二
二
通夜は、私一人のまま終わった。死者との一夜は、気の遠くなるような永さだった。
葬儀会社の会館の中で、最も小さい葬儀場も、一人きりでは広すぎる。
棺桶をのぞいてみる。遺影の、私との結婚式での顔よりも、生きているみたいだ。
部屋の入口の傍の椅子に腰かける。真白の芳名帳が、それとなく目に入る。
他人と交わろうとしない人ではあったけれど、生徒の少女との心中という死に方のせいもあるだろう。
これでも、市川さんの死顔は幸せそうなのだ。愛情とはそれほどにもかけがえのないものなのだろうか。
芳名帳の白をぼうっと眺めながら、私はふと思い出して、礼服の内ポケットへ手を入れる。
五通の白い封筒を出してきて、膝の上に置く。
昨夜、葬儀会社の人に、棺桶に入れるものがあれば持ってくるように言われて、この五通の封筒だけを持ってきた。
市川さんが、何かを大事にしているなんて、想像のつかない私だから、通夜から一度家に帰って、あの人の書斎に初めて入った。そこで見つけた。
机の引き出しに、十数通の白い封筒が、綺麗に重ねられていた。
中身は遺書だった。
どれにも日付があって、最も古いものは、市川さんが十五の頃のものだった。一番新しいものは、死ぬ前の日のものだった。
遺書だけれど、遺書でないような、不思議な文章が並んでいた。誰に向けて書いているという風もなく、ただ、生に耐えがたい理由だけが、独り言のようにつらつらと綴られていた。
私は、市川さんが死に絶えず憧れていたことを知り、驚くよりも、腑に落ちた。そうでなくては説明のつかない冷たさだった。
しかし、自分で死ぬことは、魂の底から生きようとすることだと、私は知っている。死に憧れるような人に、自分を殺すことはできない。
市川さんはどうして死へ流れていけたのだろう。
最期の遺書は、他の遺書とは違って、たった一つの文章だった。
「由希のおかげでようやく僕は死ねる。」
それだけだった。筆跡も薄かった。死に溶け込む者の平和なのだろうか。私の名前は、十数通の中に、一つもなかった。というより、早瀬由希さんの他には誰も、影すらなかった。
この日記のような遺書以外に、市川さんの大切なものなどこの世にない気がして、書斎から持ってきた。
全てを持ってくるのは、嵩張るので止した。このものぐさは冷淡だろうか。
しかし、風習でしかないのだから、形式にさえ従順なら、それで許されるだろう。
真実に大切なものを入れてあげなければいけないのなら、生贄のように、早瀬さんを葬ってあげなければいけない。市川さんが、彼女のおかげで死ねると言った早瀬さんは、しかし生き残ったのだから。
「失礼します」
不意に、声がした。
目を上げると、制服姿で、コートを片手に掛けた、一人の少女がいた。
一瞬の間があって、早瀬さんだと分かった。
何かの運命のように、ちょうど思い出した時にあらわれたせいで、幻を見ているかのようだ。
夢のような感覚は、彼女の、昔とはまるで違う、美しさのせいもあるだろう。
水の滴が人のかたちをしているように、清らかだ。
生命を一度投げ出した少女が、生き返った今、こうも生き生きと美しいとはどういうわけだろう。
神聖な驚きに打たれて、何も言えないでいると、早瀬さんは再び、
「失礼します」
と言った。ぴいんと張った、冬の青空に響くような、綺麗な声だ。
「ああ、こんにちは」
私は座ったまま答える。
なんとも間の抜けた挨拶だ。
きっと、こういう折に然るべき、ご愁傷様という言葉を、彼女が言わないせいだ。謝罪も、あって然るべきなのだろうか。
「健一先生に、会いに来ました」
「そう」
私は、ぼうっとしたまま、ペンを渡した。
「ここに名前を書いてちょうだい」
「はい」
早瀬さんが、まっすぐこちらを見つめて、頷く。
「久しぶりね」
私は、ペンを持ち腰を曲げる早瀬さんを見ながら、何となくそう声をかけた。
早瀬さんは、切ないほど真剣な面持ちで、何も答えない。
そして、真っ白な紙の上に、市川由希と、濃い筆跡で、書いていく。
挑発かと驚いて顔を見たが、そんな風ではない。私のことなど気にもとめていないように張りつめている。
その表情を見るともなく見ながら、ふと思い出す。
そういえば、私は市川さんを、市川さんとしか呼べなかった。自分が市川という名前になってからも。
膝の上に置いたままの遺書を、私は内ポケットにしまって、早瀬さんを伴い棺桶の前に立っていった。
市川さんの顔を見て、早瀬さんの鋭さも、ようやくやわらいだ。微かにふっくらした、少女らしい頬に、微笑みが滲んだ。
「先生。会いに来たよ」
彼女はそう語りかけて、市川さんの青白い頬に、掌を添えた。
しばらく、物言わずそうしていて、それから急に、口を開いた。
「どうして由希だけ死んでないの」
しぼりだしたような、か細く、それでいて、張り詰めた声色だった。駄々っ子のような切実な甘えが匂っていた。
涙がぱらぱらと、市川さんの肌に降った。彼女の掌が、何度も、弱々しく市川さんの頬を打った。
市川さんの前で、私が、こんなにも美しかったことは、きっと一瞬たりとも、なかっただろう。
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