冬の海
しゃくさんしん
一
一
市川さんの頬に触れてみる。
静かな冷たさだ。
生きている時には、触れられなかったのに、目を開けなくなってから、ようやく触れられる。
悲しむべきことだろうか。
こういう肌触りに、妻は夫のいなくなった孤独を想うものなのかもしれないけれど、私は夫の市川さんがいても、いなくても、孤独だ。市川さんもそうだろう。
その市川さんが、少女と心中するとは、どういうことだろう。
自らの教え子を抱きながら、冬の荒れた海に身を捨てるなんて、死ぬ時に初めて生きるのだと絶叫しているようだ。
市川さんに、それほど激しい炎を、私は感じたことがない。
私が愛さなかったからだろうか。
私と市川さんは、心中はおろか、お互いの寝息を耳にしたこともない。そういう生活しか、私達夫婦にはなかった。
取り留めなく考えているうちに、線香が消えそうになっている。新しいものに火を移す。
たしか、通夜の線香は、消えてはいけない。どこかでそう聞いた気がする。
これまでにも身内を葬ってきたのに、こんなことも知らないのが、少しだけ可笑しい。父の葬儀も、母の葬儀も、幼い頃の記憶で、何も覚えていない。
しかし今夜、市川さんの傍にいるのは、私だけだ。
市川さんにも肉親はないのだから、ここには、誰も来ない。
ならば線香も消してしまっていい。誰に気兼ねすることもない。
ただ、私が生まれるよりずっと前から続いているように思われる風習を破るのが、何となく気がかりなだけだ。
市川さんが私と結婚してくれたのも、そういう気まぐれだったのだろうか。
私はどうだっただろう。
少なくとも、抱きしめられるのを、待っていたような気がする。
しかし真実そうなれば、私はどうしていただろう。
人形のように抱かれるままでしかなかったのではないだろうか。
愛することも、愛されることも、私にはいまだ遠い。海の向こうに、霞みがかっている街のように、ほとんど幻だ。
しかし、きっと、市川さんは、愛されることだけは知って死んだだろう。少女だけが、奇跡のように生命をふきかえしたことも、市川さんは知らずにいる。
死顔は、今までに見たことのない、安らかな表情だ。生きることをやめないと、幸せになれなかった人なのだろうか。
どうも、私は市川さんのことを何も知らないらしい。そういえば、主婦として毎日料理をしてきたのに、あの人の好きなものを、私は何も知らない。嫌いなものもそうだ。あの人は、何を食べても、言葉をもらさなかった。私も、何も聞かなかった。
初めて会ってから二年、夫婦になって一年、私は何に触れようとしてきたのだろう。
市川さんは心中をした。これは現実だ。
市川さんは私を、愛せなかったのではなく、愛さなかった。
市川さんは、少女を愛した。
あの人の教え子で、かつて私の教え子でもあった、まだ十四の平凡な少女を愛した。
私には、彼女の顔も、上手く思い出せない。手のかからない、けれど聡いというわけでもない、ただそこに佇んでいるだけの、内気で静かな少女だった。
美化委員かなにかで、教室の花瓶に毎朝、どこかから摘んできた花を活けていた。朝、教室で偶然に会う折に、その花を褒めた時だけ、彼女の表情は可憐だった。慎ましく、しかし温かく笑った。恥じらいしか表情を持っていないような子だった。その表情も、意外な可愛らしさで胸を染めたのは覚えているけれど、どんな風だったかは、曖昧だ。
半年ほど前から、帰宅する市川さんに染み付くようになった、彼女の甘い匂いも、私はよく覚えていない。
私には嫉妬というものが欠けてしまっているようだ。
私たち二人の虚しい三年を、悲しんだり、ましてや憎む心も、私にはない。
一粒の涙も浮かばない。
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