たちをどうして殺す必要があったんですか?あと、あなたの名前です」


 ミコトの素直で直球な質問。

 大和はやや呆れた様子をみせながらも、静かに「藤田大和だ」と口にし、ミコトの名前を聞き返すことなく続ける。


「お前らは知ってるか?社会における学歴志向主義ってやつをさ。…否定するやつもいやがるけどよ、どんな場面においても、多数が贔屓するものってのは存在するのさ。学歴、容姿、血筋、性別、挙げだしたらキリがないがな。……平等なんてうたっておいて、社会の現実なんてそんなもんなんだよ。これを否定する奴らってのは、逆にそれらの要素を持っている奴らなのさ。…つまりは強者だ。弱者の声はかき消され、強者のための世界が出来上がっていくんだ…」


 大学生活の中で、バイトやボランティア活動をろくに行ってきていない千無。

 社会を知らない彼からすると、大和の言葉はとても困難で、遠い世界の話のように思えた。


「…俺の前いた会社でも、そういう雰囲気は存在していた。同期や後輩の中で最も業績を出していても、結局優遇されるのは学歴と…ほんの少しのコミュニケーション能力ってやつかな。俺に残業を押し付けては、見て見ぬ振りで先輩や後輩たちは遊びに行ってたっけな……」


「…大和さんのお気持ちは共感できる部分もあります。…でも、社会にはそういう贔屓があって仕方ないと考える姿勢も、多少は必要ではないですか?」


「………俺も…ずっとそんな姿勢で我慢していたんだ。…母さんが死ぬまではな」


 その言葉を聞いたミコトが、驚きの表情を見せる。もちろん千無も、その表情を隠すことが出来ない。

 背後の千無からでも察する肩の硬直。

 大和の事情も知らず口を挟んだミコトの方が、その驚きは大きかったようだ。


「あの日も残業でさ、携帯の充電も切れていたんで連絡も入らなかった。いつも通りに、入院中の母さんを見舞おうかと病院に向かったらよ、大慌てで母さんの病室に案内されてさ。…その時の母さんの表情見たら、色んな糸が切れちまってな……」


 大和の口調が柔らかくなる。


「………それでも、私たちを殺す理由にはならないです。怒りを向けるとしても会社の人たち…。そもそも、怒りを向けるなんて、お母さんは喜ばないと思います」


 月並みな言葉。

 大和のお母さんの気持ちなんて、ミコトにも、大和にだって分からない。

 死者の気持ちは、いつだって生者の都合のいいように形作られる。


「そんなことは…分かってる。母さんは優しい人だったからな」


「だったら…」


「それでも!それでも俺がやる必要があったんだ!」


 ミコトの言葉を遮り、大和が語気を強める。


「会社の人間をいくら殺したところで、社会なんて変わらない。死に行く年輩を殺したって、未来は変わらない。それよりは、これからの日本を担う学生の意識を変えるべきだろ!?学歴志向と言われているんだ。これからを担う高学歴の学生を見せてもらったよ。……でも、怠惰に無駄に日々を過ごす学生、危機感の希薄な学生、案の定とても意識が高いとは言えない学生がほとんどじゃないか!そいつらを選んで殺していったんだ」


 反論する穴なんていくらでもある。目的に対して、真っ当な手段を選んだとは思えない。

 だが、大和が敵視する学生に当てはまる千無は、強く言い返せない。


「…私も…そんな風に見えましたか?」


 それでも、ミコトは口を開く。


「…いや、お前に関しては例外だ。俺の勝手で殺した。……謝って許されることではないが、申し訳ないと思っている」


「ふざけんな!あんたそんな理由で…」


 質問に対しての答えが許せず、閉ざしていたはずの口が開く千無。

 しかし、割って入ろうとした彼の言葉を遮り、ミコトが続ける。


「私に関してはいいです。…覚えていないからそう思うのかもしれませんけど…。それよりも、あなたが殺した他の人のことを考えてください。彼らの毎日、全てが、あなたが見た光景に表れていたはずがありません。…あなたの行為は、全てが自己満足です。結局あなたも、暴力というものを振りかざす強者になってしまっているんですよ!いえ、そんなものでしか抗えないあなたは、むしろ弱者です。…彼らの死を知って悲しむ人たちの姿が想像できますか?……大切な人が死ぬのは、きっと自分が死ぬよりも辛い。あなたはその大量の悲しみが生まれることをしたんです。どんな理由であれ、それは許されることではありません」


 ミコトの精一杯の訴え。

 気丈に振る舞っているが、その瞳に涙を溜めていることを、千無は長年の付き合いから感じ取る。

 大和の主張がすべて間違いだとすることは、未熟なミコトには、ましてや千無には出来ない。

 ただ、大切な人の味方をすべきだと、千無は容易に判断する。

 千無はミコトの横まで歩き、彼女の頭に軽く手をのせる。

 その拍子に、こらえていた涙があふれ出したのだろう。ミコトの鼻水をすする音が聞こえ、頭が小刻みに揺れる。

 千無が入れ替わるように、大和と視線を合わせる。


「俺もこいつと同じ気持ちだ。あんたの話をいくら聞こうと揺らぐことはない。あんたがまだ自己満足を続けるつもりなら、徹底的に止めさせてもらう」


「………いや、今日のところはやめておこう」


 千無の言葉にそう答えた大和は視線を移す。

 耳を澄ますと、視線の方向から緊急車両のサイレンが聞こえる。


「お前も考えておけ。力を持つことは、あぐらをかくことではない。その力をもって世界を変えることだ。このまま待っているだけでは、弱い人間が損をする世界のままだろ。正義ってのは結局自己満足なんだ。誰かが変えていく必要がある。俺たちには、その力があるだろう」


 そう言い残し、大和はサイレンがする方向とは逆方向に走っていく。

 力を手にしたばかりで、世界についてなんて考えたこともない千無は、上手く理解できない。そんな考えが持てる大和を凄いとさえ思ってしまった。

 大和の姿が見えなくなると、千無は緊張の糸がほぐれ、ポケットに手を伸ばす。

 中に忍ばせた小箱から、白く棒状のものを取り出し咥える。もちろん、シガレットチョコである。

 「おーい」と、背後から千無たちを呼ぶ声が聞こえた。

 その声に反応し、ミコトが千無の手から素早く離れる。その顔はかわいそうなほど紅潮してしまっている。

 そんなミコトに手を伸ばす千無。振り払うミコト。

 弱った女性のみが見せるサービスタイムだったようだ。


(そう言えば、あの人に問いただしたいことだらけだな)


 千無はそう考えながら、謎多き女性のもとへ、ミコトに合わせて足を動かした。

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