男の答え

その後暫く沈黙が続いた。

すると、男が先程とは違った、明るい笑顔でこちらを向く。


「じゃあ、君。僕に問いて。」


私は少し呆れてしまった。


「貴方もなかなかの暇人なのね。」

「今が暇なだけだよ。昔は休息を取る時間もなかった」

「……そうですか。では」


すう、と息を取り込み、男に問う


「貴方はこの本を、いや、ご自身をどのように思っているの。」



……ふよふよと浮かび、私の傍にずっといたその男の顔は、予想外の質問に少し驚きを漏らしていた。暫く俯き、うーん……と悩んでいた。

これは相当面倒な質問をしてしまったかと、私も焦った。すると、男は真剣な瞳でこちらを見つめ、静かに口を開いた。



「僕はね。

この本は免罪符でも、告白でも、勿論武勇伝でもないと思う。この本は、どの本とも同じで、一つの創作に過ぎない。その舞台が当時の日本…東京や巴里などの欧州で、しかも殆どノンフィクションだっただけ。男の見えていた世界を、真実をそのまま原稿用紙に描いたものがこの本だ。もう百年も昔に描かれた、男にとって淀んでいて輝きすぎた世界。空想が難しくなるほど老いた者の、一つの空想。これが質問の答えだよ。」


男は一息つき、今度は微笑んで、答えた。


「君は大人になるにつれて、この本に出てくる大人たちや、この本を批判した人たちのようになるだろう。そして僕達のことも見えなくなり、いずれこう言う。『ああ、彼等も結局は空想だった』と。

それでもいい。でもね、『空想は百年を超えても、形にすれば、ちゃんと人々に受け継がれる』ってことだけは、覚えてて。ほら、僕みたいな汚い現実が描かれたものだって、こうして今、数少ない君のような人に読んでもらってるんだから。

人は空想無しでは生きられないのかもしれない。だから、美しい。」


そういうと男は黙った。

私は、静かに告白をした。


「その答えが聞けてよかった。やはり私は、貴方を嫌いになんてなれない。だからこの人の本を愛読する。だからこの人の言葉を読む。そして、貴方に会う。私にしか見えない、私の愛する貴方へ。

では、私はきりが良いのでここで失礼します。」


私は本に栞をつけて、閉じた。

男の姿は消え、そこにあったのは蔵書の棚だけだった。

薄暗い部屋を抜け、明るい外に出る。蒸し暑い空気が体を纏う。

私は、あと何年この本を愛していられるだろうか。

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