第2話

 闇夜の中を男が女の手を引いて駆けていた。

 今はもう廃墟と化したビル群が、黒き巨人の躯のように立ち並ぶ。その間を伸びる亀裂に蝕まれたアスファルトの道。

 十六夜の月の淡い光が二人の背中をほのかに照らしていた。

 やがて男は行き詰る。道を倒壊しかけた巨大なビルがふさいでいた。わき道すらもない。

 男が背後に女をかばい、いま来た道の方向へ向きなおった。

 男の容姿が月の薄い光にさらされてあらわになる。

 耳が隠れる程度の黒髪が無造作にはねている。肌は少し蒼白い。涼しげでやわらかな印象の目は大きくも無いが細いという印象でもない。鼻も唇も男性としては主張に欠けている。体系は細身。身の丈は175センチほど。着衣は白の長そでワイシャツに褪せたブラックデニム。靴は黒のスニーカーブーツ。二十代中ごろの青年といった印象だ。

 青年は道の向こう、塊のような濃い闇の中をじっと見据えていた。

 闇の奥より聞こえる。

 すすり泣きのような、嗚咽のような、喘ぎのような、苦悶のような、嘆願のような、憎悪のような、悲鳴のような。おそらくは、それら全て。

 夜気を汚すおぞましい声がゆっくりと、しかし確実に膨張しながらすぐそこまで迫る。

 そして声の主は月の光のもとにあらわとなった。

 屍畜――――かつては人としてその生を享受していた者たち。

 今は皮膚を腐らせ腐臭を放ち、それでもなお本能の命じるがまま、生あるものの肉を貪り求めるだけの歩く屍。ぼろきれのようになった衣服で、かつて彼らが社会の中でどのような人間としてその役割を担っていたのか窺える。警官、郵便配達員、看護師、営業マン、コンビニの店員、自衛隊員、作業員。実にさまざまだ。

 青黒く変色し、蠢くウジの塊を宿す腐った顔。口を開くと頬が裂け、隙間からウジ虫がぽろぽろとこぼれ落ちる。そのさらに奥、口腔の闇から悶絶とも絶叫ともつかない声を上げ、息もできないほどの腐臭をまき散らし、百ほどの歩く屍が青年と女に迫る。

 屍畜との距離があと数歩となったところで、青年は女を抱きかかえ、跳んだ。

 それはただの跳躍ではなかった。

 青年のただのひと蹴りで、二人の身体ははるか高く、行く手を阻むビルの屋上まで舞い上がった。屋上の地に足をつくと、青年はゆっくりと女をおろした。

 女の身を包んでいるのは純白のローブ。顔は同じく真白なフードに覆われており、足には白く細い革で編まれたサンダルを履いている。

 青年が再び女の手を引いて歩き出そうとしたその時だった。

 恨み嘆くかのような唸り声。

 屍畜だ。

 辺り一面、屋上のいたるところに奴らはいた。

 逃げた先で再び屍畜に追いつめられようとは、何とも不幸な青年である。

 呪いの宴のようにうめき声を響かせながら、いたる場所から迫り寄る屍者達。

 青年は覚悟を決めたのか、女を背に隠し、屍畜に向きあった。だがその手には武器と呼べるものは何も無く、徒手空拳の構えすらとるわけでもなく、ただただなすすべも無い様子でたたずんでいた。

 屍畜の足は止まらない。獲物への激しい渇望がおぞましい叫び声となって響く。が、その声は突如、骨肉が破砕する衝撃音にかき消された。

 前ぶれもなく現れた黒い影が繰り出す瞬速の拳と蹴りによって、屍畜の頭蓋が次々と砕き割られていった。それはまさに、スイカに仕込まれた爆弾が次から次へと爆発するかのような光景だった。

 ものの一分で、青年と女を取り囲んでいた屍畜らは全て頭部の無い状態で地へ伏した。

 あたりは濃い腐臭と、どす黒い血の匂いで満たされた。その中に、突然現れた男がくわえ煙草の煙を漂わせながら、青年と女を見据えていた。

 男は長い黒髪を風になびかせ、口の端を少しつり上げた。

 童顔の印象を与える奥二重の目の奥に獲物を見るような黒い光が宿る。その着衣は黒く、ウェットスーツのように体にフィットしている。肩、胸、腹、腿、すねの部分はパッドが入っているようで、わずかに膨らんでいた。肩のパッドには円を二頭の龍が挟んでいるような図柄の紋章が赤で描かれている。

 男はふうっと白い煙を宙に向けて吐くと、青年らに鋭い目を向けたまま口を開いた。

「ったく。こいつら殺ると臭くていけねえ」

  男がわずかに顔をしかめながら言った。

 青年は返事を返さず、男に向き合っている。

「その女……お前の『花嫁』かい?」

 再び男が口を開いたが、青年はその目をじっと見つめ返すだけで何も語らない。

 沈黙がしばらく続く。

 ふと、急な夜風が沈黙を終わらせるきっかけを与えた。

 女の頭部を覆う白いフードがめくれ、その顔が月の光にあらわになった。

 銀糸のような髪は淡い光でさらさら輝き、ささやくように音を奏でるかのよう。虚ろな二重の瞳は濃いブルー。整った小鼻と小さくもみずみずしい果肉のような唇。その顔は、男の奥に等しく住まう醜い獣を狂わさずにはいられない強すぎるほどの濃度の魔力を放っていた。

 男の時が止まった。それは魂が一瞬にして焼かれ、掌握された瞬間であった。彼はついに見つけた。自分がいったい何のためにこの世界に生まれてきたのか。その目的を。

 男の口から煙草が赤い点となってこぼれ落ち、唇が狂気の笑みに歪む。目を血の色に染めて。

「我が名はヒュウガ。ヒエイ領が上級騎士。その女をわが花嫁とするため、汝に決闘を申し入れる。問答は無用。いざ、参る」

 旋風を残し、ヒュウガと名乗った黒衣の男は消えた。

 直後、青年のまさに眼前に現れると同時に右の拳を放った。

 青年の頭部はスイカのように破砕することはなかった。わずかに身をよじり、ヒュウガの拳をかわした。

 顔には出さないものの、ヒュウガは驚いていた。

 ベルセルクルモードの時の初動攻撃をかわされたことなど、これまでただの一度もなかったからだ。だが動揺など脇に捨て、ヒュウガはありとあらゆる突きを、蹴りを青年に向かって繰り出していった。それは実に無駄がなく合理的な動作だった。

 それでも、当たらなかった。何一つ彼の攻撃は青年の体にかすりさえしなかった。千二百十五本目の攻撃をかわされた時、彼はバックステップで青年との距離を取った。

 息が切れていた。額に汗が滲む。すでに瞳に灯った赤い光も消えていた。悪寒が全身を捕える。それは久しく感じていない戦慄だと理解した。

「……何者だ」

 切らした息の合間に、問わずにはいられなかった。

 青年は何一つ表情を変えないまま、ヒュウガの目を見ていた。

 そして、

「サクラ……」

 その名を聞いてヒュウガの脳裏に灯ったのは、過去、まだ自分が人と呼ばれていたころに、母に連れられて見た、壮麗、雄大で、どこか悲しげな美しさをただよわせる景色だった。山の斜面を覆うように咲き誇るその花が創り出した光景は幻想そのものだった。

 今はもう母の顔すらもはっきりとは思い出せない。今こうして思い起こしている光景が、はたして現実であったのかどうかも疑わしい。

 サクラ……それは、おそらく母の名であった。

 頬に温かい何かが伝うのを感じた。涙――――思考が止まる。

 そう感じた途端、全身から力が抜け、ヒュウガはその場にひざまずいた。

「オレの、負けだ。……殺せ」

 地を見つめながらヒュウガが言った。

 再び沈黙が続く。そして、

「なぜ」

 サクラと名乗った青年が風に消えそうな声で尋ねた。

 素っ頓狂な返事に思わずヒュウガの鼻から息が漏れる。

「オレはお前に決闘を申し入れ、そして破れた。殺す理由が他にあるか」

 ややあってからサクラが口を開いた。

「あなたの命など、欲しくはない。欲しいものなら……他にある」

 ヒュウガは少なからず衝撃を受けた。

 オレの命などいらぬだと、侮辱するか。だが…………。奴の言う通りかもしれない。女に血迷い決闘に引きずり込んだのはオレ……。ヒュウガはおもむろに立ち上がり言った。

「分かった。この借りは必ず返す。で、欲しいものとはなんだ」

「…………血」

 聞いた途端、ヒュウガの口から笑いがこぼれた。

「そうか、そうだよな。腹、減っているよな。花嫁もたまには休ませてやらないとな。分かった。ついて来い。オレ達の拠点に連れて行ってやる。そこで渇きを潤しな。ヒエイ様にはオレから話を通す」

「ヒエイ?」

 サクラが尋ねた。

「ああ。この辺りを治める領主、我が主、ヒエイ様だ。お前、ヒエイ様の名を聞いたこともないのか?」

「ない」

 ヒュウガが眉根を寄せる。

「いったいお前たちはどこから来たんだ?」

「黒い森の、向こう……」

 ヒュウガの細い目が最大限に見開かれた。

「なんだと? 黒腐の森を越えてきたっていうのか…………信じられん。教えてくれ。森の向こうはどうなってる? 生きている者はいるのか?」

 今にもつかみかかってきそうな勢いでヒュウガがまくしたてた。

 サクラは首を横に振って答えた。

 ヒュウガの問いはそこで終わった。そしてサクラから目をそらして思案した。

 このサクラと名乗る男が何者なのか。現時点ではそれこそが肝心であり、知らない限りは脅威のままである。だが、この男が脅威になるような気は不思議としなかった。それはもう直感としか言いようがなかった。しかしこれまでの経験で、直感がヒュウガを裏切ったことは一度たりともなかった。

 やがてヒュウガはサクラの目を見つめると言った。

「ついて来い」

 声と同時にヒュウガの姿は疾風となって消えた。サクラは女を抱え、ヒュウガのあとを追った。

 ぼんやりと月明かりに照らされた夜の廃墟。生なく眠り続ける市街地を、風のように駆け抜ける二つの影。彼らに気付く屍畜はいない。

 やがて藍色の空に浮かび、身をよじる龍のごとく黒き建造物が現れた。

 それはかつて高速道路と呼ばれていたものだった。

 ヒュウガは山の斜面を跳躍で砲弾のように駆けのぼった。サクラもあとに続く。

 最後の一蹴りで岩肌に別れを告げ、ヒュウガは広いアスファルトの道路へと立った。

 ヒュウガが見つめる先。そこには上り下り両車線を塞ぐようにして巨大な赤錆びた鋼鉄のバリケードがそびえ立っていた。バリケードの高さは10メートル余り。その中央には幅六メートル、高さ四メートルの鈍色の鉄の扉が設置されている。

 バリケードに向かって右端からは、同じ高さの防壁が門の向こう側に伸びる道路に沿って彼方まで建てられている。バリケードの左端はコンクリートで固められた山肌に接していた。

 ヒュウガは門に向かって歩み、扉まで数歩の場所で立ちどまった。数秒の沈黙の後、静謐の夜を揺さぶり起こすかのように、門は甲高い金属音をあげてゆっくりと開いた。ヒュウガは歩き出し、門をくぐった。サクラと女も続いた。三人が中に入ると、再び門は音を響かせながら閉じられた。

 門をくぐると目の前は広場のようになっており、いくつかの篝火が燃えていた。そしてその明かりに照らされながら二十人ほどの男が縦二列になってひざまずいていた。男たちは皆ヒュウガと同じ服を着ていた。おそらくこのテリトリーの騎士たちだろう。肩のパッドの色がヒュウガとは違い黒色をしている。

「おかえりなさいませ。ヒュウガ様」

 先頭でひざまずく白髪を短く刈りそろえた男が言った。この男を含め、後ろに続く者たちのスーツの左胸には、ヒュウガの肩にあるものと同じ紋章が描かれている。

 何本もの深いしわが刻まれた鋭い顔。人間の歳で言えば50代に見える。

「ああ山岡、帰った」

 ヒュウガが答える。

「この者らは?」

 山岡と呼ばれた先頭の男が低い声で訝しげに尋ねる。

「オレの客だ。これからヒエイ様に会わせる」

「承知しました。ですが今は……」

 山岡の顔が曇る。

「また夜食か?」

 ヒュウガが眉をひそめた。

「はい」

「ちっ。これじゃあ反乱が起きちまう……。どの村だ」

「吉田村です。今月は吉田村ばかり。今宵でもうすでに4人目……」

「あそこは若いのが多いからな。分かった、村長にはあとで俺から話しに行く」

「はい」

 ヒュウガは足早に騎士たちの間を抜けていった。サクラ達もあとに続いた。

 山岡は腰を折ったまま。通り過ぎていくサクラ達を横目にした。

 広い道路は幾つもの大きな陥没の跡があり、場所によっては亀裂に沿って段差が生じていた。そんな荒れ果てたアスファルトの上に、いくつかの集落や施設らしきものがあった。電灯などは一切なく、一定の間隔で篝火がたかれていた。

 やがて三人は、左手の黒くそびえる山の斜面を大きくえぐり、均してできた広い場所に到着した。そこには見上げるほど高い、先の尖った電波塔のような鉄塔がそびえ立っていた。鉄塔の下の篝火の傍らには警備の者らしき騎士が二人立っている。ヒュウガが近づくと二人は一礼した。

「主は?」

 ヒュウガが尋ねた。

「は、ただいまお食事中で……」

 ――――突如鈍い衝撃音。

 警備の騎士が言い終わらないうちに彼らの背後に何かが落ちた。全員の目がそれにいく。

 それは人間の、おそらくは女のものであろう遺体だった。頭部はつぶれて原形はとどめていないが髪の長さと衣服で判別できた。そして意外なほど出血はない。

「なんてことを……」

 ヒュウガが顔をしかめ絞るような声で言う。

「サクラ。ここにいてくれ。オレは主人と話してくる。腹が減っているだろうがもう少しの辛抱だ。いいか?」

 サクラがうなずくと、ヒュウガはサクラの耳元で何かを伝え、鉄塔に向かって跳ねた。

 地上三十メートル。鉄塔の中腹に正方形の床が設置されてあった。床の上は全て畳が張られてある。ヒュウガは畳の上に立つと、主がおわす最奥部を見据えた。そこには高さ六十センチ、幅一メートルほどの黒く巨大な鉄の鉢があり、中から炎がごうごうと噴き上がっていた。

