第3話 『雫』
凶器を『誰かを傷つける目的で扱うもの』と定義するならば、環千無は今まで凶器というものを手にしたことがない。
彼が温室育ちというわけではない。普通の生活を送っていれば、二十年の間に、誰かを本気で傷つけたいと考えることは少ないだろう。もし考えたとしても、人にはその刹那的衝動を抑える理性がある。
そんな普通の人間である千無が、たとえ怒りに身を任せたとしても、凶器をまともに扱うことは難しい。
だからこそ、彼はこれを生み出した。
この二ヵ月、毎朝のように笑愛との訓練で扱ってきたゴムナイフ。質感、重さ、形状、どれをとっても本物と寸分違わない。
ただ一つ違うのは、これが凶器であるということ。
ゴムナイフ。軍隊で用いられるほど精巧な作りではあるものの、刀身が柔らかく、殺傷力はほとんどゼロといってもいいアイテム。
そんな物が、人の手を容易に貫けるはずがないのだ。
「がっ…くっ…ふ…っく」
ならばどうして藤田大和は、こんなにも辛そうに右手を押さえ、悶えているのだろう。
「はぁ…っお前、雫持ちだったのか」
大和が痛みに慣れてきたのか、立ち上がり言葉を絞り出す。
「雫ってのが笑愛さんに教えてもらったものなら、そうなんだろうな」
雫持ち。おそらく雫の所有者であることを指すその言葉を、千無は力強く受け入れる。
許容するに足りる芸当を、今しがた自分自身で行ったことが大きかったのだろう。
千無の答えを聞いた大和は、納得の笑みを浮かべながら、視線を自分の右腕に落とす。
「『壊』」
そう呟き、右手を握りしめた。
ただそれだけの動作で、先ほどまで脂汗を滲ませていた大和の表情が、穏やかなものへと変化していく。
「あんたは、どんな雫を持っているんだ?」
大学広場を、7つの死体が転がる地獄へと変化させた能力。そこから推測される猟奇的な能力。
それと同時に、先ほどの大和の急な変化は、治療系の能力を有しているようにも思わせた。
しかし、質問した千無も、目の前の男がどちらの能力者であるかは、この惨状を生み出す人間性から理解していた。
「世界の破壊を願ったから、『壊』の雫…ってとこらしいぜ。そこらの肉塊は言わずもがな、俺の右腕に関しては、痛覚を破壊したってわけだ」
つまり前者、猟奇的能力者である。
先ほどまでの千無ならば、その答えの意味を全く理解できなかっただろう。
しかし、彼は体感した。
この世界には、『雫』と呼ばれる不思議な力が存在している。
(こいつの雫は、『壊すこと』に関係しているってことか…。だから…ミコトも…)
思考を中断する千無。
それ以上は、彼の在り方を歪めかねない。
「質問は以上か。…なら次は、俺から質問させてもらう。…お前の雫と…どっちに貰ったかだ。アザミ側だとすれば、戦う理由もないだろう?」
「…あそこの巫女服の人には、『無』の雫であると教わった」
千無は答えながら、笑愛のいる方向に視線を軽く向ける。
しかし、巫女服の目立つ色合いが視界に入ってこない。
(ミコトまでいなくなっているところを見ると、本当に埋めてたりしてくれてるのかな…)
あの惨い肉塊と、大切な人の笑顔が重なる。その事実が、自分を狂わせかねない。
そう考えた千無は、再度湧いてきた吐き気を何とか堪え、大和に視線を戻す。
「…でも、知っているのはそれくらいだ。あんたの言っている、『どっち』という言葉の意味も分からない」
「……そうか…。それなら、俺たちが戦う理由はないのかもしれないぜ。一時休戦としないか?………と言っても、通じる雰囲気じゃねぇよな。………大切な人が亡くなる辛さは…俺もよく知っている」
そう言うと大和は、空を見上げる。
千無には理解できなかった。言葉の意味はもちろんのことだが、それを口にする大和の表情が、とても殺人鬼のそれとは思えなかったからだ。
「なっ…何言ってんだ!ミコトを殺したあんたが、そんな態度見せんな!」
「大切な人ってのは否定しないのか。そういえばあの子、何やら可愛いらしい格好していたな。デートでも控えていたのか?」
大和の雰囲気が和らぐ。
千無のゴムナイフを握る手も、思わず緩んでしまう。
「ああ、あんたの言うとおりだよ。ミコトがデートだと意識していたかは…分からないけどな。今日のデートの時に…ミコトに…想いを…伝えるはず…」
涙が溢れる。千無の潤んだ瞼の奥に浮かぶのは、ミコトとの思い出、あり得たはずの未来。
今朝の千無は、笑愛の指摘通り、神宮司に嫉妬していた。ミコトの服装に気合が入っていることにも気づいていた。
(こんなことになるなら、素直に気の利いた言葉でも言っていればよかったかな。…あア……ナンデオレハメノマエノサツジンキニコンナハナシヲシテイルンダ)
ミコトのことを思い出して募る悲しみと後悔。
ミコトを奪った大和に対して募るのは明確な■■。
「ああ…駄目だな。後悔が結局、■■に結びついてしまう」
「いいじゃないか。俺を恨んでんだろ?■す気で来いよ」
(ごもっとも)
大和の言葉に、素直に納得する千無。
かたき討ちのために、敵に対して■す気で立ち向かうのは当然のことだ。
「でも駄目なんだよ。俺みたいな普通に生きてきた奴は、簡単に人を■せない。傷つけることですら躊躇ってしまう。怒りに身を任せて力が増すなんてのは、マンガやアニメの中だけなんだよ」
だから、■■のない凶器を作るという【無理】を通す。
余計な感情や思考を捨て、■■を【無視】する。
「『無理難題』 『無意識』」
口にすると同時に、ゴムナイフを強く握り直した千無の姿が、右手を握り締めた大和の視界から外れる。
「俺は殺意なく、あんたを殺すぜ」
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