第2話 『無』
葵ノ
木々によって目につかず、暗い印象を受ける小道の先に、その神社は存在している。
誰が言い出したのか、『幽霊神社』という異名まで付けられ、その異名にまつわる噂が余計に人を遠ざけていた。
参拝客の数とお賽銭が減り続けるばかりと、神社の巫女さんが愚痴をこぼしている光景は、もはや一種の様式美となってしまっている。
その神社の境内に、激しい衣擦れの音。
早朝から続くこの音は、2人の人間の運動から生じているものである。
行われているのはゴムナイフを用いた訓練。しかし、そこにあるのは油断を微塵も許さない空間である。
と言っても、本気を出しているのは片一方のみなのだが…。
本気で迫っていく男性の攻撃を簡単にいなしながら、的確に痛恨の一撃を加えていく女性が、先に述べたこの神社の巫女さん、その人である。
彼女の名は
少しでも接すれば、苗字の怖さより、可愛らしい下の名前が印象に残るはずよ、とは本人談である。
しかし、片手にはゴムナイフを携え、年下の男子を容赦なく殴りつけるその姿は、まさに鬼のようであった。華麗に着こなす巫女服ですら、そのおぞましさをカバー出来ていない。
彼女の容赦ない一撃を浴びせられている青年の名は、
年は二十歳だが、若白髪交じりの黒髪と大人びた風貌、達観した態度から、同世代よりも年上に見られることがほとんどであった。
就職率の良さだけを参考に、経済学部に進学した、地元神都大学の2回生である。
以前より笑愛とは、千無の日課であるジョギングコースに葵ノ木神社が存在しているため、時おり世間話をする間柄であった。冗談を交えながら会話できるくらいには仲も良かった。
そんな笑愛から実技訓練の申し出があったのは、二ヶ月ほど前のこと。
その時の笑愛の真剣な眼差しが、冗談と笑い飛ばそうとした千無を強制的に了承させた。
笑愛は素行が多少荒いものの、容姿だけで言えば、道端ですれ違った男が必ず振り向くほど魅惑的なものである。
当然千無も、年上の笑愛に憧れている男の一人だったため、その申し出を受けることはやぶさかでなかった。
しかし、千無は見落としていた。わざわざそんな申し出をしてくる人物が、いくら女性と言え、武に長けているであろうことを…。
この時の浮かれていた千無は、いずれ笑愛の一方的な暴力を受けることになると、微塵も考えていなかったのだ…。
「どうしたの?今日こそは一矢報いてくれるんじゃなかったの?」
乱れの少ない呼吸で笑愛が挑発する。
「昨日…寝つけな…かった…んです。なんか…妙な感じ…がして…ハァ…」
対して息も絶え絶えに笑愛の挑発に言い訳をする千無。
「これから授業だってのにそれはマズいわね~。よし、最後に目覚めの一発よ」
そう口にすると同時に、千無の視界から笑愛の姿が消える。彼が気づいた時には、視界の端から地面を這うようにこちらに接近してきていた。
千無はどうにか防御の構えを取ろうとするが、次の瞬間には自身の首にナイフが突きつけられてしまう。いくらゴム製と分かってはいても、刃物を首に突き付けられるのは慣れるものではなかった。
「はは…目、覚めました…」
千無は乾いた笑いと共に両手を挙げる。訓練を開始してから二ヶ月、毎度この形で敗北を認めることが通例となっていた。
もちろん千無の全敗である。
「あらら…また千無のかっこ悪いとこ見ちゃったなぁ」
ふと、境内へと続く小道の方から弾んだ声が聞こえる。
「ミコトがいっつも訓練終わる頃に顔を出すからだろ」
「ミコっちゃんが来るということは、ちょうどいい時間に終われたようね。今日も一緒に登校?」
彼女の名は
その明るく優しい性格と頼りがいのある気質から、小中高と学級委員を毎年のように務めている。さらに容姿までいいというのだから、男子の間の密かな高嶺の華であった。仲の良かった千無が、男子から憎まれ口を叩かれたのは何十何百どころではない。
と言っても、幼馴染や許嫁のような漫画でよく見る特別な間柄というわけでもない。家が近所という訳でもなければ、仲が良くなったのは高校生に入学してからだ。幼稚園から一緒ともなれば、妙な親近感が芽生え、高校生活では度々二人で話すようになっていた。
大学生活も2年目であるが、2人の間柄は未だ変わらず、高校生活と同じように仲良くしている。
そんな仲良しで気の利くミコトではあるが、訓練終わりの千無を訪ねるのは、どうしてか毎回彼が敗北する場面であった。
「そうですね。あと、いつも通り訓練終わりで小腹が空いているでしょうから、おにぎりを持ってきました」
