第9話 白い翼
円香の決意の滲んだ意志が伝わったのか、澪は満足げに微笑んで立ち上がる。妙に裾の長い軍服をはためかせ、彼はくるりと円香たちへ背を向けた。
「それだけ聞ければ問題ないな。ボクは上に報告に行く。後は任せたぞ、千秋」
「ああ、分かった」
頷く千秋を尻目に、澪は本当にそのまま背後に位置する巨大な扉へと消えてしまう。まるで嵐のような勢いに呑まれそうになる円香だったが、こちらへと振り向く千秋に再び背筋を伸ばした。
「それじゃ、これからお前が接触する影人たちについて詳しく説明するところだが……まあ、桜坂円香も疲れただろう。奥に仮眠室があるからそこで休んでいけばいい」
労うような千秋の言葉に一瞬頷きそうになる自分を叱咤し、円香はかぶりを振ってこれまで胸に抱えてきた心配事を口にした。
「いえ、今日は一度家に帰ってもいいでしょうか。弟に何も言わずに出てきてしまって、きっと心配していると思うので」
「なるほど、弟か。分かった。佐倉、お前が送ってやれ」
「了解しました」
「じゃ、後のことは明日話すか。頼んだぞ、佐倉」
「はい」
てきぱきとした二人の話し合いを見ながら、円香は今の時刻をスマートフォンで確認しようと制服のポケットの中をまさぐる。しかし、いくら探しても目的の物は見つからない。
はっと思い返す。そういえば、円香のスマートフォンはあのファミレスで食事をする時に鞄に入れたままであったのを思い出す。そこでようやく自分の手に鞄がないことに気が付いた。
そうだ、佐倉と出会ったあまりの衝撃で自宅前に鞄を落としたままだったのだ。こんな簡単なことに気が付かなかった己の未熟さにがっかりする。大きく落胆の溜息を吐いていると、佐倉は僅かに不思議そうな顔でこちらを見た。
「どうしましたか? これから地上へ上がりますが、何か問題でも?」
「……いえ、何でもないです」
そう返すと、佐倉は何事も無かったように背後の扉へ足を向け、円香は肩を落としながらもその後を追った。扉を通過すれば、行きと同じく無機質で冷たい廊下が広がっており、円香と佐倉二人分の足音だけが反響している。
「……」
「……」
何も語らない佐倉の白衣の背を見つめていれば、再びあのエレベーターまで辿り着く。それに乗り込むと、今度は足元から急上昇する感覚に襲われる。だが、一度体験すれば身体が慣れたのか、行きとは違い足場をしっかりと保って上半身が揺らがないように立つことが出来た。
エレベーター内はまた無機質な上昇音だけがごうごうと轟き、地上への到着を待つだけ。静かだが、どこか気まずい空気がやや居心地が悪い。ふと、何か思い出したのか、佐倉はほんの少しこちらに視線を送ってきた。
「言い忘れていましたが、地上の校庭や校舎はあの有様でしょう。本来なら明日から始業式の筈だったのですが、修繕の為、明後日からに変更になりましたことをお伝えしておきます」
「……一日であの校舎を直すことが可能なんですか?」
「当然です。天秤兆坐高校は我々のお膝元です。その為、〈シュテルン〉の技術を集結させれば、たった一日で校舎を修繕するなど容易なことです」
「なるほど」
エレベーターの照明の影響か、きらりと佐倉の眼鏡が反射する。どこか弾んでいる佐倉の声は、〈シュテルン〉の技術に対する自信の表れなのだろうか。
そうしているうちにポンと軽快な機械音が室内に響き、エレベーターが停止する。ゆっくりと扉が開かれると、そこはもう冷たい機械じみた廊下ではなく、慣れ親しんだ普通の校舎だった。ようやく慣れた日常に戻ってきた気がして、円香はほっと溜息をつく。そしてすぐに先行する佐倉を追い、円香は昇降口で来賓用スリッパから革靴に履き替えて校舎へと出る。外はすっかり夕闇に包まれ、あれから随分と時間が経過したのだと思い知らされた。
「……あ」
校舎から校門まで進むには、否が応にも校庭の横を通り過ぎなければならない。闇色に染まる風景と同時に蘇ってくる凄惨な光景。
気が付けば、自然と円香の足は止まっていた。校庭の地面を抉る大小のクレーター、焦げ跡の残る切り刻まれた校舎、そして未だ僅かに煙の昇る焼け焦げた体育館倉庫。そしてひと際巨大なクレーターの中央で雷に包まれていた、苦悶の表情を浮かべる拓馬の姿。胸が、いやに苦しかった。
次いで思い出すのは、砂嵐の中語りかけてきた少年との異常なゲームの始まり。あの少年は、果たして一体何者だったというのだろう。
「……あの砂嵐は」
「……え?」
まるで自分の思考と合致するような佐倉の呟きに、円香は気付かず小さく声を上げていた。顔を上げれば、彼も円香同様に足を止めて校庭の惨状を見つめていたのだ。