 魔物のようにうごめく炎の前に座し、何かを無心で唱える男の姿があった。

 男は時折脇に置いた小壺に手を入れ、掴んだものを炎の中に投げ入れていた。男がそれを炎に投入するたびに、炎は汚らしい咆哮をあげながら爆ぜた。そしてその度に男の影がおぞましくゆがみ、膨らんだ。ヒュウガは呼吸を整え、ひざまずいた。

「ヒエイ様。ただいま戻りました」

 返事がない。

 男はなおも無心で何かを唱え、小壺の中身を炎に投げ入れている。ヒュウガは炎から放たれる凄まじい臭いに耐えきれず息を止めた。さきほど下にいた時からその臭いについては気付いていた。そしてそれが何の臭いなのかということも。それはまさしく人間の臓物を焼く臭いに他ならなかった。

 三十分ほどが経ち、

「ワラキマソワカァ、ウン――――」

 男は狂ったように絶叫し、小壺に残った最後の臓物を血まみれの手でつかむと、燃え盛る火焔の中に投げつけた。轟音を響かせながら炎が夜空に爆ぜた。

 男は血まみれの右手こぶしを顔の上に掲げ、滴り落ちる血をナメクジのように伸ばした舌の上におとした。男の喉仏が歓喜の音を鳴らしながら激しく躍動する。

「……クク……ククク……クハハハハハハハハ――――」

 男は薄気味悪い声で笑い始めたかと思うと、天を仰ぎ大声で笑いだした。

「阿修羅神はこたえられたああ。こたえられたぞおおお」

 男は声を上ずりながら狂ったように叫んだ。

「我が領地を脅かす者に、必ずや天誅を下すとなあ」

 ヒュウガは主の狂気が治まるのを待ちつつも、顔を上げ、その様子を確認しようとした。

 が、背筋が凍りついた――――顔をあげるとわずか数センチばかりの間隔を空けて、主、ヒエイの真っ赤な顔がそこにあったのだ。

 まばたきさえもできぬまま、体中の穴から冷たい汗が噴き出した。

「で、ヒュウガ。何者の仕業であったのか、分かったのか?」

 先ほどの狂気の声とは打って変わって、低くしわがれた不快な声だった。

「申し訳ございません。現場には屍畜どもに喰い荒された無数の残骸と血痕しか残っておらず、敵が何者であるかも……」

 ヒュウガはさらにこうべを低く垂れた。次の瞬間、ヒエイはヒュウガの眼前から消え、さきほど座っていた場所に立っていた。

 ヒエイの体をこうこうと赤い炎が照らす。背中まで生え乱れた白い髪。額には、日の丸を炎の帯が取り囲み、その両側を二匹の龍が背中合わせで挟む紋章が赤色で刻まれている。二重だが好感を持てないつり上がったその目には狂気が宿っている。目の下は薄黒く変色し、頬はそげおち、病人のような人相。その顔面のほとんどの部分は血色のサンスクリッドが埋めつくしており、それは首から下にも続いていた。細身だが無駄のない筋肉に守られた肉体は、返り血を浴びたかのように顔と同じくサンスクリッドで赤く染まっていた。下半身は血に汚れた白のニッカポッカに黒のミリタリーブーツを履いている。

「解せぬが、これ以上考えても始まらぬ。警戒を怠るな」

 ヒュウガは「はっ」と切れの良い返事をした。

「それはそうと……客がいるな?」

 ヒエイの鋭い眼がヒュウガを刺す。

「はい。戻る途中に出会いました。真偽のほどは分かりませんが、黒腐の森の向こうから来たと。手合わせしましたが戦闘能力は高いと思われます。説得して仲間にできれば戦力増強が期待できるかと」

 ヒュウガにとっては賭けだった。サクラに花嫁がいることはすでにばれているだろう。場合によっては貴重な食料である人間のみを残して、サクラは殺される可能性がある。いや、その可能性の方が高いだろう。ゆえに、もしそうなりそうなら合図を送るから女を置いて逃げるよう伝えてある。

「黒腐の森の向こうから……。ふっ、面白い」

 ヒエイはひとり言のようにつぶやくと口の端をつり上げ、畳の端に立って眼下を見据えた。ヒュウガの心拍数が高まる。まずい。女の顔まで見られたに違いない。人間の女である上に、あの恐ろしいまでの美貌。主が放っておくはずがない。早鐘のように鳴る自らの鼓動を聞きながら、遅々として進まない時間が流れたのち、

「ヒュウガ」

 色の無い冷たい声にヒュウガの心臓が飛び跳ねた。

「その男の処遇はお前に任せる。しっかりと働かせろ」

 えっ?

 それだけ? 女は? なぜ女の処遇について何も言わない……。ヒュウガは確信した。主は何かよからぬことを腹の中で企てていると。だがそれを今この場でどうのと言うことはできない。ヒュウガは強制的に頭を切り替え、もう一つの重要案件について意を決して口を開いた。

「マスター。夜食の件ですが、これ以上続くと貴畜どもも黙ってはいないでしょう……」

 ヒュウガは可能な限り慎重に言葉を選んだつもりだった。

「黙っていない?」

 この場によどんでいる空気がはっきりと変わるのがわかった。

「黙っていなければ、どうなると言うのだ?」

 低く唸るような主の声に、黒い怒りが滲む。

 もはや賽は投げられた。

「反乱も、起こりうるかと……」

「反乱? 餌どもが、反乱だと? ふははは、笑わせるな。誰のおかげで奴らはこうしてのうのうと生きていられると思っているのだ。我らの庇護なしでは奴ら人間など屍畜どもの餌。喜んで我らに血を差し出すのが当然であろうが。にもかかわらずさきほどの女、このオレに何と言ったと思う? 『全ての人間の血を飲み干すがいい。その先、今度はお前たちが屍畜の餌となる番だ』とよお」

 言いながらヒエイの身体が怒りに震えだした。

「今夜の者は生かして帰らせるつもりだったが、やめたぁ。ちょうど供物も必要だったしなあ。おかげで阿修羅神に我が願いが聞き届けられた。我らに仇なす者は、はぐれであろうが人間であろうが屍畜であろうが、すべからく天が罰する」

 怒りの絶頂にある主。これ以上神経を逆なですれば上級騎士の自分とて死は十分にありうる。だが、言わねばならなかった。この地と、彼女を守るためにも。

「しかし、せめて亡きがらだけでも、よい状態で村に返してやらねば……。彼らは貴重な食料です」

 言い終わると同時に、獣の咆哮が夜気を引き裂いた。

 ヒュウガは何の抵抗もできず、ヒエイの圧倒的な力で首を握られたまま宙釣りとなっていた。ヒエイの赤い眼がヒュウガの命に牙を突き立てる。

「このオレに。主であるこのオレに、餌どもへ敬意を払えなどと言うつもりか貴様。

 オレはなあ、人間どもを心の底から憎んでいる。こんな世界になる以前は、自分より弱きものに目もくれず、虐げ続けてきた奴らをなあ。我らの食料でさえなければ、屍畜など現れなくともこのオレが根絶やしにしておるわ」

 そう言い捨てると同時に、ヒュウガの体を畳の上に軽々と放り投げた。畳の上に体を打ちつけ転がりながらも、すぐさまひざまずいて忠誠を表すヒュウガ。

「まだ言いたいことがあるというのなら、聞くぞ……」

 その言葉が意味するのは、「言えば殺す」であることは理解していた。もはやこれまで。一抹の不安はあるが、サクラの件があっさりと通ったことだけでも幸運と思うしかない。ヒュウガはこう言うしかなかった。「いえ。ございません」と。


「待たせたな。行こう、案内する」

 ヒュウガはそう言って、地面に横たわる何者かの遺体を抱きかかえ歩き出した。

 二十分ほど荒れ果てたアスファルトの上を歩くと、かつてはパーキングエリアだった場所に着いた。

 網の目のように走る亀裂に蝕まれたアスファルトを突き破り、無数の植物が繁殖していた。その生い茂った木々や草の中に一本の道があった。ヒュウガはそれを進んでいった。  

 しばらく行くと集落が見えた。ベニヤ板やブリキ、トタン等で作られたバラック小屋がところ狭しと密集していた。コンクリートブロックを土で固めただけの粗末な人家もある。人のものとも獣のものともわからない、かすかな糞の臭いが風に乗って運ばれてくる。

 集落の中央に伸びるゆるい坂道を登る。随所に放し飼いにされた犬や猫の姿が見える。鹿までいる。

「驚いたか? ヤギに羊、牛や馬までいるぞ。だが食いもんじゃねえ。食ったりしたら大変なことになる。うちの大将は大の動物愛好家なのさ……」

 不快そうな声でヒュウガが言う。

 サクラはすれ違う動物たちに一瞥しながら無言で歩いた。

「着いた」

 ヒュウガが立ち止る。目の前には三角屋根のうす汚れたプレハブ小屋があった。灯油ランプのわずかな明かりが窓からもれていた。

「ここは吉田村。村長と話してくるから、すまん、もう少しだけ待っていてくれ」

 サクラは小さくうなずいた。

 ヒュウガは抱いていた女の遺体をゆっくりと地面に置き、横開きのドアを開け、プレハブ小屋の中へと入っていった。

 小屋の中には低い正方形のテーブルに向かい合う座イスが二脚、収納棚、鉄パイプ製のベッドなどの必要最低限の家具が置かれていた。座イスには少し頭の薄い、白い短髪の痩せた男が座っていた。顔から察するに五十代。うす汚れた白のポロシャツに黄ばんだデニムをはいている。テーブルの上には白い紙で折られた鶴が何羽もあり、今まさに一羽が彼の手でできあがるところだった。

「村長、夜分にすまない」

 ヒュウガが言う。

「これは、ヒュウガ様……」

 言いながら折り鶴をやめ、男は立ちあがった。身のこなしはてきぱきとしている。

「ささ、どうぞこちらへ」

 村長と呼ばれた男は自分が座っていた座イスを空け、ヒュウガに座るよう促した。

「いや、ここでいい」

 言うと同時にヒュウガはテーブルをはさんで村長の正面にそろりと腰を下ろした。

 村長は恐縮そうな顔をして、そのままもとの座イスに座った。

「いかが、されましたか……」

 村長の声に生気はなかった。むしろ、その声の中に訴えたいなにかを秘めているようだった。

「彩子の件、残念だった……」

 村長は静かな顔でうつむき、低く重々しい声で話し始めた。

「今月に入って、もう、四人目でございます……。いずれも若い者ばかり……」

「すまん。はぐれどもの襲撃も増えて、マスターも苛立っておられるのだ」

 二人の間に沈黙が続いた。

 突如、沈黙を切り裂く叫び声がした。ドアのすぐ外からだった。声は間もなく慟哭へと変わった。ヒュウガも村長も、その声の主が誰であるか分かっていた。

「オレが行く」

 ヒュウガはすっと立ち上がり外へ出た。

 すぐ足もとで、何者であるかすら分からない躯にしがみついて泣き叫ぶ女の姿があった。女は首に赤いスカーフを巻き、淡い桃色のTシャツを着ていた。

「美加……」

 ヒュウガが女に声をかける。女は答えず、遺体に顔をうずめてしゃくりあげていた。

「美加」

 再びヒュウガが女の名を呼んだ。今度は少し言葉に力を込めた。

 すると女はうつむいたままゆっくりと立ち上がり、顔を上げヒュウガの目をきっと睨みつけた。そしていきなり着ていたTシャツを荒々しく脱ぎ捨てると、豊満な乳房をあらわにした。 

 女の突然の行動にヒュウガは唖然とした。

「ほら騎士様。私のことが欲しかったんだろ。いいさ。好きにしなよ。この体、犯すなり血を吸うなりすればいい。その代わり、ヒエイを殺してっ」

 凄まじい剣幕だった。ヒュウガは気圧され、ただその場で立ちつくすしかなかった。

「美加、もうええ、少し落ち着こう。な」

 そう言って、プレハブ小屋からが出てきた村長が女の上半身にバスタオルをかけた。

「ヒュウガ様、どうか娘のご無礼をお許しください。彩子をここまで運んでいただきありがとうございます。あとはこちらで。他になにか御用件が……」

 ヒュウガは気を立て直し、口を開いた。

「ああ、こんな時にすまない。これはオレの客人だ。少し腹をすかせていて、その、こんな時に本当にすまないが……」

「お食事で、ございますね? 今夜の当番は沙耶でございます。家の前に蝋燭が立てられているはずです」

 抑揚のない言葉で告げると、村長はうやうやしく一礼し、娘の肩を抱いてプレハブ小屋へ入っていった。

「すまん。待たせたな。行こう」

 ヒュウガはひきつった苦笑いを浮かべながら言うと、寂しげな背中をサクラ達に見せながら坂道を下っていく。脇道に入り、少し行ったところのブリキ小屋の前でヒュウガは止まった。その小屋の戸の上には太く赤い蝋燭が置かれており、小さな灯が夜風に揺らめいていた。

「入るぞ」

 ヒュウガは優しげな声で言うと、ベニヤ板の扉を引いて中に入った。村長の家のものよりも小さなランプが天井に吊られ、八畳ほどの狭い部屋をほのかに照らしていた。村長の家で見たのとさほど変わらぬ最低限の家具があり、若い女と小さな男の子供二人が、丸いテーブルを囲んでカードゲームに興じていた。女はヒュウガに気付くと、すっと立ち上がり、ヒュウガの足元に正座してこうべを垂れた。

「ようこそおいで下さいました」

 痩身だが血色のよい白い肌。切れ長の瞳の端正な顔立ちは大人の女の色をほのかに感じさせた。

「ああ。よろしく頼む」

「はい、喜んで。お前たち」

 顔に笑みをたたえた女の合図で、男児二人はヒュウガ達の脇を抜けて外へ飛び出した。

「沙耶。今日はオレではないんだ。この客人に食事を」

 沙耶と呼ばれた女はこうべを上げ、ヒュウガの後ろに立つサクラを見つめた。

「はい、喜んで」

 そう言って再びこうべを下げた。

「花嫁は……どうする?」

 ヒュウガがサクラに尋ねた。

「ここで、一緒に」

「そうか……。済んだら村の入り口まで来てくれ」

「分かった」

 ヒュウガは別れ際、サクラの目に薄くほんのりと宿った赤い光を見逃さなかった。

 悪いな、何度も待たせちまって。相当渇いていたんだな。


 沙耶はテーブルを部屋の脇に片付けると、サクラに背を向けてひざまずいた。そして、白いブラウスのボタンをはずしていった。ボタンを全てはずし終えると襟元に手をかけ、ブラウスをゆっくりとおろす。その落ち着いたしぐさが、食事としてその身を幾度となく吸血鬼たちに捧げてきたことを語っている。かすかな衣擦れの音とともに白くつややかな背中があらわとなった。細い首筋には、いくつもの赤黒い点状の傷跡があった。

