第5話 のっく

 今から30年ほど前。山陽地方のある都市に旅行で訪れた時の話である。


 観光に訪れた私は、O市内のシティホテルを宿泊先として選んだ。

 全国にチェーン展開をしている、鉄道会社資本のシティホテルである。


 ロビーは、特段ほかのホテルと違いはない。

 少し暗めの間接照明に彩られたロビーは、落ち着いたインテリアで統一されており、ごく普通のシティホテルといった風情だった。

 フロントでキーを受け取った私は、今日、宿泊する予定の部屋へと向かった。

 ○階の角部屋である。

 エレベーターを降りて、エレベーターホールを右に折れ、さらに通路を右に折れた突き当たりに、その部屋はあった。


 キーを差し込み、ドアを開ける。


 ──その途端。


 部屋の中から、


 ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン──!!


 激しいノックの音が響いた。


 これまでの人生の中で聞いたこともないような、激しいノックの音である。

 その音は、客室のバスルームの“内側”から聞こえてくる。


 客室の扉を開けると、すぐ目の前にバスルームがあるという構造の部屋だったが、その目の前の扉が、“内側”から激しく叩かれているのである。


 なぜ?

 ここは、私の部屋ではないのか。

 なぜ、先客がいて、しかも、バスルームの内側から扉を叩いているのか?

 バスルームは通常、内鍵だ。

 外から鍵を閉める構造にはなっていないから、中に誰かが閉じこめられるということはありえない。


 それなのに、なぜ。

 閉じこめられた者が出してくれとでも言うように、激しく扉を叩いているのだろうか。

 この中に“いる”のは、いったい誰なのか──。

 しかし、確かめる勇気は私にはなかった。


 私は、部屋を変えてもらえないかとフロントに交渉した。


「申し訳ございません。あいにくと、本日は満室でございまして、替えのお部屋をご用意することができません」


 型どおりの慇懃無礼な回答が返って来る。


「何か……あった部屋なのではないですか?」

「は?」


 私の問いに、フロントの男性はあからさまに機嫌を悪くする。


「『何か』とは、どういうことでございましょうか?」

「バスルームの内側から、激しいノックの音がするのですが……」

「失礼ですが、お客様は霊能者か何か、そういったご職業の方でございますか? 変な言いがかりをつけるのはやめていただきたいものです」

「いえ、言いがかりではなく……」

「とにかく、本日は台風が来ていることもあり、満室でございまして、替えの部屋はございませんから!」


 フロントの男性の返答は、叱責に近い。

 なぜ、怖い思いをした上に、フロントの男性からこのような剣幕で怒られねばならないのか。


 結局、私はその夜、自分の部屋に戻ることなく、友人の部屋で一夜を過ごした。


 そのホテルは、2001年に閉館し、現在は専門学校として利用されている。

 ホテルができる前は、陸軍の病院として利用されていた土地だと言う。

 よくよく調べてみれば、過去に自殺も起きているホテルだ。

 フロントで応対してくれた男性は、実は何もかも知っていたのではないか。


 そんなふうに疑っているが、閉館したホテルゆえ、今となっては確かめるすべもない。

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