其の二

 呉葉くれはと名乗る彼女は、黒塗りの盆に飲み物と食べ物を乗せて布団の近くまで持ってきてくれた。

「畑におりますので、何かありましたら声をかけて下さいませ」

 彼女はそう言って、深緑しんりょくに入っていった。

 私は起きているのが少々つらくなり、再び布団にもぐった。

 ここはどこなのだろうか。

 彼女は一体何者なのか。

 私は寝転がったままバッグを引き寄せ、スマートフォンを手にした。

 スマートフォンは電源が入っていた。ただし、圏外。

 日時は表示されず、数字が入るであろう場所は半角のハイフンになっていた。

 こんな感じで。



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 着信はなし。充電は20%を切っていた。バッテリー残量を守るために電源を落とす。

 ブラックアウトしたスマートフォンの画面に、私の顔がうつる。

 どこにでもいる平凡な顔で、黒目黒髪。

 真音まのんという名前を読んでもらえず、初対面の人には必ず読み方を訊かれる。

 名前の由来は、母いわく「響きが可愛いのと、おばあちゃんの名前“志真子しまこ”から1文字もらいたかったから」。父いわく「縦書きにすると左右対称になる漢字にしたかった。芯が一本通った子に育ってほしいから」。

 自分の名前の由来を知ったときは、両親なりに考えてくれたことに感謝した。しかし悲しいことに、志真子おばあちゃんは、「まのん」の発音ができず、「まん」と発音してしまう。

 大学の「フランス文学論」の先生からは「マノン・レスコーみたい」と言われた。マノン・レスコーは文学作品のタイトルであり、男性を骨抜きにする娼婦の名でもある。言っておくが、私はけっこう奥手で、彼氏いない歴イコール年齢なのだ。

 スマートフォンをバッグにしまい、盆に目をやる。

 少々驚いた。というか、戸惑った。

 飲み物は、300mlのペットボトルの紅茶。食べ物は、コンビニのロールケーキ。

 ここの雰囲気に合わないものが、おかしこまりしている。



 私は仰向けになって目を閉じた。

 ここはとても静かなところだ。

 木々が風に揺れる音が心地よく、うとうとしてしまいそうだ。

 そういえば、葉がこすれ合う音を、最近耳にした気がする。

 かさかさ、という小さな音でなく、落ち葉が舞い上がるような、ざーっという音を。



 ぶつかるような衝撃で、目を開けた。

 しかし、私は布団の中にいる。何か落ちてきたり、物を投げられたわけではない。

 夢を見ていたようだ。



 夢の内容を思い出そうとすると、ふと何かが脳裏に浮かんだ。

 トラックの爆音。

 眼前に迫るアスファルト。

 舞い上がる大量の木の葉。



 胸をしめつけるような痛みがよみがえる。

 断片的な記憶をつないで仮説を思いついたとき、私はいてもたってもいられなかった。

 布団からとび出し、素足のまま外に出て、足場の悪い地面をはしる。

 急斜面を転がるように進んでいると、足がもつれて本当に転がってしまった。

 尋常でない痛みが全身を駆け巡る。

 走っている間は夢中だったから、自分のことも周りのことも気付かなかった。

 体にまとわりつく空気が、ひんやりどころか冷蔵庫のような冷気に変わっている。

 周囲は墨を溶かしたような漆黒で、どこに何があるかも確かめられない。

 誰かの声がする。「ああ」と言っているように聞こえるし、泣いているようにも聞こえる。

 嫌な予感がした。

 逃げよう、と思っても体が動かない。目は声の方に釘付けで、そらすことができない。

 声はまっすぐこちらに近づいてくる。

 すすり泣くような声は、徐々に慟哭へと変わっていた。



 は、闇の中からゆっくりと姿を現す。

 地面すれすれを浮いているは、結婚式の白無垢のような着物を着ていた。

 女性に類するのだろうけど、判別できる要素はない。

 には、首が無いのだから。

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