 沙耶はわずかにこうべを下げて言った。

「どうぞ、お召し上がりください」

 サクラはしばらくその赤黒い傷跡を見つめた後、「いただきます……」とささやくような声で言うと、沙耶の後ろに膝をつき、優しくその両肩を抱いた。

「うっ……」

 沙耶の声と同時に、サクラの牙が彼女の首と肩の間に沈んでいた。サクラの喉仏が躍動する。

「かはあぁ……」

 沙耶の意識が遠のいていく。間も無く彼女の視界は真っ白な光で覆われた。よろめき床に左手をつく沙耶。力も入らずそのまま床に上体を倒し、意識が途絶えた。

「ありがとう……。ごちそうさま、でした」

 サクラは耳で沙耶の脈があることを確認すると、ブラウスを直し、ボタンをとめた。そして立ち上がり、部屋の隅で立ったまま待っていた白いフードの女のもとに歩み寄った。何かを確かめるようにサクラが白いフードの女の目をじっと見つめる。そしてサクラは女の身体をローブの上からそっと抱きしめた。

 小屋を出ると、向かいの小屋の脇から、さきほどの男児二人がサクラを見ていた。不安と嫌悪が入り交る幼い眼差しだった。

「今は寝てる。でももうすぐ起きる」

 サクラは男児らにそう告げると、その場を後にした。


 村の入り口で待っていたヒュウガに案内されたのは、彼ら騎士たちの宿舎だった。それは、かつて高速道路の管制施設であった四角い建物だった。ヒュウガの部屋は最上階の四階にあった。

「オレの部屋はここだ。ちょうど向かいの部屋が空いているから使ってくれ」

 そう言われ、サクラが『第三会議室』のプレートが付いたその部屋の扉を開けて中に入ろうとした時、ヒュウガが言った。

「サクラ。あとで少し話がしたい。屋上に来てくれるか?」

 こくりと頷くと、サクラは女を連れて部屋に入った。

 ヒュウガは屋上の縁、パラペットの上に立ち、彼方を見ていた。月明かりのせいで山々の稜線がはっきりと見える。夜風が肌に心地よかった。

 眼下には道路に沿って立つ鉄のバリケードが続き、一定間隔で建てられた見張り台の明かりが見える。

 待ち人が来た。サクラだ。

「ああ、すまんな。疲れてるのに」

 言いながらヒュウガはその場に腰をおろした。サクラも少し距離を置いて隣に座った。

「どうだった。腹は、満たされたか?」

 陽気な調子でヒュウガが言った。サクラは頷きながら「とても、おいしかった」と返した。

「はは。そりゃそうだ。若い女の血は最高だ」

 しばらく言葉が途切れたあと、ヒュウガが口を開いた。

「さっきの鉄塔の上でのオレとマスターのやり取り、全部聞こえていたと思うが……ここは穏やかじゃねえのさ。お前みたいなどこのテリトリーにも属していなくて、付き従うマスターもいない、そういった騎士のことを『はぐれ』って呼んでいる。奴らは腹をすかせて時々テリトリーに侵入して人間をさらっていったり、巡回中の騎士を襲ったりと、まあよくある話だ。だが今回起きた事件は違った。

 門を出てテリトリーの巡回に出た小隊が三日を過ぎても戻って来ない。連絡を受けてオレは捜索に出た。行方不明になった騎士たちのわずかな臭いをたよりに探し歩いた。するとここからかなり離れた、パトロールの経路からは少し外れた場所に小さな村を見つけた。

 そこで小隊の臭いは途切れていたんだが、不自然なことに村には人っ子ひとりいない。つい数日前までそこで普通に生活していたような跡は残っていたのにだ。ついでに行方不明になった騎士が愛用していた斧も見つかった。さらに付近を探してみると、見つけちまった。おぞましくて思い出したくもねえが頭から離れねえ。一面が真っ黒に染まった光景。怨嗟と呪詛が凝縮されたような腐臭。血だよ。血と、わずかばかりの肉がついた無数の人骨が何十人分もそこら中に散らばっていた。ぞっとしたぜ。ああいうのを地獄っていうのかもな。その地獄の先にあったのが洞窟だ。何者かが隠れ住んでいたような穴だった。おそらくはぐれだろう。

 うちの騎士と洞窟にいたはぐれとの間で何かがあったのは間違いない。勝手な推測だが、洞窟の中にいたはぐれは相当な力の持ち主で、うちの騎士たちを殺した後、その遺体を屍畜どもの餌にしたんだろう。仮にそうだとしたらちょっと厄介だ。訓練された騎士を五人も葬ってしまうほどの実力っていうことは、すなわちオレたちみたいな『サード』ってことはまずありえねえ。おそらくヒエイ様と同じ『セカンド』だろう。それから三日間、辺りを捜索したが手掛かりもなく、あきらめてここに帰ってくる途中、お前と出くわしたってわけさ」

 ヒュウガは胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。

「単刀直入に言う。ここは王国の中でも最果てに位置する場所だ。日に日に拡大する黒腐の森、はぐれの集団、屍畜。王都に近い内陸部よりもはるかに危険だ。五人もの騎士を一気に失ってしまった今、一人でも多くこの場所を守る戦力が欲しい。ここでオレ達の仲間として一緒に戦ってくれ。もちろん食事と花嫁の安全は保証する」

 ヒュウガは言いながら、最後の部分には一抹の不安を覚えていた。

 サクラは彼方を見ながら黙っていたが、やがて横を向き、ヒュウガの目を見た。

 そのまま時間が流れる。

「な、なんだよ。何か言えよ」

 ヒュウガに言われても、サクラは無言のままヒュウガの目を見続けた。

「まあなんだ、その、数日中に返事をくれ」

 ヒュウガはサクラの心を見透かすような目にいてもたってもいられなくなり、ついには目をそらしてそう言った。サクラはヒュウガから目をそらして小さく頷いた。

「話は変わるが、お前、あの女、どこでものにした? 森の向こうか?」

 ヒュウガの口調が急に早くなった。サクラはこくんとうなずいた。

「そうか。森の向こうにはあんな綺麗な女がたくさんいるのか?」

 サクラは首を横に振った。

「だよな……。そういや誰も生きてないって、聞いたな」

 ヒュウガの声に寂しさが滲んだ。少し長い沈黙が続いた。やがてヒュウガが話し始めた。

「ここじゃあよ、手柄立てて上級騎士になれれば自分だけの、他の騎士は手出しできねえ貴畜を持つことができるんだ。それを『花嫁』って呼んでる」

 サクラは黙って星空を見上げながら聞いている。

「お前も知ってるだろうが、オレら騎士の精子では、まず人間との間に子供はできない。卵子との相性が良くないみたいだな。まあそれに関しちゃ別にどうってことはねえさ。性欲もあるにはあるが、それにも増して血への欲求が激しく昂ぶる。だけど、こんなふうになっても、不思議と誰かを、人間を愛しちまうのは変わらねえ……」

 ヒュウガは遠く星空の彼方を見つめながら、深く吸いこんだ煙を星に向けて吐きかけた。

「さっきオレの前で胸さらした女がいただろ? 美加って言うんだ……。取り乱していたけど無理はねえ。あの無残な遺体。あれは美加の幼馴染の彩子。さぞかし辛いだろう。

 これで完全に嫌われちまったな……。

 オレは美加のことが、好きだった。できれば花嫁にしたいと思ってた。こんな時代だ、力づくで何とでもすることはできたのにな。でも、オレにはできなかった……」

 ヒュウガはうつむいて口をつぐんだ。握りこぶしに力がこもる。

 長い灰色の雲が、ゆっくりと月を隠し、そして過ぎていった。

「オレは、ただ……ちゃんと愛されたかったんだよ。好きになった女に、オレがそいつのこと好きなのと同じくらい、愛されたかったんだ。けど人の気持ちまではどうにもできねえ。いくらこんな力を手に入れて、屍畜どもから守ってやってたって、そればっかりはどうしようもねえ。あいつには好きな男がいる。ひ弱な人間の男だ。名は、貴志とかいったっけな。オレとは違って甘い面してらあ。クソが……。ああ、どうしてオレってこんなに女運がないんだろうねえ。ほんと、マジ死ねイケメン」

 ヒュウガは手につまんだ煙草を夜空に向かって弾き飛ばした。

 月明かりが薄く照らすヒュウガの瞳にかすかな光が揺れていた。

 サクラはポケットから真白なハンカチを取り出し、ヒュウガに渡した。

「すまん……」

 受け取ったヒュウガはそれで目を押さえた。そして、鼻をかんだ。

「これ、洗ってから返すわ」

 屈託のない笑顔に鼻声で言うと、ヒュウガはハンカチをしまった。

「悪いな。長々とこんな話。なんかお前といると、その、何て言うの? 何でもかんでも話してしまうっていうか、話したくなるっていうか。まあその、聞いてくれてサンキュウな……。さてと、そろそろ部屋に戻るか。例の件、いい返事を待ってるぜ」

 そう言ってヒュウガは建物の中へ戻って行った。サクラは一人でしばらく星空を見ていた。ふと、だれかに見られていることに気付いた。

 数秒後、

「お前がヒュウガの連れてきた客人か」

 男が背後の闇の中からぬっと現れ、近づいてきた。黒髪をオールバックにし、切れ長の目が異様に鋭い。着装はヒュウガと同じで肩のパッドに赤い紋章が描かれている。男は歩みを止めず、喉をかーっと響かせながら息を吐き、何かを体の内に取り込むように息を吸った。

「腕が立つとのことだが、少し手合わせ願えるか」

 言い終えた瞬間、男は一気に距離を詰めてきた。

「大和龍空拳 龍槍脚」

 男の鋭い横蹴りが、座ったままのサクラの頭部を襲う。だがサクラは上体を反らして、寸でのところでそれをかわした。前髪が少し焼け焦げ、臭いがくすぶる。

「ほう、いともたやすくかわすか。まだまだオレも修練が足りぬ。ヒュウガの目に狂いはないようだ。オレは『イセ』。このヒエイ領の上級騎士だ。よろしくな。美しい花嫁を連れているそうだな。気をつけろ。片時も目を離さぬようにな」

 そう告げると、イセと名乗った男は再び闇夜の中へと消えていった。

 翌日、東の空がようやく淡い青色を帯び始めていたころだった。領内はざわめき立っていた。イセが顔をこわばらせながらヒエイの前に膝をつき、伝える。

「コンゴウ様が開門を要求されております」

「ふんっ。いったい何の用か」

 ヒエイは巨大な鉄鉢の前に座したまま、億劫そうに言った。

「分かりません……」

「通せ」

「はっ」

 イセはヒエイの前から疾風のように消えた。

 男二人が馬にまたがり、ヒエイの拠点内のアスファルトの上を悠然と進んでいる。

 前方を行く者は白馬にまたがり、スキンヘッドの頭にがっちりとした体形。肩も胸の筋肉も大きく張り出している。すぐ後には従者らしき男が、茶色い毛並みの馬にまたがり進んでいた。

 先を行くスキンヘッドの額にはヒエイと同様の紋章がある。二重で猛禽のような印象の双眼は、真っすぐ突き刺すように正面を見据えている。着衣は騎士たちと同じく胸、肩などに緩衝材が入り、体にぴったりとフィットするコンバットスーツ。だがヒュウガ達上級騎士と違い、肩や胸、腹などのあらゆるパッドの部分の色が白く、胸部中央には金色に輝く額と同じ紋章の装飾がある。そして両肩からは白いマントを垂らしていた。

 従者の髪は銀髪まじりの黒色。中央で分けられたその髪の長さは下顎まである。顔の彫りの深さ、太く高く尖った鼻、分厚い唇はこの国の人間の標準を大きく越えていた。着装はヒュウガ達上級騎士と同じ。背中には二本の鋼鉄の棒をVの字に背負っている。

 二人はヒエイのいる鉄塔の下まで来ると馬を下りた。衛兵が二人に敬礼をする。

 スキンヘッドは衛兵を一瞥し、従者にここで待つよう告げ、大地を蹴って消えた。

「元気そうだな。コンゴウ」

 ヒエイがうすら笑いをうかべて言う。背は鉄製の巨大鉢に預けて座している。今は鉢から火は上がっていない。コンゴウと呼ばれたスキンヘッドの長身は、返事もせずにヒエイとの距離を詰めると、なに憚ることも無くヒエイの正面に座した。

「巡回中の部下を何人もやられたそうだな」

 コンゴウはヒエイの顔と全身に描かれた異様な文字の羅列には毛ほどの興味も示さず口を開いた。どうせ気の小さいこの先輩が、転生前の職業で得た知識をもとに神頼みでも始めたのであろうと高をくくったが、実際その通りであった。

 薄笑いから一転、ヒエイが顔をしかめる。

「ふっ。話が早いことだ。どこで見られているのか分かったものではないな」

「敵についての詳細は?」

「分からん」

 ヒエイがだるそうに言った。。

「騎士五人がそろいもそろって屍畜の餌とされる。ただのはぐれの仕業ではあるまい。そのような力を持つ者、我らと同じ『セカンド』か、もしくは……それ以上」

 コンゴウが慎重に言葉を選ぶ。

「それ以上? それ以上だと?」

 ヒエイの声が上ずり震える。

「可能性は……」

「無い」

 コンゴウの言葉を遮り、ヒエイは否定した。

「この国に国王陛下以外、いったいどこに『ファースト』がいるというのだ」

 ヒエイが恐怖に耐えかねたように声を張り上げた。

 コンゴウはヒエイの目を見据えて沈黙し、ややあってから口を開いた。

「そう、だったな…………。いずれにせよオレはこの件、陛下にお伝えする。念のため我が配下の『ヤマシロ』を置いていく。これ以上不穏なことが起きるのは看過できん」

「……好きにしな」

「決して侮るな。相手が仮にセカンドであるならば、血の濃さは我らと同列。オレがしばらくここに駐留して力を貸してもよいのだぞ。本来そのつもりで来た」

 コンゴウは貫くような目でヒエイに言った。

「フハハ。バカも休み休み言え。誰が自分のテリトリーを守るのに、他のテリトリーの主に頼んだりするものか」

 強がるヒエイだが、その目は落ち付かず、顔は引きつっていた。

「……だろうな。まあいい。そのクソみたいなプライドが死を招かぬよう気を付ける事だ」

「とっとと失せろ」

 ヒエイの吐き捨てた言葉をよそに、コンゴウは振り返ることなく鉄塔を降りた。


 鉄塔の上、ヒエイの住処。その夜、ヒエイは幹部会と称して宴を開いた。

 ヒエイはいつものように巨大な鉄鉢に背を預け座っている。傍らには酌をするための村の女が不安そうな面持ちで正座していた。

 ヒエイの左対面にはヒュウガ、右対面にはイセが座る。コンゴウの従者、ヤマシロも呼ばれていた。二人の上級騎士からは少し下がったところに座っている。

 各集落から集められた五人の若い女達がこうこうと燃え盛る篝火を囲み、歌いながらゆらりとした踊りを踊っていた。歌は五十年以上前に流行ったアイドル歌手の恋のバラード。ヒエイの趣味だった。五人の中に吉田村長の娘、美加もいた。