思わず声を上げた円香に、振り返った佐倉と目が合った。何かを求めるような、望んでいるような視線が絡む。その視線を逸らすことも何だか不自然な気がして、円香は真っ直ぐに佐倉を見据えたまま口を開いた。
「……私も、同じことを考えていました。あの砂嵐でのこと」
「やはり……あの時、何かあったのですね。詳しくお聞かせ願えますか?」
円香は一度頷くと、あの時砂嵐であった顛末を全て出来うる限り語った。少年との出会い――異常とさえ思えるゲームの提案――断ることへ対する恐ろしい脅迫。その全てを語った後、佐倉は深く考え込むように唇に手を当てて黙り込んだ。
「もしかしたら、その少年は……」
「正体に心当たりが?」
佐倉の独り言とも取れる小さな呟きも逃さず、間髪入れずに声を上げる。しかし、円香の期待に反し彼はかぶりを振ってそれを否定した。
「……いいえ。これは、〈シュテルン〉の上層部で審議しなければいけない問題だと思われます。いち解析官である私の一存で決定していい話ではありません。申し訳ありませんが、私からは何もお伝えすることは出来ません」
「……そうですか」
正直、あの少年の正体が分かったのだと期待していた部分が少なからずあったせいか、この返答には落胆してしまう。けれどその反面、あの時円香が出会った少年は〈シュテルン〉上層部で審議しなければいけないほど相当重大な問題だったらしいと分かったのは僥倖と言える。
この話は終わりだと言わんばかりに佐倉が再び校門へ向かって歩き始め、円香もはっと我に返って慌ててその背中を追う。
いつの間にか立ち入り禁止の看板が立てかけられていた校門を僅かに開き、ようやく通学路に出る。校門を出て待ち構えていたのは、やはりあの黒塗りの高級車リムジンだった。ずっとここで待機していたのかは定かではないが、やはり日常に溶け込めていない異様な高級車は、庶民にとって物珍しくつい見つめてしまう。
「円香さん」
「何でしょうか」
振り返った佐倉に凄まじい勢いで視線を逸らす円香。
「私はこのまま本部に戻り、事故処理の業務を行わなければなりません。そのため、申し訳ありませんが私はここまでしか貴女を送ることが出来ません。ですが、この車はきちんと円香さんの自宅まで送り届くように指示してありますので、そこはご安心下さい」
「分かりました。ここまでありがとうございました」
素直にそう礼を述べると、佐倉が慣れた手つきでドアを開いて中へ進むように促してくる。円香は彼に一度会釈すると、するりと体を車内に滑り込ませる。そうして車内に入った円香を確認し、佐倉がドアを閉めようとした瞬間――ふと、動きを止めてじっとこちらを見つめてきた。どうかしたのかと声をかけようと口を開きかけ、止まる。
彼はまるで大事な宝物に触れるかのように、そっと円香の頬に手を伸ばしかけていた。その表情は、初めて会った時と同じ――切なげで、悲しそうで、だけど今この瞬間だけは、ほのかに愛おしさを孕んでいるように映る。
それは確かに、大切な存在を見つめる目だった。――しかし、
「佐倉さん」
「!」
ピタリと佐倉の手が止まった。途端、はっと我に返ったような表情になった佐倉が右手を引っ込める。あとほんの少し手を伸ばせば円香の頬に触れるスレスレの距離だった。
鉄仮面で覆い尽くされていた佐倉の表情が、僅かに苦々しく広がっていく。自覚なくやっていたらしい。わけもなく円香の胸が無性にざわついていた。
……分からないのだ。そんな顔をされる意味が分からない。宝物に触れる手も、泣き出しそうな顔も、愛おしさに溢れたその声も、円香には何一つとして分からない。分からないことがこんなにも苦しいとは知らなかった。
しかし、何も分からない円香にもこれだけは理解出来ることがある。
「……佐倉さん。……貴方は今、
「――!」
佐倉が息を呑んだのが分かった。円香の顔をまじまじと見つめている。
彼の見ている『桜坂円香』は、おそらく今ここにいる桜坂円香ではないのだろう。円香によく似た恋人か、家族の大切な誰か。もちろん円香にはどちらもそんな覚えはない。
どちらにせよ佐倉の中で目の前にいる円香と別の『円香』を混在させてしまっているのは明らかだった。別段不快ではないが、奇妙な違和感が円香の全身を覆っている。もしかすると佐倉と二度目に会った時に態度が異なっていたのは、一度目に会った時との気持ちの切り替えをしたかったのかもしれない。
……一度目に会った時、彼は何と言っていただろう?