そう言うと、ミコトは巾着袋を目の前に軽く挙げる。
「相変わらず気が利く~!千無君も将来は安泰ね~」
「肝心なとこには気を利かせてくれませんけどね」
千無は憎まれ口を叩きつつも、待ってましたと言わんばかりに、ミコトの手作りおにぎりを頬張る。
「私はもう少し可愛げのある男の子が好みですので、笑愛さんのおっしゃるような将来はあり得ないですよ」
笑愛の言葉を否定してはいるが、お茶とおしぼりを用意したり、千無を甲斐甲斐しく世話するミコトの姿は、やはりお似合いのカップルのように見える。
笑愛はそんな二人から距離を置き、ポータブルテレビでニュース番組を視聴し始めた。
今のテレビの話題は『イケメン超能力探偵、またまた大手柄‼』。話題の人物は、ここ最近女性に人気のイケメンということだが、笑愛にはその良さがピンと来ない。
「あっ!ツカサ君ですか?」
先ほどまで千無と話していたミコトが、身を乗り出してテレビをのぞき込む。
笑愛はその様子を見て、若いやつにはこの男の良さが分かるのかと、ジェネレーションギャップを痛感する。かく言う笑愛も、まだ、ギリギリ、二十代ではあるが…。
「かっこいいですよね。それに、どんな人の心情も一瞬にして当ててしまうらしいですよ。彼女が出来たら、気遣いとか上手なんだろうなぁ。…大学でも心理学とか専攻しているのかな?心理学、心理…学……あっ‼」
ミコトがイケメン超能力探偵の魅力を語り出したかと思えば、急に固まってしまう。
「そういえば、今日の教育心理学の講義室変更になったんだった。別の学部の講義室だから迷わないように早めに行かないと…。あ、千無はゆっくり休んでから登校してね。ごめんね、今日は先に行くね」
かなり焦っているようで、まくし立てるように言葉を告げると、千無の返事を待たずに、早歩きで大学へと向かってしまう。
半分ほどになったおにぎりを片手に、呆然とミコトが去っていった方向を見つめる千無。
「あんな大事なことを忘れるなんて、ミコトにしては珍しいな」
「まあ、きちんと思い出すというところもミコっちゃんらしいんじゃないの?」
そんなやりとりをした後、千無は手持無沙汰になり、笑愛が視聴しているニュース番組に注目する。
話題は未だに件のイケメン超能力探偵であり、さらにこの後スタジオに生出演するようだ。
「この優男に嫉妬でもした?」
「してません」
「今日のミコっちゃんに何か感じなかった?」
「ん?…いえ、何も気づきませんでした」
「はぁ…素直じゃない、気配りもできない、確かにこれはミコっちゃんが苦労しそうだわ」
残った二人で差し障りのない(?)会話をしていたところで、テレビのCMが明ける。
イケメン超能力探偵の生出演。
大盛り上がりのスタジオで、多くの人々に注目されているツカサが、口を開く。
「『雫持ち』の皆さん、聞こえますか?僕の名前は神宮司です。アザミ様側の人間といえば分かりますか?この声が聞こえる人は、世界意思、神という存在に出会っているはずです。アザミ様と…確か…アオイという二種類の世界意思。…アザミ様に出会い恵みをいただいた者よ。僕らは志を同じくする者です。アオイの者たちを粛清し、僕らの夢を守りましょう。…そして、アオイという存在から恵みを授かった者に告げます。僕らは、僕らの夢を守るために、君たちと…君たちの理想、正義を蹂躙します。君たちにも、僕らの夢を壊して叶えたいものがあるなら、抗ってみてください。…互いの健闘を祈ります……」
「…ですので、僕の超能力はファンの皆さんによって成り立っているんです。だからこそ、これからも応援よろしくお願いします!」
ツカサの演説が終わると同時に、一転して爽やかな声で、アイドルの決まり文句のようなものが聞こえ始める。
前半のツカサの言葉は、口の動きと合っていなかった。心に直接語り掛けてきたというべきかもしれない。
口の動きと同調していた言葉を聞いたテレビスタジオが湧く。少なくともスタジオにいる人間には、先ほどのツカサの言葉は聞こえていないようだ。
ふと、千無が笑愛の方を向く。
笑愛は今まで見たこともないほど真剣な表情をしていた。しかし、その表情には、焦りや驚きのようなものは表れておらず、ただ冷静に状況を整理しているように感じられる。
一瞬の風が吹く。
汗が乾いた身体を、少しばかり身震いさせる程度であった風に対し、千無は何か不穏なものを感じずにはいられなかった。
その感情が何か理解しきれていない状態で、訓練のためのジャージを着替えることなく、千無は大学に向けて駆け出していた。