「さあ飲め」

 ヒエイが朱色の盃に揺らめく酒を一気にあおった。上級騎士たちもそれに続いた。

 今夜のヒエイはひどく饒舌だった。

 一方的に話すヒエイの話の大半は、いかに人間が弱く醜く愚かな生き物であるか。対して動物が如何に無垢で正直で愛情豊かで神聖な生き物であるかといった内容だった。

 やがてヒエイは騎士となる以前の話を始めた。これにはヒュウガもイセも全神経を両耳に集中させずにはいられなかった。

「2045年。屍畜どもが爆発的に増え、人類文明がついえた年だ。国も政府も秩序も、全てが瞬く間に崩壊した。オレはある集落で人間たちとともに生き伸びていた。その集落は緑豊かな大きな公園でな、鳥やリス、ウサギに犬猫、鹿や馬まで多くの動物たちも避難していた。

 ある日オレは、怪我をして痩せこけたウサギに餌をやっていた。コタロウって名付けたウサギでなあ。オレがコタロウに与えていたのは集落で配給される野菜だ。

 偶然それを見つけた巡回中の人間は怒り狂った。自分たち人間でさえいつ餓死するかもしれないこんな時に、お前は貴重な食料を動物にくれてやるのか、とな。もちろんオレは引かなかった。動物たちだって人間と同じ生き物だ。こんな時だからこそ力のある人間が保護してやらねばとな。結果、オレはぶちのめされ、しばらく動くこともできなかった。

 ある晩オレは目が覚めた。窓から外を見ると森が燃えていた。嫌な予感がした。火災現場に着いてオレは愕然とした。愛してやまなかった動物たちが、小屋ごと燃やされていた。外から鍵をかけられてな。ただただその場にひざまずき、炎を眺めるしかできなかったオレの横に人間どもがやって来た。おれをボコボコにした奴らだ。そいつらはニヤニヤしながらくちゃくちゃと耳障りな音を立てて何かを喰っていた。

『成光。お前が看病してたウサギ、マジうめえわ。お前がいいもん食わせていただけあってなあ、ありがとよお』

 寺の坊主の息子であるオレにも、初めて、はっきりと自覚できた。これが一片の迷いも罪悪感すらもない、純粋な殺意。行使すべき殺意であるとな。高笑いしながら背を向けて去る奴らのリーダー格の後頭部に、その場に転がっていた石を力いっぱい振り下ろした。いい音がして、そいつはマネキンのようにその場に倒れ込んだ。残りの連中はそれを見て一目散に逃げていったよ。生まれて初めて人を殺した。そう思った瞬間から怒りが急激に冷めていき、代わりに取り返しのつかないことした罪の意識が襲ってきた。ふははっ。うぶだよなあ、オレ」

 ヒエイは盃を女に差し出し、そこになみなみと注がれた酒をぐいとあおった。

 顔はかなり上気して真っ赤だ。

「がくがくと震えるオレをさらに恐怖の底に突き落とした光景。なんと、殺したはずのそいつが動き出したのさ。血まみれの頭を押さえて呻きながら立ちあがろうとしていた。

 やれ、早く。今ならまだ間に合う。

 オレは自分に何度も言い聞かせた。だが、体は恐怖で言うことを聞かず、握りしめていた石は急激に重たくなり、オレの手から地へと落ちた。やがて奴は立ち上がり振り向くと、血にまみれた顔でゆっくりとオレに向かって歩き始めた。オレは立ち向かうことも、逃げることもできずにいた。次の瞬間、奴はポケットから光るものを取り出すと、それをオレの腹へと突き刺した。何度も何度もだ。オレは倒れ込み、焼けるような痛みと、体が瞬く間に冷たくなっていくのを感じた。奴はオレの頭を踏みつけて言った。

『人を殺そうとするとは本性が出たな、なまくら坊主。往生しな』

 そしてオレに唾を吐きかけて去っていった。

 遠のいていく意識の中で、オレが最後に欲したもの。それは、力だ。力さえあれば、動物たちを守ってやれた。力さえあれば、このような不条理にあうことも無かった。消えゆく人間としての、オレの最後の意識の中に現れたのは何だったと思う?」

 ヒエイはヒュウガに尋ねた。

「分かりかねます……」

 ヒュウガは答えて視線を落とした。

「コタロウだよ。真っ白な、綺麗なやつだった。オレがこの胸に抱くと、あまりの安堵に眠っちまうようなかわいいやつだった。そいつが全身を真っ赤に燃やしながらじっとオレを見つめてたんだ。まるで、どうして助けてくれなかったのかとでも言いたそうにしてな」

 ヒエイの顔に悲愴はなく、ヤマシロの後ろで踊る女達を見据え、口の端をつり上げていた。

「そこを国王陛下に救われ、めでたく騎士として生まれ変わられたのですね」

 悪びれもなく言い放ったのはヤマシロ。コンゴウの命令でこの地に留まることとなった上級騎士だった。

「貴重なお話。大変興味深く拝聴いたしました。まるで運命ですな。そのウサギ、もといコタロウがヒエイ様を騎士へと導いた。私にはそのように思えてなりません」

 ヤマシロのそれは明らかな作り笑顔だった。

「ほう。分かるか。ククク……」

 ヒエイはさらに盃に酒を注がせ、天を仰ぎ飲み干す。

「ふあははははははは。今宵は愉快だ。実に愉快だ。騎士となったオレがいの一番にやったこと、分かるかぁ?」

 ヒエイの目に狂気が宿る。

「復讐、ですねえ?」

 ヤマシロが身を乗り出して、さも続きを聞きたいとばかりに調子を合わせた。

「そうよ」

 ヒエイの目が見開かれる。

「いかにして?」

「聞きたいか? ええ? 聞きたいのか? ふははははははははは。教えてやろう」

「是非」

「まずは奴らの親兄弟、親類たちの足の骨を折ってやった。そして全員を一カ所に集めロープで縛った。そしてガソリンをかけて、ボッ」

 ヒエイは目の前にかざした右手こぶしを、ぱっと開いて見せた。

「ここまでは当然だ。やって当たり前。言うなれば前菜よ」

「メインディッシュはいかがされたのです?」

 待ちきれないとばかりにヤマシロが尋ねる。

「ふははは。そう急くな。目の前で燃えゆく親類を見せつけられ、奴ら三人のうち一人は隠し持っていた銃で自分の頭を撃ち抜きやがった。オレとしては痛恨の極みだったが、なんとも幸運な奴よな。だがオレは前向きに考えた。そして神に感謝した。自殺したのがオレを刺した奴でなくてありがとうございますってなあ」

 ヒエイの顔が狂気の笑みに歪む。

「まったくです。ヒエイ様は運がいい」

「だろお? それからオレは奴らを縛り、集落の外の鉄柱にぶら下げた。五分もしないうちに屍畜どもがぞろぞろと集まって来たわ。新鮮な生きた肉を求めてなあ。

 奴ら泣いて許しを請いやがった。親族を目の前で燃やされた時は、呪うだの殺すだの威勢のいいことをほざいていたのによお。屍畜はそりゃあもううまそうに喰っていたよ。

 楽に死なせてやりはしない。少しずつ少しずつ喰われていくようにゆっくりとロープをおろしてやった。キャハハハハハハ……。

 奴らの断末魔の叫び声を、オレはコタロウに捧げた。

 そしてやっと、あの時愛する者たちを救えなかった弱いオレを、許してもらえたと確信した」

 話し終えたヒエイの顔はさらに歪んだ笑みを浮かべていた。

「素晴らしい。まったく素晴らしいお話です。ヒエイ様がそのような過去を乗り越え、今の強さがあるとは、お聞かせいただきこのヤマシロ、光栄の極み」

 うやうやしく頭を下げるヤマシロ。

 いちいち大仰な物言いとしぐさに、ヒュウガもイセも少々苛立ちを覚えていた。

「ふっ……。ところでヤマシロ」

 ヒエイが切り出した。

「お前、主であるコンゴウの過去については、なにも知らぬのか?」

 ヒエイの声と目はヤマシロに虚言を言わせる余裕を奪った。

「はい。一切存じ上げません」

 ヤマシロの顔から作り笑いが消えた。

「知りたいか?」

 ヒエイが不敵な笑みを浮かべる。

 しばしの沈黙の後、意を決した顔でヤマシロは答えた。

「はい」

「ふふん? そうか。では聞かせてやろう。奴が昔、人間だったころ、何と呼ばれていたか、知っているか?」

 そう言ってヒエイはあぐらを崩し、両足を前にだらしなくつき出した。差し出された盃に女が酒を注ぐ。ヒュウガ、イセから見ても今夜のヒエイの飲みっぷりは尋常ではなかった。

「ヒエイ様。お酒が進み過ぎでは?」

 イセが言った。

「ああ?」

 ヒエイの視線に射ぬかれ、イセは沈黙した。

「確か、『死神』だったかと」

 ヤマシロが答えた。

「そうだ。死神だ。死神……。全く奴にふさわしい二つ名だよヒヒヒ……。

 あんななりしているが、ガキの頃はよくいじめられていたそうだ。ある日そのいじめで半殺しにされたそうだ。内臓破裂で危うく死ぬ寸前。母親はそれを機にコンゴウを近所の空手道場に入門させた。そこはたまたま陛下の父君の道場の支部だったらしい。

 奴は二度といじめられたくないのと、復讐したい一心で、目を見張る勢いで強くなっていった。そしてコンゴウは見事復讐を果たした。倒れて降参する相手を、あおむけにさせてあばらを踏み抜いたそうだ。まったく酷いことするよなあ? だが、奴はそこで目覚めちまったんだ。暴力の快楽になあ。そして知った。強ければ、人はこんなにも自分のことを認めてくれるってな。奴は来る日も来る日も喧嘩に明け暮れた。気がつけば地元で最凶と謳われていた『デスザイズ』とかいうワルどものグループのトップになって、ヤクにも手を出すようになった。その時についたあだ名が『死神』。

 やがて世界は屍畜に飲まれた。奴はデスサイズを率いて廃墟となったショッピングモールを拠点に日々を生き抜いていた。そこには奴の母親と妹、メンバーたちの家族も生活していた。外じゃあ屍畜が増えるばかり。モールに屍畜がなだれ込んでくるのも時間の問題だった。そんな緊迫した状況の中、ヤク中でおかしくなっていく支配者から一人、また一人と離脱者や裏切り者が出始めた。コンゴウはいつ死畜が押し寄せてくるのか、いつ仲間に後ろから刺されるのか怯え、精神をすり減らしていった。

 そしてついにその日はやって来た。

 屍畜たちがドアをぶち破ってモールの中へとなだれ込んできたのさ。コンゴウは日本刀を手に戦った。殺して殺して殺して殺して、殺しまくった。殺しながらいつしか泣いていたそうだ。周りのどこを見ても仲間も、家族すらいない。みんな自分一人置き去りにして逃げた。そう思った。やがて屍畜はいなくなった。そしてコンゴウは疲れ果て、気を失った。目が覚めるとそこら中、視界という視界全てが真っ赤に染まっていた。

 そこで奴は見つけちまったんだ。

 刀で切られて死んだ、てめえの母親と妹の亡骸を。そうさ。やつは狂乱して屍畜も仲間も、親も兄弟も、その手にかけちまったのさヒヒヒヒヒ。

 絶望したコンゴウは親兄弟を殺したその刀で、自ら果てた。だが運よく陛下に救われ、騎士としてめでたく転生したというわけさ」

 ヒエイは満足そうな顔でヤマシロをじっと見据えた。その反応を楽しむかのように。

「どうだ? ヤマシロ。これがお前の主の前世だ。気を付けておかんと、お前もいつやられてしまうか分からんぞ。『死神』になあ。ハハハハハハハハ」

 ヒエイが腹を抱えて笑った。その不快な笑い声は酒のせいもあってか、なかなかおさまることがなかった

「これまた貴重なお話。大変ありがとうございます」

 ヤマシロは深くこうべを垂れ、しばらくその姿勢のままでいた。それは不快に歪んだ顔を隠すためだった。

「ククク……。やあれ、いまいち盛り上がりに欠けるな。そういえば、まだお前にもてなしらしいもてなしをしていなかったな」

 ヒエイは思い出したように言うと、傍らで銚子を持つ女の腕を握り、力まかせに引き寄せた。

「きゃあああ」

 女から悲鳴が上がる。篝火を囲んで踊っていた女達も悲鳴をあげて畳の端まであとずさり、身を寄せ合った。ただ一人、美加だけはその場に立ち、全身を震わせながらヒエイを睨みつけ、固く拳を握りしめていた。

「ヒエイ様。なりません」

 ヒュウガが諌めた。が、すでにヒエイの牙は女の背後から、その首筋に深くつき刺さっていた。女は白眼を剥き、顔からは急速に血の気が失われていった。女の血を吸いながら、ヒエイは女のシャツを左右に引きちぎり、あらわになった白く豊満な乳房を、赤黒い爪が生え揃う汚らしい手で弄んだ。しばらくそうして悦に浸ると、ぷはあという声とともに女の首筋から牙を抜いた。女にすでに意識はない。

「そら」

 ヒエイは掛け声とともに女の体を軽々と宙に放った。女の体は放物線を描いてヤマシロのもとへと落ちた。ヤマシロは女の体を両腕の中に抱きかかえた。そして真っすぐヒエイの顔を見た。