「佐倉さん。……『かおり』とは、誰のことですか?」
「……それは、」
真っ直ぐに佐倉を見据えれば、彼はその視線から逃れるようにどこか遠い場所を見つめている。その瞳の奥は一体何を思っているのだろう。彼のことを何も知らない自分には、その真意を汲み取ることはできなかった。
「貴女には……関係の無いことです」
悲しげに染まる佐倉の顔。
その背は月の光に照らされ、まるで天使の翼のように白かった。
「……申し訳ありません。非礼をお詫びします」
「……いえ」
それだけ告げると、目を伏せた佐倉はそのまま車のドアを閉める。車は発進を始め、佐倉の姿はすぐに闇に紛れ見えなくなった。窓の外から差し込む街灯の灯りだけが俯いた円香の頬を照らしている。
悲しいと。苦しいと。彼の瞳は、彼の姿は、そう叫んでいた。その原因は、まるで円香自身にあるかのように感じる。――しかし、分からない。何故あんな愛おしげに見つめられるのか、触れられるのか、分からないのだ!
彼にとって桜坂円香は、ただ影人の異端として見出されただけに過ぎない。そのはずなのに。理解出来ない行動ばかりする佐倉に苛立ち、何も分からない自分自身にも円香は苛立った。
「……何で、何も言ってくれないのよ」
膝の上で握り拳を作る。だが、これ以上答えの出ない問題に思案するのも少しだけ疲れてしまった。円香は全ての現実から逃げ出すように目を閉じる。柔らかな背もたれにもたれかかり、少しばかり夢の世界へ旅立とうと円香は思った。
◆ ◇ ◆
それからどのくらい時間が経過したのか、しばらくの間意識が遠のいていた円香には分からなかった。しかし夢うつつのまま、唐突に車は動きを止めた。しばらく動きがないところからすると、どうやら信号というわけでもなさそうだ。
円香はゆっくり瞼を持ち上げると窓の外へ視線を送った。そこはもう円香の見慣れた閑静な住宅街だった。そしてその真正面にあるのは円香の自宅である武家屋敷だ。どうやら目的地に到着していたらしい。
「……いけない、本当に寝てたなんて」
僅かに焦燥感の混じる胸を抑えた円香は、運転手に一言礼を告げてドアを外へ出た。まだ春先の暖かさの感じない冷えた夜風に、思わずぶるりと震えた。中の運転手からの返答はなかったが、ドアを閉めると車はすぐに発進し闇の中へと消える。その姿を見送ると、円香はすぐさま自宅の引き戸を開けた。
「ただいま」
悠斗に対する僅かな罪悪感からか、円香の口から出た言葉は独り言ともとれるほど小さかった。しかし、それでも玄関の引き戸を閉める音で気が付いたのか、居間からどたどたと慌ただしい足音が近づいてくる。靴を脱いで居間へ向かおうとした途端、悠斗が泣きそうな顔をして円香の胸へと飛び込んできた。
「――姉さん! やっと帰ってきた……っ!」
「ただいま、悠斗。遅くなってごめんなさい」
まるで存在を確かめるように、姉の背に手を回してぎゅっと制服を握り締めてくる悠斗。その手から震えから相当な心配をかけていたのだと理解した。
「い、家に帰ったら、玄関先で姉さんの鞄が落ちてて……家の中も誰もいないし、携帯にかけても繋がらないし……こんな時間になっても帰って来ないから、ぼ、ぼく、姉さんに何かあったんじゃないかって……!」
悠斗の震えた声は、最後まで言葉にならなかった。その後は嗚咽交じりの声だけが続き、制服にしがみつく力だけが増している。酷く重い罪悪感が込み上げ、円香は震える悠斗の背に手を回し優しくさすってやる。
居間の襖の隙間から時計を確認すると、時刻は夜七時の半分を回っていた。一度悠斗と別れたのが、恐らく四時半過ぎ。あれから三時間も経過していたのだと考えると、自宅で三時間姉の帰りを今か今かと心配の種を増やしながら待ち続けていたに違いない。
「……ごめんなさい、悠斗。あの後、人と約束をしていたのを思い出して今までずっとそっちにいたの。駄目な姉さんで、ごめんなさい」
出来るだけ優しく、赤子をあやすような穏やかな声で円香はそう囁いた。しかし、悠斗はそんな姉の言葉にぶんぶんとかぶりを振ってそれを否定する。
