三


 火葬を待つ間、私たちは小さな和室に通された。軽く昼食も出た。

 早瀬さんは、ほとんど箸もつけず、窓の外を眺めていた。

 冬の海が広がっていた。空はむなしいような青色だが、海は暗い。市川さんと早瀬さんの思い出の、ここから遠く離れた海も、こんな風だったのだろうか。私はそれを、聞きたい気がしながら、聞かなかった。

 冷たい風景を眺める、早瀬さんのぼんやりした瞳は、薄らと濡れている。無限のように流れた涙は、出棺のあたりから落ち着いてはいるが、ただ落ち着いているにすぎないのだろう。消えたわけではない。

「健一先生は」

 彼女が、こちらを振り向かずに言った。

 挨拶をのぞけば、初めての、私への言葉だ。それが市川さんのことなのは、攻撃のようだが、彼女の様子を見ていると、ただあの人のことしか胸にないだけなのだろうと思う。

「海の傍で生まれたんですよね」

 私は、聞いたことがない。

 しかし、あの人は海に生命を捨てたのだった。

「そうなの?」

「はい。家族がいないから、誰にも確かめようがないけど、そんな気がするって」

 そう言って早瀬さんは、軽やかな笑みを浮かべた。さっきまでの涙を引きずっていないように見える。少女らしい移り気だ。

「だから、海に行くといっつも、全然帰りたがらなかったんですよ」

 彼女は無邪気に私に笑いかけて、すぐに、はっとしたように固く俯き、頬を染めた。

 しかし、謝りはしない。

 彼女なりの決意なのだろう。

 愛を知らない私に、共感は出来ないけれど、美しいことだけは確かだ。

「他には、どんなところに行ったの?」

 私は、努めて穏やかに聞いた。

 早瀬さんの驚きの表情が、こちらを向く。しかし、すぐに、嫌味でないのを感じてくれたようで、

「色んなところに連れて行ってくれました」

 と、懐かしげに頬を綻ばせた。

「由希の大事なところも、いっぱい一緒に行きました」

 私は、早瀬さんの一人称が由希であるのに、心がとまった。

 学校では、私と言っていたような気がする。市川さんへの打ち解けが、悲しみの無防備さで、私に対しても移ってしまっているのだろうか。

「隣町の双子山って知ってますか?」

「ええ、あなたが一年生の時に、遠足で行ったところよね」

「そうです。由希の昔のパパが、よく連れてってくれたんです。朝日が綺麗なんです。でも先生はあそこにはたまにしか連れてってくれませんでした」

「どうして?」

「高いところが怖いって」

 火花の散るようなみずみずしい笑い声が、早瀬さんの小さな唇から零れる。

 私も笑いながら、しかし、と思う。本当に、市川さんはそんな恐怖で、双子山へ行きたがらなかったのだろうか。

 早瀬さんは、昔のパパ、と言った。

 高いところが怖いというのが、全くの嘘であったかは分からないけれど、あの人が本当に怖れたのは、彼女の失った父親の、代わりになることではなかっただろうか。

 父親としての市川さんは想像ができない。私は、あの人と冷たさだけでは重なっているから、その恐怖は鮮やかに分かる。

「市川さん、高いところが駄目だったなんて、意外と子どもっぽいところもあったのね」

「いっつも、おっきな子どもみたいでした」

 早瀬さんの目が、愛おしげに細くなる。

「最期の時も、海に飛び込むって決めたのは先生なのに、崖が高いのが怖いのと、海の中で寒いのは嫌だって、愚図ったんです。だから強く抱きしめて欲しいって」

 早瀬さんが、目の前に愛しい人を見るように、美しく微笑む。

 私はすぐ、市川さんの嘘に気付いた。まるで、天啓のようだった。

 あの人は、温まりたくて、抱擁を願ったのではない。息絶えるその瞬間まで、早瀬さんを、感じていたかったのだ。

 やはり、市川さんは愛を知らなかった。愛を知らないで、早瀬さんの美しさを麻酔にして、死へ流れていった。

 私は、私の冷たさで、全てを確信できる。

 他のことは何も知らなくても、あの人の冷たさだけは、私は底まで知り尽しているのだ。

 しかし、私の冷たさが、美を冷酷に見つめる眼差しを見抜くなら、市川さんの求めた抱擁を幼い甘えだと早瀬さんが信じるのは、やはり愛の力だろうか。

「それで、あなたはどうしたの?」

 私は、恋心で清らかな早瀬さんの表情を眺めて恍惚としながら、聞いた。

「最期だと思って、力いっぱい抱き着きました。身体が一つになりそうなくらい。じゃあ、震えてたんです。だから、子守歌もうたってあげました」

 その子守歌は、市川さんに、どれほど甘く響いただろう。

 水鏡に映る花や月のように、死を前にして澄み切った市川さんの心に映る早瀬さんは、どれほど美しかっただろう。

 早瀬さんは、再び涙を流しながら、それに自ら気づいていないように、純真に明るかった。

「そうしたら、先生も静かになって、由希となら死ねる、って、目を見つめて言ってくれたんです」

 私は、もはやほとんど、市川さんの冷たさより早瀬さんの美しさしか見えなかった。

 あの人の病んだ掌の上に、このような花が咲いた。

 一つの奇跡だ。


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