「ありがたく、ちょうだいいたします」

 ヤマシロは抑揚のない声で言うと、女の両肩を抱いて上体を立たせ、だらんと落ちた頭と肩の間に牙を立てた。致死量までは吸うまいと決めていた。だがその思いは無意味だと即座に知った。女はすでに絶命していた。

 こんなにまずい食事は初めてだと、はらわたが煮えくりかえるのをひた隠しにしながらながら飲んだ。

 やがてヤマシロは牙を抜き、憐れにも軽々しく奪われた命の亡骸をゆっくりと畳の上に寝かせた。

「ふははははははは。弱きは死に、強きのみが生きる。ヒュウガよ。人間どもに対する情が消えぬうちは、まだまだ真の騎士とは言えん。真の騎士でなければ、陛下が目指す世界の復興はなし得ぬ。明日は『選の儀』を行う。今宵は、これまで、だ……」

 ヒエイは鉄鉢に身体を預け、眠りに落ちた。

 ヒュウガの胸の中をやるせない思いが熱を帯びて渦巻く。だが、今すぐなさねばならないことがあった。

 ヒュウガは、蒼ざめ引きつった顔で憎悪に震える美加を抱きかかえると、瞬時に鉄塔の下まで飛び下りた。着地すると道路まで一気に飛び出し、ひび割れたアスファルトを風のように駆け抜け、吉田村までたどり着いた。村長の自宅、プレハブ小屋の前でヒュウガは美加をおろした。

 美加の殺気は強すぎた。ヒエイが酔っていたからよかったものの、しらふであれば間違いなく殺されていただろう。だからヒュウガは一刻も早く美加をヒエイの感覚の及ばない場所まで隔離させる必要があった。眠りに落ちてはいたが、ヒエイはセカンド。どれほど研ぎ澄まされた感覚を持っているか分かったものではなかった。ひょっとするともう手遅れなのかもしれない。そんな不安も胸に残るが、とにかく今できることをするしかなかった。

 美加は立つことができず、そのまま地面へすとんと膝を落とした。ヒュウガにはかける言葉が見つからなかった。

「私たちの命って……なんなの……」

 消え入るような声で美加が言った。

 ヒュウガには、いくら探してもその問いにふさわしい言葉は見つけることができなかった。ヒュウガはヒエイと同様、人の命を喰らう側の者。その自分が何を言ったところで偽善でしかない。

 長い沈黙が続いた。夏の虫たちが飽きることなく鳴き続けていた。肌を撫でる夜風が少し寒くさえ感じられた。やがて美加は肩を落としたまま立ち上がると、どこを見るでもない目で口を開いた。

「送ってくれて、ありがとう……。もう平気だから」

 ぬけがらのような声だった。

「明日、『選の儀』。貴志も出ると思う……」

 ほんのわずかだが美加の声に色が灯った。

「ありがとね。私、知ってる。あんたが騎士になりたがってる貴志のために時々鍛えてくれてたこと」

 ヒュウガは『貴志』という言葉に、胸に痛みを覚えた。

「ん? ああ。まあ、な……。小柄だが筋はいい。うまくいけば勝ち残れるかもな……」

「そう……」

 美加は安堵と不安がない交ぜになった顔でうつむいた。

「お前ら、付き合ってんのか?」

 思わず口がフライングしてしまった。

「え?」

 美加のうつむいた顔がみるみる赤くなる。やがて美加はこくんとうなずいた。

 ヒュウガは聞いたことを後悔した。やはり胸の中がかき乱される。

「でもね、あいつ、まだ私に指一本触れないの。騎士になって私を守れるくらい強くなるまではそんなことできないって。なんか、真面目?っていうのかな。別にそんなのいいのに。騎士だって人間の子供ができるのを奨励してるのに。でも、貴志にそう言われた時、わたしすごく、うれしかった。そんなに私のこと真剣に考えてくれてるっていうのが、伝わってきて」

 美加の顔がますます赤くなり、語気に生気が戻って来た。それとは対照的にヒュウガの胸の内は廃れていった。真夏であるというのに木枯らしが吹きすさんでいる。そんなヒュウガの表情に気付いたのか、美加がはっとする。

「ごめん。私……」

「いやぜんぜん。オレのことはもう忘れてくれ。あんときゃあ、なんて言うかな、その……気の迷いって言うか。まあとにかく仲良くな。じゃあ、もう行くぜ」

 ヒュウガは決まりが悪いのを隠すように美加に背を向け、逃げるように大きく跳んで消えた。

 貴志のやつ、どおりで最近鍛錬に気合が入ってるわけだまったく。

「生きろよ、イケメン」

 ヒュウガは一人つぶやいた。


 翌日、鉄塔前の広場で『選の儀』が開かれた。

『選の儀』。それは人間から騎士になりたい希望者を募り、定員より多ければ希望者同士、素手のみで戦わせ、勝ち残った者を騎士に転生させるというものだった。

 今回の定員は五名。それに対して各村から三十九名の男たちが集まった。歳は十代から四十代まで様々だった。その中に貴志がいた。歳は二十一。爽やかな印象の短髪に少し童顔の顔立ち。身長は同年代に比べて若干低いが、肉付きはよく、体格はがっちりしている。白のタンクトップに青の半ズボン。拳には痛めないよう赤い格闘用のグローブをつけていた。それはヒュウガからの差し入れだった。

 貴志はヒュウガに何度も礼を言うと、一つだけ頼みを聞いてほしいと言ってきた。それは、あるものを試合が終わるまでヒュウガに預かっていてほしいということだった。

 あるもの。それは銀を加工して作られた指輪だった。表面はいかにも素人が作ったらしくでこぼこしているものの、まばゆいくらいに磨かれていた。そのサイズ違いの指輪が二つ。結婚指輪だった。貴志は「人間相手だけど、相手も必死。きっとオレを殺すつもりでかかってくる。だから、もしオレになんかあったら、その時は、これを美加に……」と、覚悟を決めた顔でヒュウガに差し出した。だがヒュウガは一蹴した。

「逃げ道作ってんじゃねえよ。ちゃんと勝って、生きて戻って来い、美加のために。それにお前は負けねえ。このオレが直々に鍛えたんだからな」

 貴志は顔をほころばせて強くうなずくと、差し出した手を引いた。ヒュウガは、胸を張り勇ましく出場者の待機場へと向かう貴志の姿を見送りながら思った。花嫁をそばに置いとけるのは上級騎士になってからだっていうのに、全く気が早え。まあいい。とにかく這ってでも生きて帰って来いよ。

 闘技場は、土俵さながらの砂で固められた簡素な正方形の舞台だった。鉄塔を背景に、上座の場も砂で高く底上げされており、そこにヒエイ、傍らにヒュウガ、イセ、ヤマシロたち上級騎士が立っている。闘技場の四隅には山岡ら騎士長が。そして闘技場を警備するように、周囲に一等騎士と二等騎士が配置されていた。人間たちは警備の騎士たち越しに、各村ごとにかたまって、自分の村の選手を見守っていた。

 まずは対戦相手を決めるくじ引きが行われた。幸運なことに貴志は、一回戦目不戦勝ということになった。この時美加は神に感謝した。そして、こんな時代、恋人とのささやかな明るい未来をつかめるかもしれないという希望に胸が高鳴った。

 二回戦。貴志の圧勝だった。一回戦を戦わずに上がれてこられたことも大きく、相手は一回戦でかなりの体力を使い消耗していた。そこを容赦なく突き、開始早々攻めて攻めて相手に休む暇も与えず、倒してからも騎士長が止めに入るまで殴り続けた。

 そして三回戦。これに勝ちさえすれば念願の騎士になることができる。貴志に気の緩みはなかった。それはヒュウガのおかげだった。勝負は最後まで何が起きるか分からない。相手に完全にとどめをさすまで気を緩めるな。そう教えられていた。美加は目を閉じ、必死に祈った。

 だが、対戦相手は貴志より二回りはあろうかという坊主頭の巨漢だった。隣の高井村出身、素行の悪さで評判の大男だった。婦女への暴行は茶飯事、過去には喧嘩で村人を死に至らしめたこともあった。だが貴志はそんな大男と相対していても、不思議と恐いという感情はなかった。それはヒュウガの厳しい鍛錬と、覚悟のなせる技であった。自分は今日この場に全てを賭けてやってきている。そして、その先には愛する女性との新たな人生が待っている。何一つ迷うことなどない。全力を尽くし、勝つだけだ。

 試合開始「はじめ」の声が鳴った。

 大男の拳が唸る。防ぎきれない拳打が貴志の左脇腹を打つ。それは想像通りのものだった。確かに重くて痛い。だが、心を折るほどのものではない。貴志は臆することなく拳打で反撃した。やがて、大男の顔に焦りが見えた。同時に手数が減り、上体がのけぞる。貴志のパンチが想像以上にこたえているようだ。

 だが大男も負けるわけにはいかない。戦法を変え、貴志との距離を詰め、小柄な体を抱きかかえるように捕まえると、そのまま腰を軸にして強引に投げ倒した。倒されると同時に大男の体重が貴志の腹をつぶす。それが狙いだった。

 貴志は呼吸ができない。気がつくと大男が貴志の腹に乗り、マウントポジションから今まさに貴志の顔面めがけて剛拳を振り下ろしてくるところだった。

 鼻に燃えるような痛みが爆ぜる。なおも巨漢は鉄槌の拳を緩めない。拳はガードの上、そして合間から貴志の顔をしたたかにつぶしていった。

「やめてええっ」

 美加が泣き叫ぶ。

 薄れゆく意識の中で、貴志は思考した。どうすればこの危機を脱することができるのか。努めて冷静に考えた。目を開き状況を確かめようとするが、瞼は腫れ上がり、光が入ってこない。ならばと、左手で瞼をこじあけた。光が入ってくる。そこに映ったのは、今まさに右の拳を振りかぶって鉄槌を下ろさんとする男の姿だった。それはほとんど反射的だった。拳が落ちてくる瞬間、貴志は頭を右にかたむけた。男の拳は対象を失い、大地を殴った。

 男との距離が縮まる。その瞬間を逃さず、貴志は右手の人差し指を立て、男の左目を正確に突き刺した。ぬるっとした感触とともに、男が悲鳴をあげて大きくのけぞる。その動きに合わせて、貴志は力いっぱい背を反った。巨漢が後方へ尻もちをつく。

 貴志は素早かった。目を押さえ悲鳴をあげる男の背後に回り込むと、その首に腕を巻きつけ締めあげた。貴志の腕は鍛えられ、男と同じくらい太かった。男は必死の形相でもがいた。貴志の髪をつかみひっぱりあげる。だが貴志はおのれの命令に絶対的に忠実だった。死んでも離してはならない。

 やがて男は小動物のような小さな痙攣をおこすと、それ以上、ピクリとも動かなくなった。貴志はそれでも腕を解かなかった。騎士長山岡に制されるまでは。

「勝者、吉田村、内山貴志」

 山岡の声に歓声が上がった。吉田村の住民たちだった。美加は嬉しさと安堵で涙が止まらなかった。果たしてくれた。私たちの未来のために、果たしてくれた。こんな時代に生まれてきて、こんなによかったと思ったことはただの一度もなかった。美加はぐしゃぐしゃの顔で天を仰ぎ、神に感謝した。


 試合が全て終わり、騎士となるべく五人がヒエイのもとに並んでひざまずいていた。

 ヒエイは薄笑いを浮かべながら席を立ち、五名の前に降り立つと威圧的な声で告げた。

「汝ら今日より転生し、失われし世界に新たなる秩序を築くため、その力行使することを、偉大なる国土の王、ヤマト国王陛下とその使徒ヒエイに誓うか」

「誓います」

 五人から一斉に声が上がる。

「立て。そして背を向けよ」

 五人は立ち上がってヒエイに背を向けた。

 端に立つ一人目の男の首すじに、ヒエイの牙が立てられた。

 男の顔に苦渋が広がる。

 やがてヒエイが男の首から口を離すと、男は蒼ざめ、がくがくと震え始めた。そして地面に膝をつくと嘔吐し、仰向けになるや手足をばたつかせながらもがき苦しみ始めた。村人は固唾をのんで見守っていた。これが初めてではないが、いつ見ても身の毛のよだつ光景だった。

 続いて二人目、三人目と、ヒエイは淡々と転生の儀を行っていった。

 そして最後は貴志の番だった。

 貴志はのたうち回る先達者を目の当たりにしても何の恐怖も感じなかった。ただただ達成感と、未来への希望が胸の中を満たしていた。黒く腫れたあがった両まぶたの間から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。

 ヒエイが貴志の首筋から牙を抜くと、貴志はがくりとそのまま眠るように地へ伏した。

 その様子は他の四人とは明らかに異なっていた。貴志の蒼すぎる肌の色も、他の者たちとの絶対的な違いを物語っていた。

 異変を察したヒュウガが貴志のもとへ寄り、確認する――――脈が無かった。

「ヒエイ様っ」

 ヒュウガはヒエイを見ながら叫んだ。

「んん? ああ、すまんすまん。間違えた。あれだあれ、天狗の跳び損ないというやつよ。

 そんなに責めるなよ。オレだってたまには間違えるさ。まあそいつは他のとは違って二回しか戦っていない。騎士になる資格はないって、神がそう言ってるのかもな。ハハハハハハハ」

 高らかに笑うとヒエイは美加の目を見据え、歪んだ笑顔をいっそう醜く歪ませ、鉄塔の上へと跳び去った。

 この時美加は確信した。貴志は、ヒエイに故意に殺された。

 空は突如、黒い雲に覆われ、光を失った。そして瞬く間に大量の雨が降り始めた。

 恋人の名を叫びながらそばへと駆けだす美加。しかしそれを警備の騎士が制した。

「通してやれ」

 ヒュウガの声だった。

 美加は転倒し、泥まみれになりながら冷たくなった貴志にすがりついた。その名を何度も何度も呼び続けながら。神に叫んだ。どうか、どうか恋人を戻してほしいと。

 だが、天から返って来たのは、閃光と空を引き裂く轟音のみだった。

 やはり昨夜の殺気は感づかれていたのだと、ヒュウガは思い至った。にしても、ここまでやる必要がどこにあるというのだろうか。主とてかつては人。無力な人間に対してここまで非情に、卑劣になれるとは。ヒュウガはヒエイの中に巣食う、人間に対する底知れぬ憎悪の奈落を見た。そしてそれはもはや救いようのない闇、病みであると確信せざるをえなかった。