「待って!千無君!」
千無の後方から、先ほどとは打って変わって焦りの色が表れた笑愛の声が聞こえる。
しかし、千無はその声を聞き入れることなく、より一層地面を蹴る力を強める。
大学に車やバイクで向かう学生を恨めしく思ってしまうほどに、千無は焦燥に駆られていた。その理由が分からないのだから余計にもどかしい。
大学が近づくにつれ、何やら叫び声のようなものが聞こえる。さらに、大学の出入り口から大慌てで逃げ出す学生の姿まで見られた。
「北西口ってことは、教育学部の学生か」
神都大学はかなり広い大学で多くの出入り口が存在している。中でも北西口は教育学部の最寄りの出入り口となっている。そして—――
「…ミコト」
—――桜木命の在籍する学部である。
北西口を通り構内へと走り抜ける千無。一歩一歩踏み出すごとに喧騒は大きくなり、何よりも吐き気を催す臭いが強くなる。雨の日の公園で香るような懐かしい匂いと、不快感しか覚えない悪臭。
千無はあまりの嫌悪感から立ち止まり、鼻と口に手を当て気持ちを整えようとする。
数回の深呼吸。悪臭が消えることはないが、焦る拍動を抑えることには役立った。
息を一つ吐き、千無が再度歩みを始めようとした時、少し先の舗装された綺麗な道の上に、あまりにも不相応な物体が存在しているのが目に映る。
他の人物がその物体を見ても、恐怖か嫌悪感を示し、近づくことなんて考えはしないだろう。
だが、その物体に対して、千無の歩が止まることはない。ただ歩を進め、真下に見下ろすほどに近づく。
そして、広がった血液に自身が汚れることなど考えず、その場にゆっくりとへたり込む。
血で真っ赤に染まった巾着袋。彼女の優しさ、気遣いの象徴。
彼女が着ていた洋服も、先ほどまでの白さを忘れるほどに真っ赤である。
叫びたかった。叫んで我を忘れ、現実を突き放したかった。
そんな千無を、彼の弱さが逃がさない。
先ほどから耐えていた吐き気の限界。とめどなく溢れる涙。
目の前の光景の悲しさからなのか、吐くことの辛さからなのか、千無自身にも分からないほど思考がグチャグチャになっていた。
「落ち着いて、千無君」
吐瀉物と血液の混ざった液体に、額をこすりつけ涙する千無。
その肩にそっと手が置かれ、優しい声が聞こえる。
千無が顔を上げると、息を切らしてはいるが、努めて表情を整えている笑愛の姿があった。よほど急いだのか、巫女服がかなりはだけてしまっている。
「落ち着けるわけっ!ミコトが!ミコトが…」
「…ミコトちゃんのことは私が何とかする。今は、この状況を生み出している者をどうにかするべきよ」
「何とかって…ふざけないでくださいよ!ミコトを埋めるための穴でも掘ってくれるっていうんですか?人の気も知らないで、適当なこと言わないでください!」
「…声を荒げる気力があるなら十分よ。今は一刻を争う状況なの。とにかく黙って聞いてちょうだい」
激昂と共に思わず立ち上がった千無を見上げながら、笑愛が淡々と続ける。
「あなたの雫は『無』よ。…今は、私が何を言っているのか分からなくてもいい。とにかく、その文字と、その文字から連想するものをイメージして」
千無は腑に落ちないながらも言葉に従う。笑愛の真剣な表情と声色に、従うことが最も良いと感じたからだ。
目を閉じ、『無』の一文字をイメージする。自然と思考が落ち着いてくるのが分かる。
(この目を開けたら、ミコトを殺した奴が分かるのか?…もしそうだとすれば、戦うことに…なるんだろうな。…だとすれば…)
自身の手の平に温かいものを感じながら、千無はゆっくりと両目を開ける。
「ああ、お前か」
確信に似た違和感、目に映るその男を敵と判断するにはそれで十分だった。
今朝の訓練で使ったゴムナイフをイメージする。重さ、形状、質感、全てが同じ。違うのは、それが凶器であるということ。軽くて手に馴染み、ゴムのようにしなるナイフを右手に生み出す。
「あなたが正しいと思うことをしなさい。他の誰でもない、あなたのために。…そして、見失わないで。あなたは何も変わらないし、変わってはいけない」
笑愛の言葉を背に受け、両の足に力を込める千無。狙いは一点。標的がこちらに向けている開かれた右手。
相手も何か感じ取ったのか、表情に変化がみられる。
千無は下ろし始めたその右手に集中し、ただ駆ける。
気が付くと手にしたゴムナイフは、大和の右手に突き刺さっていた。
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