布団の上に倒れ込んだ。窓の向こうに、朝になりきらぬ空が見えた。

 雲のない静謐な青に、鳥が三羽滑っていった。そのうち、うつらうつらしたが、酩酊の醒め始めた息苦しさで現実に引き戻された。

 私は枕元に置いてある睡眠薬とウイスキーを飲んで、本棚から樂茶碗の図録を抜き出した。横になりながら開くと、自然と望みのページだった。いつも見るところだから、折れて開きやすくなっている。

 長次郎作の鉢開である。私は精神のためでも肉体のためでも、息の絶えるような苦しい時は、この写真を見る。天使の無垢な羽は苦しみを癒さない。光明の射さぬ水底へ堕ちきることだけが苦しみを救う。私はその果てしない深海を、鉢開に匂う艶麗な侘しさに、果てしなく感じるのである。私はページに指を這わせた。虚無を秘める黒の肌と、汚れきった娼婦の肉体のような官能的な形状とを撫でた。

 これが写しであることも、私の気に入るところである。実物は消失して、写しとなりこうして後世の人々の指と目に触れているという運命が、この作品らしい、美しい成れの果てと私には思える。また、実物でないという事実があるから、私はこうして写真ではあるが、安心して肌で触れられるのかもしれない。

 これを初めて目にした時も、彼女が隣にいた。駆け落ちした先の北国を飛び出した彼女が、昔からの縁の私を頼って、この町に来たばかりの頃だったように思う。陽射しだけが空虚に明るい、冬の真昼だった。あてもなく車で走っていて、国道に面した小さな美術館に何の気なしに立ち寄った。樂茶碗の展覧会があって、そこで初めて私は鉢開を見たのであった。美術館の名前も場所も忘れてしまった。平日だったのか、入館者は私たち二人だけだった。しかし、私は何か、怖ろしいことを思い出しているようである。

 私は身も心も失ったように惚れこんだ。いつからここにいてこれを眺めていたか分からなくなるほどに見つめていた。茶碗の鑑賞なんてことは初めてだったが、知識も何もないだけに、剝き出しで迫って来た。

 私を呼び覚ましたのは女の声だ。これのどこがそんなにいいの、と無邪気な冷たさで言う。それで私の陶酔は、雷が光るような冷徹な驚きで破れてしまう。私には彼女が鉢開で、鉢開が彼女なのだ。その美しさは通じている。彼女は私のように鑑賞者ではなく、心の友と出会ったように、目の前の茶碗に惚れ込むはずではなかったか。しかし彼女は鉢開の前に五秒も立ち止まろうとしない。

 女を見たくなくて、私はなおさら鉢開を凝視する。そう、私は、彼女ではなく鉢開を見つめるのである。透明の箱の中で、物言わぬ鉢開を。箱は冷たく硬い。私は触れられない。いつも触れられない。私はいつまでも何にも触れられそうにない。肌の黒が憂鬱を飲みこむほどの絶望である。このやさしい曲線は私を抱擁する柔らかい腕だ。底のない黒い湖の、中心であり底でもあるところで、果てしなく下へ下へ落ちていく私を精神も肉体もなく抱きしめている。

 しかし湖の中に、彼女が浮かんでいる。死んだはずだ。私の知らない格好だ。私の見たことのない白いドレスだ。結婚でもするようである。

 そうだ。彼女は野島と結婚したのだ。一人での、間違いのような自殺に失敗した彼女は、私の前からは姿を消して、彼女と私の生まれた地へと帰ってしまったのだった。駆け落ちをした男から逃れてきて、私のもとへ駆け込んできたのに、死から還ってからは新しく生まれたように、私に電話の一本もなかった。言葉の一つもなかった。私から会いに行くことは、なかった。私はそれでも私しか愛せなかった。彼女が野島と結婚したと、後に私に伝えたのは誰だったか。この辺りのことはひどく記憶がぼんやりしている。

 私は今日また、彼女を死んだとばかり信じようとしていたようだ。恋い焦がれる相手の死を祈るとはなんというおぞましさだろう。いまだ私は彼女よりも自分を愛しすぎるようだ。

「どうして死んでいないのか」

 私は真っ暗な湖の中に浮かぶ彼女を前にして、そう聞きたいような気がして、怖ろしくなって止めた。しかし彼女は答えた。

「私はあなたが祈るほど美しくないもの」

 幸せそうな声である。

「あなたも、私に幸福を諦めさせてくれるほど、美しくないもの」

 私は彼女がそう言うのを聞いてから、私が彼女に問いたかったのはどうして死ななかったのかではなく、どうして私と死んでくれなかったのかだと気が付いた。ならばどうして私と生きてくれなかったのかは、彼女は言わなかった。私も聞きたいとも思わなかった。聞くまでもないのだ。私は今日という一日、誰とも心を通わせなかった。私は私へ言葉を投げかけては、それを自分の胸の内に響かせていただけである。今日だけではないだろう。

「今日だけじゃないし、これまでだけでもないよ」

 女が言った。

「明日からも、ずっとだよ」

「しかし、今はお前と話せそうだ」

「私はあなたの中の私だもん」

「しかしお前は」

 私は、一瞬の躊躇の後に言った。

「結婚をしているぞ。私はそんなお前を見たくないのに」

「自分に嘘をつき通せるだなんて、傲慢だわ」

「ならば私はどうすればいい。無論、死は私からは遠いのだ」

「ずっと迷ってるしかないじゃない。あなたは誰も生かしてきていないのだから、誰もあなたを生かさないわ」

「ならば私は、自分の手で、私だけをどうにか生かすとしよう」

「そうしてるじゃない。それで苦しいんでしょ」

 私はもう、言葉がなかった。

 このままではいつか、彼女が死んだことを信じきって、生き永らえていることを消し去りそうである。全てが忘却せられるのなら人間というのは実にありがたいものだ。しかし、やはり自分に嘘なぞつき通せるものでもないのだろうか。

 私は彼女を愛していた。いや、愛する力はなかったかもしれぬが、少なくとも、愛そうとしていたのは確かだ。

 私は湖の中を泳いでいって彼女の傍に寄った。手を伸ばした。何の感触もなかった。風すらもなかった。私は高く笑ってみた。空の中心のように、声が響いた。笑いは続かなかった。もう何も言いたくもなかった。何を言っても独り言なのだから。

 慰めのように、私は彼女の目を見つめて、そこに青空を飛ぶ白鳥を見た。白鳥は羽を動かすたびに透明に近づいていき、完全に消えると一抹の雪が散った。雪が土を濡らすと、一本の細いたんぽぽが咲いた。たんぽぽの上に虹がかかった。虹はやがて三日月となった。三日月は、女の閉じた目となった。静かに眠っていた。瞼がひっそりと閉じられていた。霧のように白い目元に、長い睫毛が影を落としていた。ああ、思い出した。彼女の寝顔を初めて見た時に、私は愛を知ったのだった。過去の多い彼女の寝顔に、温かな無心が匂っていた。

 美が愛の記憶に滅び呆然とする私に、女は冷笑を浮かべて、消えた。湖の中に、私だけが揺らめいた。


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