「弔おう」

 そう言ってヒュウガが貴志の遺体を抱えようとした時、

「触るなっ」

 美加の怒号と同時に雷鳴が鳴った。雷光に照らされた美加の激しい憎悪の形相に、ヒュウガは恐怖すら覚えた。

 ……そうだな。オレ達には、この遺体に触る資格はない。ヒュウガは心底そう思った。そして、雨に打たれるまま、重い足をひきずるように宿舎へと歩き始めた。

 それから三時間が過ぎていた。辺りは雨雲のせいもあって、すでに暗い。ヒュウガは宿舎の屋上に立ち、雨に濡れるのも構わずに彼方を見ていた。眼下では家畜小屋で不自由なく暮らすヤギや豚が騒々しく鳴いていた。我が主はあの動物たちが死んだら心が痛むのだろうな。そんなことを思ったりした。美加の心情を思うと、気が触れそうになるほどの胸の辛さを覚えた。だが住む世界、いや根源的な関係性が違う以上、決してそばでその傷を慰めてやることなどできはしないことはよく分かっていた。それはさきほどの美加の『触るな』の言葉に集約されていた。カラスが不吉な鳴き声を響かせながら山へと帰っていく。

 その時だった。

 一発の銃声が雨音の中に響いた。吉田村の方からだった。ヒュウガは駆けだしていた。胸を嫌な不安が這いあがってくる。必死に自分に言い聞かせた。大丈夫。あいつは、そんなんじゃねえ。

 吉田村 村長のプレハブ小屋。その裏山に少女は倒れていた。名は吉田美加。十九年の短すぎる生涯だった。こめかみから血を流し、その小さな手には黒い小型拳銃が握られていた。足元には折りたたまれた白い紙が、重り代わりの小石の下に置かれていた。

 ヒュウガはそれを拾い、読んだ。

「お父さんごめんなさい。もう無理です。どうしてこんな時代に生まれてしまったんだろう。でもがんばった。一生懸命がんばったのに。神様は私から何もかも奪っていった。いや、奪っていったのは神様じゃなくて、憎い騎士たち。これ以上あいつらになにひとつ与えてやるものか。私からすべてを奪った騎士なんかに。だから、ごめんなさい。お父さん。本当に本当にごめんない。ここまで育ててくれて、本当にありがとう。  美加」

 背後に気配がした。ヒエイだった。

「ほほう? これ以上なにひとつ与えない、か」

 次の瞬間、ヒエイは躯となった美加の頭部を鷲づかみにして直立させた。そしてその蒼い首筋に躊躇なく牙を立てた。

「おやめ下さいっ」

 ヒュウガが美加の体をつかみ、ヒエイから引き離そうとする。が、ヒエイも美加の上半身に腕をからませ、圧倒的な力で離そうとはしない。数秒後、美加の体は腹から真っ二つに裂けた。おびただしい量の血と臓物が濡れた地面に音を立てて落ち、あたり一面が赤く染まった。

「そんな……」

 勢い余って地に尻をついたまま、ヒュウガの口から嗚咽のような声が漏れた。

「ぎゃあはっはっはあ。女の体は優しく扱えって習わなかったのかあ? ヒュウガよ。

 いいか。オレ達騎士は喰らい、奪う側なんだ。お前にはその自覚が圧倒的に不足している。やつらは家畜なんだよ。家畜に情など、必要ない」

 雷鳴がとどろく。激しい雨が、真っ赤に染まった地面をみるみる押し広げていく。

「なら、オレは、騎士じゃなくても……いい」

 雨音にかき消されそうな声だった。

「なんだと?」

 ヒエイが殺気をまとう。その時だった。

 敵の急襲を告げる早鐘がけたたましく鳴り響いた。

「お前のことは後回しだ」

 低く獣が唸るような声で言い残して、ヒエイは早鐘の鳴る方へ消えた。



 ある兄弟について。

 およそ六十年前。人類がまだ文明を謳歌していたころ。

 その兄弟の名は龍樹大和と龍樹武蔵。

 父、隆造は優れた武道家であり、龍樹流気空拳の達人であった。幼いころより二人は父から武道を叩きこまれ、厳しい修行の日々ではあったが、経済的にも裕福であり、父母の愛に育まれ、幸せな時間を過ごしていた。だがそれは予期せず、終わる。

 大和十二歳、武蔵十一歳の時、父母は何者かによって凄惨な拷問の末、殺害された。

 事件は強盗によるものとして、犯人も捕まらないまま処理された。だが、その裏に潜む黒い影は確かに存在していた。そして、周辺の住民もその存在こそが犯人であると確信していた。

 事件の真相はこうだった。隆造には先祖代々受け継いできた土地があった。それは彼らの街を抱くようにして立つ、自然豊かな山々の一つ、鬼護山だった。ある時、全国にも名を知られる大手ゼネコンから鬼護山の買収が持ちかけられた。土地の用途はリゾート開発。隆造はこれを断固として拒否した。鬼護山の麓で寺を営む住職や、近隣住民たちも隆造とともに猛反対した。そこに出てきたのが指定暴力団大河組であった。嫌がらせや脅迫行為は隆造のみでなく、反対派の寺の住職や住民にまで及んだ。

 反社会的組織が卑劣な手段にでればでるほど、武道家としての隆造の心は熱く熱を帯びていった。ついにはしびれを切らした若い組員との間に暴行事件が発生するまでエスカレートした。やがて大河組長は、土地買収の依頼主の圧倒的な圧力の前に冷静さを失い、龍樹邸を襲撃、夫妻を拷問にかけ、土地の権利を力で奪おうとした。だが、最後まで隆造は暴力に屈することなく、妻の紗英とともに殺害された。この時兄弟は、偶然にも隆造の親友であり、龍樹流の副総裁でもある八城元司のもとに身を寄せていたため、一命を取り留めた。

 両親なき後、兄弟に引き取り手はなく、彼らは児童養護施設「希望が丘学園」で暮らすこととなった。八城元司は、まだ幼い彼らに暴力団の魔の手が及ばぬよう、あらゆる手段とコネを使って亡き親友の息子たちを守った。

 この施設で二人は合川ユリカという少女に出会う。

 様々な逆境、理不尽の中、三人は互いに助け合いながら成長した。

 両親を無残に殺した大河は、いつしか国内屈指の勢力を誇る指定暴力団、『最道会』の若頭にまで登りつめていた。

 やがて高校卒業後、すでに地元でも札付きのワルとしてその名を轟かせていた大和は、道場時代の同門、山本猛をたより、素性を偽り地元の組に入る。

 山本は大和より四歳年上で、大和の両親が殺害されるまでの三年間を、大和、武蔵らとともに道場で過ごした仲だった。もともとかなりの不良で親を困らせていたが、喧嘩に負けたくない一心で入門。道場に在籍中に更生しかけていたが、大きな目標としていた空手の全国大会を前に、道場が閉鎖されたことにより挫折し、自分を見失ってしまった。そして再び生活は荒れ、ある日、街の不良相手の喧嘩でやりすぎて、相手を半身不随にしてしまう。これにより山本は少年院に入院。入院中に知り合った者の口利きで、ある裏組織に入ることとなった。

 武蔵も高校卒業と同時に、大和と同じ組に入った。このころ武蔵とユリカは恋仲となっていた。

 兄弟は組の中でめきめきと頭角を現し、まるで映画の中の話のように出世していった。そしてついには、『最道会』の幹部にまで成り上がる。手を汚すのも、敵対相手を殺すのも、すべては父母の復讐のためだった。そして武蔵とユリカは結婚する。このころが、三人にとって最も幸せな時期であったのかもしれない。

 やがて兄弟は大河に復讐を果たすため、深夜、最道会の本部でもある大河邸に忍び込んだ。だが二人はあっさり捕えられてしまう。大河は兄弟が何者であるか知っており、事件の日からずっと監視をつけていたのだった。

 激しい拷問を受ける兄弟。大河はさらに二人を苦しめる方法を知っていた。なんと、武蔵の妻となったユリカまでをも拉致し、兄弟の前で部下に延々と弄らせた。復讐も果たせず、この世の地獄の全てを味わわされた三人。

 ついにそれが終わる時がやって来た。大河が懐から取り出した黒光りする拳銃によって。

 そして、大和のこめかみに銃口があてがわれた時、彼は現れた。

 彼は『フジ』と名乗った。波打ちながら無造作に垂れる漆黒の長髪。切れ長で物言わせぬ圧と冷酷さを感じさせる目。彫像のように太く筋の通った鼻。血色のない薄く横に伸びた唇。首筋にはまるで生きているかのような黒い光沢をもつ蛇の刺青を這わせ、死人のように蒼い顔の色をした男だった。大和はこの男を知っていた。以前、組の仕事をしている時に出会った、いわゆる同業者であった。フジの組織は『オロチ』という名で、どこの組にも所属しておらず、表向きは合法的な仕事を生業としていたが、実際は裏の仕事に長けた組織であった。大和がかつてシマの利権をめぐって敵対する有力組織を潰しに行った時、その事務所に捕えられていた山本猛を助けた。山本猛はオロチの一員だったのである。その礼に、後日大和の事務所を訪れたフジ。その姿を初めて見た大和は、得体の知れない空気をまとうフジの姿を前に、背筋に冷たいものを感じた。

 フジは大河の拳銃を制すると、その動きまでも制した。薄れゆく意識の中、大和がその異変に気がついた時には、部屋にいた大河の部下五名の首は胴体から失われていた。大和はその光景がとても現実には思えず、ついに自分はおかしくなり、死に近づいたと確信した。

 だが目の前の光景は現実だった。しかし、死に近づきつつあるという確信は正しかった。

 大和、武蔵、ユリカ。凄惨な拷問による大量の出血のため、彼らの命の灯が消えるのは、もはや時間の問題だった。

 ついに大和の視界は真っ白に染まった。

 彼方に父母の顔が見えた。それはしだいに大きくなっていき、表情までよく見えた。

 二人は微笑んでいた。大和は一瞬安堵したものの、すぐさま胸によぎる違和感を意識した。その正体はすぐに理解できた。オレはまだ、復讐を果たしてはいない。そう悟った時、はらわたから例えようのなく熱くたぎった悔恨がこみ上げてきた。嫌だ、駄目だ。オレはまだ果たしてはいない。復讐のために、ただそれだけのためだけに、弟とともに泥水をすすり、この手を血に染め、陽のあたる人生を犠牲にしてきたのだ。まだだ、まだ、死ぬわけにはいかない。

 その時だった。

 声がした。

 ――――汝、我が使徒として転生することを望むか……

 転生?

 どういう意味だ? 死なずに、済むのか?

 ……………………是非もない。オレはまだ、死ねない――――

 激しい怒りに満ちた感情が、一片の迷いなく大和にそれを選択させた。刹那、大和の首に、フジの鋭い二本の牙が深く沈んでいった。急激な悪寒と全身を駆け抜ける激痛。やがてそれが終わった時、大和は知った。転生したことを。そして眼前に立つ者が唯一絶対の主であることを。それは理屈ではなく、魂と本能に刻み込まれた絶対なる契約。主の名はフジ。大和は主に自らの名を欲した。フジは新たな僕に『ヤマト』の名を与えた。フジはヤマトに更なる選択を迫った。それは死にゆく武蔵と、その妻ユリカの処遇であった。

 フジは言った。

 お前が望むのであれば、この二人も同様、転生させようと。

 ヤマトの口から出た言葉、それは

「なにとぞ……」

 ヤマトと同じ儀式を済ませ、武蔵とユリカもフジの使徒として生まれ変わった。

 フジは、武蔵には『ムサシ』、ユリカには『シナノ』の名を与えた。こうして三人の使徒を誕生させたフジは、大量のエリクシアルを消費したため、しばらく眠りにつく必要があった。その場を去る寸前、フジはヤマトにあることを託し、いずこへと消えていった。 

 翌日、全焼した最道会本部から大河会長の遺体が発見された。解剖の結果、死因は焼死ではなく、拷問によるショック死であることが判明した。全身に、高熱で鋭利な突起物で刺された痕跡が、五十一か所あることが明らかとなった。それは龍樹兄弟の父母が拷問された時、刃物でその身を刺し突かれた数と同じであった。

 それからほどなくして、世界には屍畜があふれ、人類文明は坂道を転がるように終焉へと加速していった。

 ヤマトがフジから託されたこと。それは、来るべき新世界に秩序をもたらすこと、であった。


 ヒュウガはどしゃ降りの雨の中、赤い水たまりの中に膝をつき、うなだれたまま動けずにいた。おのれの無力さ。恋した女のあまりに酷い人生。これほどの力を持っていながら、愛する女一人守ることができなかった。そしてこんなことをした憎むべき相手を、殺すことさえできずにいる。

「許してくれ……。ゆるじでぐれええ……」

 目、鼻、口から、とめどなく液体が流れ出た。

 気配がした。ヒュウガがゆっくりと顔をもちあげる。サクラだった。雨に濡れながら、その目は、哀しむような、慈しむような目をしていた。

「埋めてあげよう」

 サクラはぼそりと言うと、美加の遺体の足側をそっと抱き持ち上げた。ヒュウガは遺体の上半身のもとにひざまずき、濡れた地面に両手をつくと、美加の顔を見つめた。美しいと思った。もう二度と開くことはないが、主張が強いぱちりとした二重の瞳。小さくとんがった小鼻。大口をたたく割には可愛らしい小さめの唇。その全てを、自分のものにしたいと思った。唇を奪いたかった。その小さな体を抱きしめ、心ゆくまで貪ってみたかった。その愛くるしい笑顔で、愛していると、いつの日か言われてみたかった。だが、ついぞ何一つ叶うことはなかった。

 ヒュウガの目に、再び、熱いものがどっとこみ上げてきた。

「くああああ…………ちくしょうっ」

 胸が引きちぎられるような声が雨の中に響いた。ヒュウガは肩で息をしながら、やがて落ち着くと、美加の冷たくなった頬をそっと撫で、愛したその顔を最後に瞼に焼き付けた。そして彼女のトレードマークとも言える赤いスカーフを解き、それを自らの首に巻くと、美加の頭の下に手を差し入れ、上半身だけとなった躯を抱きかかえた。

 二人は村の傍らにある墓地にたどり着いた。雨は霧雨へと変わっていた。

 墓標代わりに、直立した木の板に名前が彫られたものが間隔をあけて立ち並んでいた。大きめの石が墓標の代わりをしているものもあった。二人はまだ手つかずの場所を選び、素手で穴を掘り始めた。美加の埋葬を終えると、ヒュウガはしばらくその場に膝をついて美加が埋まる地面を見つめていた。そして思い出していた。美加に思いの内を伝え、木っ端みじんに玉砕した日のことを。あの日、美加は言った。

