其の七

 空気を吸いこもうとすると、胸部がずきんと悲鳴を上げた。

 私は「うっ」と不細工な声を発してしまい、胸部を押さえてしまった。

真音まのんさん?」

 着物のこすれる音が聞こえた。彼女が立ち上がろうとしているのは明らかだった。

 私は彼女に訊かれる前に「もう大丈夫です」と答えた。

 彼女は座り直し、姿勢を正す。

「真音さん、お時間の猶予はどれくらいありますか?」

「時間、ですか」

 私は指摘されて初めて気づいた。

 サービスエリアで暴走トラックにはねられてから、どれくらいの時間が経っているのだろう。

 スマートフォンは時間が表示できないし、腕時計も持ってきていなかった。

「今が、トラックにはねられた日だとしたら、明日の昼頃まで余裕があります」

「日はまたいでいませぬ。そのお体で出かけるのはおつらいかとお見受け致します。一晩泊まってゆきませんか? ……無理にとは申しませぬが」

「……そうですね」

 私は迷った。できることなら今日のうちにもとの世界に帰りたい。

 しかし、交通事故に遭っても無傷だったとはいえ、痛みを抱えた体に鞭を打って車を運転できる自信もない。

 ……そもそも、“呉葉くれは”のちからを制御しきれていない彼女は、私をもとの場所に戻せるのだろうか。

「あ、そうでした。あのサービスエリアくらいでしたら、100%お戻しすることができます」

 彼女は、にこにこ笑って言ってくれる。

 私の目にうつる彼女は、優しく真面目なひとだ。

 でも、「力のコントロールができない」と本人から聞いてしまった以上、不安になってしまう。

 ……できるんだよね? 私は帰れるんだよね? 信じていいんだよね?

 私は座布団の上で正座になって、ゆかに手をついて頭を下げた。

「呉葉さん、今夜泊まらせて下さい」

 彼女も「ありがとうございます」と頭を下げた。

 ふたりして、ぺこぺこお辞儀をして、顔を上げて照れ笑い。

 ふと思った。

 もしも違う場所で出会っていたら、私達は友だちになっていたのかもしれない。



 お手洗いを借りて縁側に戻ると(……お手洗いに行って帰ってくるまでに家の中を迷ったり、“お屋敷”なんだと感動を覚えたことは割愛する)、彼女はお上品にロールケーキをフォークで割り、おしとやかに咀嚼していた。目を細めてうっとりしている。

 本当にロールケーキが好きなんだな。

「……はっ! 真音さん、お帰りなさい!」

「ただいまです」

 私は座布団に座った。正座は大変だから、最初から足を崩す。態度は悪いが、今くらいは大目に見てもらいたい。

「真音さん、食べたいものはありますか?」

「食べたいもの……ですか」

 訊かれてすぐに思い浮かべたのは、私の年代にはそんなに好まれない料理。

 でも、私にとっては大好物にして母方の祖母――志真子しまこおばあちゃんの、思い出の味。

「きんぴらごぼう、食べたいです」

 途端、彼女の表情が凍った。

 私は慌てて「何でもないです」と前言撤回した。

「魚と鶏肉以外の肉が食べられないけれど、他は平気です」

「では、けんちん汁は食べられますか?」

「食べられます。好物です」

「かしこまりました……頑張ります!」

 彼女はフォークを握った手でこぶしをつくる。

 陶器のように白い頬は、引きつっていた。

 私は訊いてみる。

「呉葉さん、ごぼう嫌いですか?」

「いえいえ、好きですよ、食べるの」

 ということは、調理は苦手なのか。

「私で良ければ、つくりましょうか? きんぴらも、けんちん汁も」

「真音さん、つくれるのですか?」

「はい。一応、管理栄養士の勉強をしていますし、小さい頃から志真子おばあちゃん……祖母の手伝いをしながら料理をしていましたから。

「でしたら、でしたら、真音さん」

 彼女の敬語はほとんど崩れない。しかし、頬に赤みがさして凍りついた表情はゆるみ、黒目がちな瞳はきらきら輝いている。

「おばあさまのレシピ、教えて頂けませんか?」

「もちろん、いいですよ」

 祖母のレシピは隠すようなものではない。がっつり洋食派の母が覚えようとしなかったから、私が覚えただけだ。

 私は少し午睡ひるねをさせてもらい、夜にごぼうの下準備でもさせてもらうつもりでいた。

 心の中では。

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