「ううん、そんなことないっ、ぼくは……ぼくはただ、姉さんがこうして無事に帰って来てくれればそれでいいんだよ……!」
胸を突く弟の言葉に円香は息を呑む。嗚咽を漏らす悠斗に負けないくらい強く、強くその小さな体を抱きしめた。……こうして、自分の帰りを待ってくれている人がいる。ただそれだけで、例えこの先に苦しい未来が待とうとも円香は生きていけるような、そんな気がした。
「……負けない。私は絶対に、負けないわ」
誰に告げるでもないその小さな呟きは、宙に浮かび泡沫となって消えた。
◆ ◇ ◆
「――どうだったかい? 桜坂円香は」
部屋の主である男は、金髪の少年が入ってくるなり笑顔でそう告げた。少年と全く同じ紫紺の軍服。しかし、男の軍服は所狭しと金の刺繡が施され胸元には煌びやかな鳳凰のエンブレムが飾られていた。男と少年との階級の差はあまりにも圧倒的である。少年は確かに多くの部下を抱える身ではあるが、この男の前ではただの一介の構成員に過ぎない。
仄かな灯りのみが照らす薄暗い部屋の最奥。黒塗りのテーブルで両手を組む男の前まで来ると、少年は右手で敬礼の形を取った。
「――はい。一年の観察を経ての接触でしたが、概ね予想通りかと。後ほど佐倉分析官からの報告書をお持ち致します」
「うん、ありがとう。……それで、彼女はやる気を出してくれたのかな?」
「はい。桜坂円香自らの口から、了承の言葉を頂きました」
「それは良かった」
男はニコニコとした人の良い微笑みを向ける。しかし、少年は出会ったその日から妙にこの男が好かなかった。上司に向かって好く好かないという問題は業務には一切関係無いのだが、そもそも公私混同は良くないことは分かっているのだが、少年にとってこの男は、話せば話すほど胡散臭く感じてしまって仕方がない。本人は不本意だろうが、少年の中にある子供の本能がそう感じさせるのだろう。
しかし、そうも言っていられない。溜息を吐きたくなる己を叱咤し、少年は上司に報告を続ける。
「橙堂拓馬との接触は僥倖でした。お陰で彼の異能を目の当たりにした桜坂円香は動揺したものの、親しい間柄であったのが功を奏したのか、その決意を固めたようです」
「なるほど。意図せず拓馬くんのお手柄だったわけだ。だけど、決定打は君だろう? ……まさかとは思うけど――虐めたりしてないよね?」
にっこりと穏やかに微笑む男の表情からはどす黒い威圧感が隠すことなく少年に襲い掛かり、思わずその圧に呑まれそうになる。頬が引き攣るのを必死で堪え、少年はただ冷静さを保つ。
「……当然です。彼女の判断はとても聡明でしたので、極めて早急に済ませられました」
そう端的に告げると、男はどす黒い笑みから一転、ぱっと晴れやかに笑った。まるで百点満点を取り母親に褒められた子供のような表情に、少年はこっそりと嘆息する。
「そうかそうか! 聡明か! うん、それは大変結構だよ! 下がっていいよ!」
「はい、失礼します」
少年はもう一度敬礼すると、さっと男から背を向けた。一刻も早くこの薄暗い空間から離れたかったのである。否、少年はこの腹の底の見えない男から今すぐにでも距離を取りたかった。しかし、そんな逃げるように退出しようとする少年の背に、彼は優しく声をかける。
「――ああ、月城くん。月城澪くん。ちょっと待ってくれ」
「はい?」
金髪碧眼の少年――澪は何事だろうと振り向くと、男はおちゃらけた明るい笑みを消して、本来の役職に相応しい厳かな空気を放っていた。そのあまりの切り替えの速さに澪は思わず息を呑む。
「桜坂円香は、使えるかい?」
「……」
澪は上司の言葉の意味を数秒反芻し、咀嚼する。
しかし、すぐに手を胸元に当て堂々と宣言した。
「――当然です。お任せ下さい、本部総長」
その言葉に、男は満足そうに頷いた。
DEAD or KISS 塩田アイス @shotaaisu009
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