「あんたの気持はなんとなく知ってた。うれしかったし、けっこう考えた。あんたの『花嫁』になれれば、もう他の騎士たちに血を吸われることなんかなくなるし、犯されたりする心配もない。それにあんたならたぶん、きっと私を人間としてちゃんと扱ってくれる。だからきっと、幸せ? になれるんじゃないかなって……。でも、ごめん。私いま、好きな人がいるの。

 あんたの花嫁になることを想像するたびに、胸が、すごく苦しい……。

 こんな時代、ただただ怯えて暮らすしかない私たち人間に、そんな選択権なんか無いのかもしれない。百人いたら百人全員が、あんたの花嫁になるべきだって言うと思う。だけど、だけど私は……人として生まれてきて、恋くらい、ちゃんとしたい」

 その時の美加の瞳をヒュウガは忘れられない。人としての尊厳と死の恐怖のはざまで、華奢な体で必死に人としての誇りを貫こうと、震えながら踏ん張っていた彼女の燃えるような眼差しを。

 またしてもヒュウガの胸に熱く激しいものがこみ上げてきた。だがもう涙は流さない。そう決心したそばから、涙はやはり流れ落ちていった。ヒュウガは決めた。そしてサクラに向かい、口を開いた。

「すまん……。今すぐ花嫁を連れて、ここを出てほしい……」

 しばしの間を置き、サクラが「なぜ?」と聞いた。

「オレはこれからマスターを、いやヒエイの野郎を殺す。とは言っても奴はセカンドで、オレはサード。力の差は歴然だ。だからオレはきっと死ぬ。いや絶対……。

 お前はオレの客人だ。オレが死んだあとでヒエイが何しでかすか分かったもんじゃない。だから今のうちに女を連れて逃げてくれ。こんなことになってほんとにすまない……。じゃあ、元気でな」

 そう言い残し、ヒエイは湿った闇の中に消えた。


 早鐘の鳴り方は異常だった。

 強く、早く、これまでにない異常事態であることが嫌でも伝わって来た。

 早鐘に混じって聞こえる耳障りな汚い声。ヒエイにはヒュウガと対面していた時からその声が聞こえていた。その声が今は鮮明に聞こえる。ヒエイが正門、鋼鉄門の上の見張り台に立つと、それは見えた。四車線の幅、おおよそ二十メートルいっぱいに無数の屍畜が押し寄せており、その群れは最後尾が見えないほどの数だった。それらの腐った喉から発せられる汚らしいうめき声が幾重にも重なり、大気すら汚さんばかりの大合唱を響かせていた。屍畜たちは鋼鉄の門に押し寄せ、その大群の圧にまかせて扉を激しく打ち震わせていた。

「これほどの数の屍畜……見たことがありません。このままでは扉が……」

 おののきを隠せない顔で、イセがヒエイに言った。目を細めて見降ろしていたヒエイだが、やがて、

「何千何万いようと関係ねえ。駆除するだけだフヒヒ」

 きゅうと唇をつり上げ、ヒエイは屍畜の群れの中へと飛び込んで行った。

「大和龍空拳 鷲蹂脚」

 着地と同時にヒエイは両足を鋭く斜め下に突きだした。

 その技で、その場に密集している数体の屍畜の体が砕け散る。

 自ら作ったそのスペースに着地したヒエイは両掌を広げると、その腕を鎌のように振り回しながら群れの中に突進していった。ヒエイが腐った群れの中を進むにつれ、その場所から赤く、黒く、茶色い、血、肉片、ちぎれた臓物、骨片がしぶきのように上がっていった。その光景は、まさに巨大なミキサーの刃が屍畜の群れの中を突き進むようだった。

 イセは、鋼鉄門の上から、主の恐るべき力に見入っていた。やがて武者震いすると、「我らもヒエイ様に続くぞ」と配下に叫び、門の下へと飛び下りていった。傍らでこの地獄と呼ぶにふさわしい光景を見下ろしていたコンゴウの配下、ヤマシロはふーっと億劫そうな息をひとつつくと、背に負った二本の鉄棒を両手に構え、イセに続いた。

 腕を振るたびにどす黒いしぶきをあげながら切り裂かれ、飛散する屍畜の腐体。その感触はヒエイにありありと伝わっていた。オレの一振りでいくつもの屍畜たちがこの世界から消えていく。オレこそが強者であり、この世界に新たなる秩序をもたらすための使徒。

 裂けよ! 砕けよ! 爆ぜて死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねえええええええっ――――

 ヒエイの双眼は深紅に染まり、虐殺の快楽に陶酔する悪鬼――――ベルセルクルと化していた。

 凶器の大鎌と化した腕を振ること実に数千。しかし屍畜の群れに終わりは見えなかった。だがそんなことはどうでもよかった。ヒエイは殺すたびに体を駆け巡る快楽をどこまでもどこまでも貪った。殺した。ただただ殺した。こんなにも単純で愉快なことが他にあろうか。腕を振れば肉が裂け、骨が砕け、命が消える。そしてその時ほど自身の存在の意義を感じることはない。オレは無力ではない。オレは奪われる側ではない。オレは、奪い、この世界に絶対的に必要な存在だ。だから殺す殺す殺す殺す殺す――――駆除する!

 目を真っ赤に血走らせた悪鬼はその腕で、切り裂き、砕き、薙ぎ払った。少なく見積もっても一万体以上の屍畜は駆除しただろう。

 ふと立ち止まる。ここはどこだ? 快楽にまかせて突き進んできたが、どんなに進んだとしても高速道路のアスファルトの上に違いはない、はずだった。足元は屍畜の死体で敷き詰められている。それはそうだろう。オレが片っぱしから殺していったのだから。だが周囲のこの風景は何だ? 闇……転生して以来、暗闇の中でも目は異常に効く。だが今、どんなに周囲に目を凝らして見ても、道路の端や山の稜線、あるはずのものが何一つ見えない。見えるのは、厚みさえ持っているかのような濃い闇のみ。

 その時、ヒエイはよろめいた。なんと足元に埋め尽くされた屍畜の躯が波打ち、揺れだした。

「なんだ、これは……」

 ヒエイはおののき、波打つ躯のせいで倒れてしまわないよう、両足を広げてバランスを保った。そして前方彼方に信じられないものを目撃する。

 波打つ屍畜の躯の絨毯は、ヒエイの前方に集約し、その場所が少しずつ山のように盛り上がっていく。

 やがてその山の頂を突き破り出てきたそれは、巨大な闇が固まってできた三面六臂。阿修羅神だった。黒き巨躯に血色の双眸を光らせた阿修羅神が、地鳴りにも似たおぞましい産声を上げる。正面を向く顔に浮かぶ赤き二つのまなこがヒエイをぐりっと見下ろす。ヒエイの呼吸は止まり、指一本動かすこともかなわない。

 これは恐怖、死そのもの。絶対的に服従すべきもの。本能が声高に警告していた。それはヒエイが生まれて初めて知る、国王をも凌ぐかもしれないほどの恐怖であった。

 視界に何かが入った。

 いまだ鼓動のように波打つ死畜の絨毯の上を駆けてくる小さきものがいた。それは真白なウサギだった。ウサギはヒエイの足元までたどり着くと、器用にその足に爪をかけ、背中をひょいひょいと上り、ついにはヒエイの右手のひらにたどり着いた。ヒエイは反射的に両手の手のひらでウサギを包んだ。

 コタロウ?

 いつも怪我をした足を引きずりながら、それでもオレの姿を見ると駆け寄って来た。よく勝手に小屋を抜けだしてはオレの布団にもぐりこんできた。畑仕事で怪我した指を、お前はぺろぺろいつまでも舐めてくれた。こんなにも小さく、愛しく、唯一お前だけがオレの、オレの友達だったのに……。オレはお前を守ってやれなかった。

 その時、ヒエイを睥睨する阿修羅神が命じた。その言葉に、ヒエイの魂と全身は凍りついた。必死に抗うヒエイに、大いなる闇は、はらわたを震わせるかのような声で再び命じた。

「そのウサギを――――喰らえ」

 ヒエイは恐怖のあまり、失禁していた。ヒエイは血管の浮き出た真っ赤な目をカッと見開くと、わなわなと震える両手にのせた小さく白きものを歯で挟むと、柔らかなその肉を容赦なく引きちぎった。小さき者は苦痛から逃れようと身をよじる。ヒエイはそれを両手で潰れるほど強く握って抑え、さらに肉に歯を立てて引きちぎった。何度も何度も何度も噛みついては肉を食いちぎった。こんにゃくのように柔らかい肉を噛むたびに、ぬるい血が口の中にあふれた。まもなく小さき者は痙攣し、全く動かなくなった。


 兵舎の四階。

 サクラのいない部屋で、純白のローブに身を包んだ少女はベッドに腰掛け、窓から彼方を見つめていた。

 ひどく湿気を帯びた空気の中を、血と、腐敗した肉の匂いが混ざり合い、ゆったりと風に溶けている。

 少女のうつろな青い瞳の先には、蛇のように蛇行した建造物が果てしなく続いていた。

 臭いはそこから湧きあがっていた。

 そしてそこには無数の死が産声を上げていた。

 血、肉、臓物、恐怖、死。それらが闇を歓喜させ、今まさに何かが顕現した。

 少女にはそれが分かった。

 少女はその「何か」を見守った。

 だがしかし、生まれたばかりの「何か」は、少女と、ある人間の少女の墓標の前でたたずむ青年に見られていることを悟ると、何事もなかったかのように瞬時に姿を消した。

 青年、サクラの瞳に一瞬灯った炎は、「何か」が消えたあともしばらく燃え続けていた。


 ヒエイは全身を震わせながら、両手の中の小さな骸を見つめていた。真白だった体躯は、もはや原形をとどめておらず、赤黒く光る肉の塊と化していた。今はもう、恐怖の絶対者の気配は感じられない。それはヒエイの中にかつてない恐怖の痕のみを残して消えた。ヒエイの意識に正気が戻ってくる。同時に両手の中の肉塊も消えていた。

「ああ……あああ…………」

 ヒエイは力なく呻いた。それは自身への絶望から漏れた声であった。転生し、欲してやまなかった力を得て、奪う側、大切なものを守る側になったはず。それなのに自分は、あの時と同じくコタロウを、今度は自らの手で殺してしまった。オレは何と非力で、無価値な者なのだ…………。

 虚無の底に沈むヒエイの全身を、突如激痛が駆け巡った。吐き気をもよおす腐った肉の臭いが鼻腔に満ちる。気がつくと、全身に何体もの死畜が喰らいついていた。正確に言うと、すでにヒエイに体は何度も死畜によって食いちぎられていた。

「うぎゃああああああ」

 絶叫とともにヒエイは両腕両足を振り回し、喰らいついた死畜たちを振り払った。だが振り払われても即座に起き上がり、死畜たちは獲物に迫り来る。

 ヒエイは血まみれの体を奮い立たせ、激痛をこらえながら迫り来る屍畜を一体ずつ仕留めていった。よろめきながら肩で息をする。全身から血が滴り落ちる。それとともに騎士としての力が急激に失われていくのをまざまざと感じていた。血が足りん……。思った瞬間、汚らしい呻き声が鳴った。それも複数。すでにヒエイの周りを取り囲んでいた。

「貴様らなんぞに、貴様らなんぞにこのオレが喰われてたまるかよ」

 上ずった声で絶叫すると、死力を振り絞り、ヒエイは両腕を振り回した。だがその攻撃に、最初のころのような殺傷能力は無かった。一振りで死畜一体の体を引き裂くのがやっとだった。それでもヒエイは襲い来る死畜を次から次へと葬っていった。だが、屍畜たちの襲来に終わりは来なかった。殺しても殺しても、あとからあとへ次々と、まるでどこからか生まれてきているのではないかと思うほど絶え間なく現れた。ヒエイはもはや立っているのがやっとの状態だった。黒褐色に変色した汚らしい死畜の腕が、血の滴るヒエイの生肉を欲して次々と伸ばされる。

 その時だった。

 ヒエイを取り囲んでその肉に今にも触れんばかりの死畜の集団が、ことごとく引き裂かれ、砕かれ、葬られていった。現れたのはイセとヤマシロだった。

「ヒエイ様」

 イセは血まみれの主のもとに駆け寄ると、ふらつく体に肩を貸した、次の瞬間、ヒエイはイセの首筋に喰らいつき、のどを鳴らしながらその血を吸い上げた。

「ぐあああああ……」

 突然のことにおののき、しかしイセは抵抗することなく白眼を剥きながら主に命を分け与えた。ヤマシロはその光景を、顔をしかめながら見ていた。

 突如ヒエイは吸血を停止した。

 研ぎ澄まされた刀の切っ先のごとく危険な殺気に、全身を貫かれるのを感じたからだった。闇の中にたたずむ黒い人影。厚く黒い雲を風が払って、楕円の月があらわとなる。月の光に照らされ、ほのかに浮かび上がる人影は、赤いスカーフを額に巻いた上級騎士、ヒュウガだった。

「ほお……。ヒュウガよ。お前、引き返せねえ場所に立っているっていう自覚は、あるんだろうなあ?」

 ヒエイが低くしゃがれた声で圧する。ヒュウガは口を結んで語らず、一歩ずつゆっくりとヒエイとの距離を縮めていく。

「ヒュウガ。貴様正気か。主殺しは五禁にふれる。破ればただの処刑ではすまぬぞ」

 イセが蒼ざめた顔で叫ぶ。

「こいつに主と呼ばれるだけの価値があると、本気で思っているのか。イセ」

 押し殺した低い声からは、激しい怒りと決意が伝わってくる。

 顔をこわばらせて黙するイセ。鼓動が高鳴る。イセは選択を迫られていた。ヒュウガの歩みがさらにイセを追いこんでいく。最後に苦虫を噛み潰したように顔をゆがめると、イセは決断した。

「我が主に仇なす者は、葬るのみ」

 イセがヒエイの前に歩み出た。

 そのまま拳を構え、ヒュウガに襲いかかった。

「龍牙掌――――」

 地を蹴って、イセの渾身の掌底打ちがヒュウガの顔面に迫り来る。が、ヒュウガは半身を切って、寸でのところでその一撃をかわした。ヒュウガのなびく髪がイセの拳線に入り、ちりちりと焼かれる。

