参
電車が終わった夜更け、私は終着駅を出て、駅前の歓楽街を抜けて、裏通りの倒れかかっているような立ち飲み屋に入った。
いつものように、蛍光灯が一つだけ点いていて、あとのいくつかは割れていたり、時に思い出したように明滅する。狭い店の隅々に濃い影が落ちている。
私は、店の老婆に清酒を燗で頼んでから、入口から最も遠いところに、一人の女を見出した。正しくは、彼女の傍らに白髪の男もいたが、私の注意は女だけに向いた。客は私たち三人しかなかった。女は私に気付くと、無惨な微笑みで小さく会釈をした。
よく私と彼女とはここで居合わせる。ここには、街娼が客を取りに訪れるのである。土曜の夜は人足が多いから女たちは店に来ては連れ出されてを繰り返すのだが、彼女だけは残っていることが多い。血のないような白い皮膚のところどころに、火傷痕のような紫がかった発疹と傷が広がっているのだ。
今夜も、彼女に纏わりつくのは、惨めな風貌の男である。この店の客なぞ皆そうだが、その中でも際立って落ちぶれた男しか、彼女には纏わりつかない。他の女たちには犬を避けるように手で払われるような者たちだ。彼らに買える女は、彼女くらいなのであろう。
男が女の耳元に何かを囁いた。女が何か囁き返す。すると男は少しの間、考え込むように俯いてから、ポケットから五百円玉を出した。
女は、カウンターの上に投げ出された硬貨を握り締めると、男の手を握った。男がもう片方の手で照れるように白い頭を掻く。ぱらぱらとフケが落ちる。女は老婆に、借りるねと呟いて、便所の扉を開けた。女が男の手を引く格好で、二人が中に入っていく。
少しして出て来た。二人とも言葉がなかった。男は空しい目つきで、一杯だけ酒を飲み、店を後にした。女はその後ろ姿を、虚空を見やるような心なさで見送っていた。
老婆が何も言わずに、グラスに半分ほどの酒を注いで女に出した。女はぺこりと小さく頭を下げて、それを一息に口に含み、便所に入る。うがいと、酒を吐き出す音が聞こえる。
出て来た女に、何気なく目をやると、濡れた口元が蛭のようだった。蛍光灯の軽薄な白明かりの下で、目の中に花の咲くような鮮やかさである。
見惚れていると、女がこちらを見返してきた。私は慌ててふっと目を逸らす。女は、いつものように、じっと私を見ている。私に女を買えるような強い心のないことは、彼女も毎夜ただ酒を飲むだけの私を見て知っているはずだが、それでもいつも誘惑を揺らめかせる。無意味と分かっていてもする癖なのだろうか。深く染み付いた病だろうか。私が目の前を過ぎて行く女を凝視せずにはおかないようなものだろうか。
店の引き戸が開いた。入って来たのは、若い男である。この店で客を取る唯一の男娼だ。女の視線が、私から男娼へと移ると、やさしい微笑みになった。男も彼女の隣に親しげに寄り添った。男が私の横を過ぎて行く時、石鹸の涼しい香りが微かに流れてきた。
私は寂しい安心で、悠々とグラスを唇に傾けた。彼が来ればきまって、あの女は誘惑を忘れて、代わりに恋を取り戻す。男の方も、女の客にしか身を売らないから私を誘惑しない。それに彼も彼女と同じく温かいものを胸に抱いているようである。二人とも、お互いが居合わせている時には誰をも誘惑せず、恋慕の想いを舐めている。客に腕を引かれれば、断れないながらも、接吻を交わしてから別れるのだ。私は何度もその接吻を目にした。身を売る二人だからこそ、自分たちの想いは客とのものとは違うのだと切実に願うかのような、清らかな接吻だった。私はあれ以上に美しい接吻を知らない。
私は、老婆にも私にも聞かせまいとするように唇を触れそうなほど近付けて囁き合う二人を眺めた。娼婦と男娼が、路地裏の狭小な飲み屋で身を寄せ合うなど、安い映画のようだが、だからこそ笑えなかった。どこかがらくたじみた、侘しい美しさだった。荒廃したやさしさが胸に迫った。
男は酒の酔いが回ってくると、女の服に手をかけて、肩だけを露出させた。女は恥じらいがなかった。されるがままだった。きっと、彼以外の誰をも見えていないのだろう。露わになった右の肩には、病の傷が激しかった。少女のような細く白い肩は、傷がなければ蝶のとまりそうな清潔さだったろう。しかし傷のせいで、血まみれの蛙のようになっていて惨たらしかった。
私は凍りつくような驚きで反射的に視線を落とした。しかし、目に見えぬようになって残像として蘇ってくると、異様な美に感じられてきた。私は私の感覚を確かめるために視線を戻した。彼女の肩に男の指が戯れていた。痛むのか、悦ぶのか、女の肩が震える。それを男は面白そうに眺めた。私は男を見ながら男のようだった。彼の愛が乗り移るようだった。静かに痙攣する肩は、蝶のようではなくとも小さな蛾のようで、それはそれで生き生きとしていた。泥沼にも花は咲くのだから、生命の純潔が傷口に輝いて、何の不思議があろう。
男の熱情が沁みてきて、しかし絶えず、女に触れているのは私の指ではない悲しみも胸を染めて、私は妙にそわそわしてきた。根のない花が無音の真空に浮かんで燃えているような、落ち着かぬ感覚が襲い掛かってくる。私は無闇に酒を飲んだ。不安は強まってくるばかりだった。
二人が、肩を抱き合って店を出てからも、不安の余韻が残響のようにあった。私は酒を飲むのを止めて、痺れが引くのを待つように、長い間じっと静止していた。
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