其の四

 ここで初めて目が覚めてから時間が経たないのに、何度まぶたを閉じたり開けたりしただろうか。

 光を感じて目を開けると、濃い緑で埋め尽くされた向こうの山と青空がまぶしかった。

 あの異様な闇の中から出てくることができたのだと、実感がわいてくる。

 きょろきょろ見回せば、おもむきのある日本家屋があり、私を闇の中のから助けてくれた彼女――呉葉くれはもいる。

 彼女は「休みましょう」と縁側えんがわに座布団を敷いてくれた。

 私は遠慮しようと思ったが、体が限界だったので座布団に座らせてもらった。

 彼女は家の中に入ってしまう。

 静かになった。

 私は両腕を伸ばしてストレッチをしてみる。すぐに肩や胸部が痛くなった。

 多分これ、むちうちだ。

 中学生の頃、母の運転する車が玉突き事故に巻き込まれた。

 重傷者はいなかったが、一緒に車に乗っていた私は、しばらくの間は肩や胸が痛かった。成長途中の胸にも痛みが生じ、心まで痛かったのをよく覚えている。

 今回もそんな感じなのだ。

 冷静になった今、あのときのできごとが脳裏によみがえっていた。



真音まのんさん、お待たせしました」

 彼女の声で、思考あたまが現実に戻ってきていた。今の状況を“現実”と言って良いものか、わからないけれど。

 ふわっと鼻をくすぐるのは、淹れたてのコーヒーの香りだ。

 彼女は黒塗りの盆を床に置いた。

 陶芸のマグカップがふたつ。それぞれにコーヒーが注がれている。ドリップ独特の香りを吸い込むと、嬉しくなった。

 小皿には、ロールケーキが一切れずつ。先程のコンビニのロールケーキを開封したようだった。

「ごめんなさい。バッグの中にコーヒーショップのタンブラーがあったものですから、コーヒーがお好きなのだとばかり」

「いえいえ、コーヒー大好きです!」

 私は、湯気の立つコーヒーを頂いた。

 体の芯まで温まる気がする。まるで、古民家カフェにいるみたいだ。

 私は気が緩んで、こんなことを口に出してしまった。

「私、死んでもおかしくない状況だったんです」



 我が家は毎年、お盆の時期に長野県の母方の祖母の家に行っていた。それは祖母が介護施設に入所してからも続いていた。

 ところが今年は、父方の祖父の新盆あらぼんがあり、両親はそれに手一杯だった。姉は総合病院の入院棟の看護師をしているので、お盆休みがない。

 大学生で夏休み中の私が、ひとりで祖母を訪ねることになったのだ。

 高速道路を利用し、長野県に入ったところでサービスエリアで休憩した。

 車に戻ろうとしたときだった。

 トラックがスピードを上げてこちらにせまってきたのは。

 クラクションは鳴らなかった。

 私の体はトラックの車体にぶつかり、わずかに宙に浮いた。

 アスファルトに叩きつけられるかもしれない……そう思ったとき、私は大量の木の葉に包まれ、意識を失った。



「今思えば、体が痛いのは、むちうちなんです。でも、気が動転していて、死んだのかと思ってしまいました。……私、生きているんですよね」

「生きていますよ。真音さんも、わたくしも」

 風が吹いた。緑の葉が一枚、盆の中に落ちる。紅葉こうようする前の、もみじの葉だった。

「真音さん、大変申し訳ありません。真音さんをこのようなことに巻き込んでしまったのは、このわたくしなのです」

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