 鈍い衝撃音――――勝負はついた。

 イセの掌底をかわした瞬間、ヒュウガのえぐるような右ひざ蹴りが、イセのみぞおちに突き刺さった。致命傷ではないが、人間の血を吸わない限りはしばらくまともに立つこともままならない程度のダメージだった。

 ヒエイの足元まで吹き飛び、地を転がりながら悶絶するイセ。

「血を吸われすぎたなイセ。キレがない。転生前からの格闘家をなめてんじゃねえ」

 ヒュウガは無表情で言うと、ヒエイへと歩みを進めた。

「クハハハハハハハハァ。おもしれえ。おもしろすぎるよヒュウガああ。お前は何も分かっちゃあいねえ。セカンドとサード。その絶対的な力の差ってやつをなあ。教えてやる。楽に死ねると、思うなよ」

 ヒエイの眼に、再び赤が灯る。

 腰を落とし、直角に曲げた両腕を肩の線で左右に構え、指はいつでも敵を八つ裂きにできるよう鉤状にして間隔を空けている。その姿はもはや血に飢えた獣そのものだった。

 セカンドのベルセルクルモード――――ヒュウガの全身の毛がそそけ立つ。だがヒュウガの覚悟は微動だにすることはなかった。新たな命を与えてくれた恩義はある。しかし、オレが仕えるべき主は、お前のような獣にも劣る無慈悲で卑劣な残虐者ではない。そして何より、オレが愛した女の願いを、たった一つ、オレに託してくれた願いを、たとえ刺し違えてでも、必ず叶える。

 ヒエイの姿は消え、次の瞬間ヒュウガの目の前に現れた。両腕が草刈鋏のようにヒュウガの胴体を捕える。が、これは想定内だった。ヒュウガは敢えて一歩前へと地を踏み、右ひざを天へと突き上げた。ヒエイの顎がつぶれ、押し上げられ、血にまみれた体躯がそれに続く。

 ヒュウガはこの機会を逃しはしなかった。

 宙に浮くヒエイの足首をつかみ、そのままアスファルトの上へ叩きつけた。さらに倒れ込んだヒエイの上に馬乗りになり、顔面に容赦なく拳を叩きこんでいった。

 豪雨のように激しく打ち降ろされる拳に、なにもできずに顔を潰されていくヒエイ。ヒュウガの眼にもまた赤い光が灯っていた。

 ヒュウガはとどめの一撃を振りかぶった。それは拳ではなく手刀だった。ヒュウガの刀が主であった男の醜く歪んだ血まみれの顔に突き刺さる、まさにその瞬間――――。

 ヒュウガの体が右わき腹を支点にくの字に折れ、そのまま左方向へと飛ばされた。ヒュウガの脇腹に蹴りを放ったのは、イセだった。

 傷を負いながら主の危機を救ったイセは、すぐさまその場に膝から崩れ落ちた。

 アスファルトの上を二回転ほど転がったヒュウガ。鈍い痛みを右わき腹に感じながらも、すぐに嫌な予感が頭をよぎった。そしてそれは無情にも現実となった。

 ひざまずき腹を押さえてうつむくイセの首筋に、血まみれの獣が牙を立て、思う存分その血をすすっていた。

「うがあああああああああああああああっ」

 従僕の血を飲み干し、飢え切った腹を十分に満たすと、真っ赤な獣は月に向かって禍々しく吠えた。獣の傷がみるみる癒やされていく。最後にヒエイは折れた鼻の骨を片手でつまみ、コキッという音とともに正常な位置に直した。足元には冷たくなったイセの死体が転がっている。

「こいつは本当に役に立ってくれたあ。親思いのできた下僕だったよ。ヒュウガ、お前とは違ってなあ。だがなヒュウガ。オレもこんなことで一度に二人のできた部下を失うのは本意じゃねえ。どうだ。考え直さねえか? 今ならまだ許してやってもいい」

 言った直後、ヒエイの鋭い指がヒュウガの胸を引き裂いた。反射的にバックステップしたのと、コンバットスーツのおかげで致命には至らなかったが、ヒエイの言葉のせいで完全に油断したことを悔やんだ。ヒエイは許すつもりなど毛頭なく、ヒュウガに隙を作らせることが狙いだったのだ。ヒュウガは改めて思い知った。やはりこの卑劣な獣にとっては、オレもイセも、ただの道具にすぎないのだと。

 間髪いれずヒエイの猛攻が始まった。それらはヒュウガがヒエイの顎に膝蹴りを叩きこむ直前の攻撃よりも更に速度を増していた。前方から現れ腕を振るったかと思うと、刹那、背後に、それをよけると今度は真横に現れた。

 おそらくはイセの血を十分に飲み、怪我も体力もほぼ全快したのだろう。ヒュウガは空を裂き振り回される大鎌のような攻撃をなんとかかわすことで精いっぱいだった。あまりの威力と速さのため、周囲に小さな嵐が巻き起こる。防戦一方のヒュウガの体を、かわしきれない鎌が切り刻んでいく。

「らりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃあ――――

 どうした? 逃げてばかりじゃねえか? オレを殺してくれるんじゃなかったのか、ええ?」

 ヒエイの言うとおりだった。ヒュウガは全く手が出せない。これがセカンドの力。圧倒的だった。まるでヒエイ自身が、鎌をまとった竜巻そのものだった。竜巻はいまだ散在する死畜たちをも巻き込み、その身体を切り裂いていった。

 ヒュウガは考える余裕さえなく、左右、あるいは後方に瞬足を活かして迫り来る竜巻を回避するしかなかった。だが、ついにそれさえも封じられようとしていた。再び集い始めた死畜の群れが、ヒュウガの周りを取り囲み、逃げ場を奪っていたのである。死畜の群れを背に、追いつめられたヒュウガ。迫り来る凶刃。

 それは賭けだった。

 ヒュウガはヒエイの大鎌に刈られる直前、身を低くしてヒエイの開かれた大股めがけてスライディングした。ヒエイの大鎌がびゅんと空を裂き、鼻先をかすめる。

 抜けた――――

 ヒュウガはヒエイの尻の下に出ると、すぐさま身を翻し、その反転の勢いとともにヒエイの右アキレス腱を右手の手刀で、左アキレス腱を左手の手刀で断ち切った。

「ぐああああああっ」

 叫びながら勢い余って死畜の群れの中へ前のめりでダイブしていくヒエイ。

 すぐには止まらない大鎌の猛威によって、群れの前方にいた数体の死畜がずたずたに引き裂かれて飛び散った。だが、これがヒエイの最後の死畜駆除作業となった。死畜の群れは、倒れ込んだヒエイの体を取り囲み、躊躇なく喰らいついていった。

「うぎゃあああああああああああ。やめ、やめろ、やめてくれええええええええ」

 その声の主はもはや死畜の群れの渦中にあり、姿は見えない。

「たす、たすけて、たすけてくれええええええ。ヒュウガ、たすけてええええええ」

 ヒュウガはヒエイの体を喰らおうと後方で順番待ちをしている死畜の頭部を数体ほど斬り落とした。ヒエイの姿が視界に入る。頬の肉、首筋、両腕、指、背中、腰、尻、太腿、ふくらはぎ。肉と言う肉すべてに死畜たちは喰らいつき、噛みちぎり、うまそうに咀嚼してはその血肉を嚥下していた。

 喰われゆく主であった男の姿を見下ろすヒュウガ。憐れなどと言う感情は微塵も湧いてはこなかった。むしろ、この男にもっともふさわしい死に方を与えることができたという達成感すら感じていた。

 伝えなければならない。今わの際でいまだに「たすけてたすけて」と羞恥心の欠片もなく叫ぶこの醜い獣に。

「聞けヒエイ。オレはお前が死に追いやった吉田村の娘、美加の依頼でお前を殺した。美加の怒りを買ってしまったこと、悔いながらあの世へ行くがいい」

 その言葉に一瞬、ヒエイはもはや骨があらわとなった二の腕をアスファルトに立て、腕立て伏せのように上体を起こそうとするが、群がる死畜どもの重みですぐにつぶされた。

 直後、死畜の一体がヒエイのわき腹から両手で大腸を引きずり出した。後方で今か今かと餌にありつくのを待つ死畜たちは、堪え切れず、血が滴る真っ赤で長い臓物を薄汚い手で奪い合っては引きちぎり、口の中にほおばった。

 大和王国東部辺境領領主ヒエイは絶命した。

 イセの亡骸にもすでに何体もの死畜が集い、その肉を貪っていた。イセについては同情を禁じ得なかった。思えば転生前の名も知らない。笑顔を見たこともほとんど記憶にない。ただ一つ、バイクが好きだと話していたことのみが頭の片隅にある。

 オレが謀反を起こさなければ、イセは死ぬことも無かっただろう。だが、オレはこうせざるを得なかった。何度数時間前に戻れたとしても、この選択をするだろう。であればイセの死を悔やんでも仕方がない。コンゴウの配下、ヤマシロの姿はヒエイとヒュウガが戦闘を開始した時、とうに消えていた。

 ヒュウガは一つ深い息を吐き、遠く離れた鋼鉄門の方を見た。すでに屍畜の姿はまばらとなっており、長かった夜が終わろうとしていた。

 鋼鉄門の前では、山岡騎士長を始め、数名の騎士たちがわずかに徘徊する死畜の処理をしていた。

 あれほど集い群がっていた死畜たちは、いつの間にやらいずこへと霧散していた。

「ヒュウガ様、ご無事で……」

 ヒュウガに気付いた山岡が歩み寄る。返り血が白髪を赤黒く染めていた。

「ああ……。山岡、みんなを、集めてくれないか……」

 神妙な顔で言うヒュウガに対して、山岡はなにかを察したように「はい」と返答し、周辺にいる者たちを呼び集め始めた。そしてヒュウガはその場に集まった二十名ほどの騎士たちを前に、さきほど起きた出来事をつまびらかにした。

 話し終えると、しばらく沈黙が続いた。誰一人として主殺しを非難しないことを、ヒュウガは意外に思った。ややあって沈黙を破ったのは山岡だった。

「ヒュウガ様。いずれにせよこのテリトリーには新たな領主が必要です。どうかヒュウガ様がその任をお務めくださいますよう、我ら一同、お願い申し上げる」

 深々と頭を垂れる山岡。それに続いて他の騎士たちもこうべを垂れていった。さすがにこの展開は全くの想定外であったため、ヒュウガはたじろいだ。そして、「少し考えさせてくれ」と上ずりそうな声で言うと、門をくぐって吉田村へと向かった。

 墓地に着いたヒュウガは驚愕した。

 なんと、ついさきほど立てた美加の墓標の周囲に、何十本もの色鮮やかな赤い花が咲き乱れていたのだった。それらはどこかから摘まれてこの場所に供えられたものではなく、確かに地面から茎を出し色鮮やかな花を咲かせているのであった。

 奇跡としか言いようのない光景だった。

 こんなことができるのは…………。

 考えてみても思いつかなかった。だが、唯一可能性があるとすれば、いまだ素性も分からない謎だらけのあの男。ヒュウガの目に熱いものが押し寄せてきた。

「美加……。遅かったけど、オレ……お前の願い、果たしたから」

 凛として鮮やかな赤い花々は、自らを騙すことなく、短い生涯を熱く生きた少女の姿そのものを思わせた。

「どうかあいつと、幸せにな……」

 泣き顔に無理して笑みを作ると、ヒュウガは振り返り、その場を後にした。

 花の名はアマリリス。花言葉は「誇り」だった。


 ヒュウガは兵舎の四階、サクラに貸し与えた部屋の扉を三回ノックしてから開いた。

 だが部屋はもぬけの殻で、さきほどまで誰かがいたであろう空気さえ残っていないほど、貸し与える前と何も変わりが無かった。そのまま部屋の窓から眼下を見下ろす。

 ――――いた!

 月の光を淡く反射する白のローブがヒュウガの目にとまった。白ローブはサクラと二人、いままさに鋼鉄門の手前に差しかかろうとしていた。ヒュウガはその窓から飛び降りた。

「サクラー」

 ヒュウガが走りながらサクラ達を呼びとめる。立ち止まって振り返るサクラ。白ローブの少女も立ち止まるが、ヒュウガの方を振り向きはしない。

「頼みがある。オレも一緒に連れて行ってくれ」

 無言のまま冷めた目でヒュウガを見つめるサクラ。ややあってヒュウガは腹の中を訝られていると勝手に想像し、もつれる舌でしゃべりだした。

「いい、いやいや、違うって。お前の花嫁をどうのこうのなんてもうこれっぽっちも思っちゃいねえ」

 刹那、サクラの目の冷度がさらに下がった。

「だからあ、ほんとに違うんだって。オレはただその、もうここにはいられねえし、その、見てみたいんだ。黒腐の森の向こうを。お前黒腐の森を越えて来たって言ったよな。お前たちの用事が全部終わった後でいいからさ。たのむ。一緒に連れて行ってくれ」

 手を合わせて祈るように懇願するヒュウガ。サクラは少女の方を向き、三秒後、ヒュウガに向き直って言った。

「あれこれ質問しないのなら、いいよ……」

「マジか? やった。約束する。ありがとう、ありがとうな。よし、じゃあちょっと着替えてくるから、ゆっくり先に行っててくれ。ゆっくりだぞ」

 遊ぶ約束を取り付けた子供のような笑顔を顔いっぱいにひろげ、ヒュウガは宿舎へと駆けだした。

 鋼鉄門前広場。山岡騎士長の前にヒュウガは立っていた。

 黒とグレーの迷彩地に虎の顔がプリントされたTシャツに色落ちの激しいブルージーンズという出で立ち。

「山岡。みんなの気持ちはありがたいけど、オレがここにいたらお前たちまで謀反に加わったと疑われちまうかもしれねえ。そしたらたぶんコンゴウあたりがオレら全員を粛清しに来るだろう。だから国王陛下には使いを出してこう言ってくれ。謀反人ヒュウガはマスター殺害後、いずこかへと消えたと。頼めるか?」

 山岡はしばし視線を落として逡巡したのち、ヒュウガの目をまっすぐ見つめて言った。

「分かりました。ヒュウガ様、どうぞご無事で。我らはいつでもお帰りを待っておりますゆえ」

「……達者でな。いままで、ありがとう」

 わずかな笑みを浮かべ、ヒュウガは山岡と握手を交わすと、サクラのもとへと駆けだした。

 鮮やかな月明かりがその背中を照らしていた。


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ダークコスモス ブルワイト @aoryu

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