第8話 桜坂円香は決意する

 思わず円香は自分の弟よりも遥かに幼い少年をまじまじと見つめてしまう。彼の身に纏う紫紺の軍服は明らかに他の構成員よりも上等そうだが、どう見ても十歳程度の子供にしか見えなかった。何かの冗談かと疑ってしまう。


「おいお前。今、ボクのことを小さいと思っただろ」

「え」


 ぎろりと澄んだマリンブルーのような瞳が円香を睨みつける。思ったことが顔に出ていただろうか。


「ふんっ、別に言わずとも分かるぞ。これまでボクと顔を合わせた全員がそう言ってきたからな」

「別に思ってないわよ」

「嘘だな」

「嘘じゃないわよ」

「じゃあ敬語を使え。ボクの方が偉いんだぞ」

「素性も良く分からない人間を敬うほどお人好しではないの、私」

「生意気だなお前」

「私の方が年上でしょう」

「……ぐぬぬ」


 言い負かされた澪が不服そうに頬を膨らませる。その目には若干涙が浮かんでいるような気さえした。やり過ぎたかと思った矢先、澪の背後から長身の軍服を着た女性が現れた。


「そう言ってくれるな、桜坂円香。うちの司令はこう見えて、IQ300を超える天才様でな。アメリカの大学を飛び級に飛び級して、去年十歳で卒業したばかりの坊ちゃんなのさ」

「坊ちゃんは余計だ千秋! ……ふふん、どうだ? 凄いだろう? 生物理学の革命児と言われた男だぞ、ボクは! 卒業前に教授どもはボクを研究員として欲しがったが、あいにくボクはそんな小さな世界に生きる人間ではないと断ってやった!」

「……まあ、本人がこういうヤツだから信じられない気持ちも分かる。これがその証拠だ」


 そう言って千秋とかいう女性が取り出したのは、自分よりも遥かに大きな体を持つ頭の良さそうなアメリカ人と並んで卒業証書を持つ澪の姿が映った写真。

 胸を張ってふんぞり返る写真の中の澪の顔はまだあどけなく、どこからどう見ても子供なのだがここまで証拠を見せられると納得せざるを得ない。


「ふん、これでいかにボクが偉大なものか分かっただろう? さあ敬え! 奉れ! ボクを神だと崇めろ愚民共!」

「きゃー司令かっこいいー」

「流石俺たちの上司だー」

「そこに痺れる憧れるぅー」


 巨大なモニターで鎮座していた構成員たちが澪へ向かって拍手喝采をする。その言葉は明らかに棒読みなのだが、澪は全く気付かず満足そうだ。どうやらこの流れは構成員たちにとって日常風景のようだった。

 調子に乗って高笑いを始めた澪に嘆息を零しながら、千秋が漆黒のブーツを響かせながらこちらに近づいてくる。


「悪いな。澪は機嫌を損ねるとふて腐れてかなり面倒になる。ああして少し調子に乗らせておけば害はない。上司の無礼は私がお詫びしよう」

「いえ、それは大丈夫です。……失礼ですが、貴方は?」

「ああ、自己紹介がまだだったな。間宮千秋まみやちあきだ。一応副司令官という立場ということになっているが、まああの子供の保護者みたいなものだ。宜しく頼む」

「こちらこそ」

 

 淡白な円香の返答に僅かに目を丸くした千秋だったが、すぐに少しの微笑みを浮かべ腕を組んだ。彼女の長いポニーテールが背後でゆらゆらと揺れていた。


「澪は私の甥でな、まだアイツがオムツだった頃から知っている。私たちは〈シュテルン〉本部の更に上にいる上司、『総帥』と言うお方に澪の通っていた大学で目をかけられ、ここにいる」

「……なるほど」


 円香は未だ構成員たちに喝采を受け、愉快そうに声を上げて笑っている澪を盗み見る。そんな姿を見ていると本当にただの子供にしか見えないが、実際は自分よりも遥かに優秀に出来ているらしい。どういう人間の構造なのだろうと若干の興味も沸いてくる。

 じっと眺めていると、おもむろに千秋が澪のプラチナブロンドの頭へと拳骨する。


「痛ッ!?」

「澪、いい加減にしておけ。そんな話をするために彼女を呼んだわけではないだろう」

「うう、痛い……ボクの方が偉いのに……それに千秋、ボクのことは月城司令と呼べと何度言ったら分かるんだ!」

「すまない、つい昔の癖が染みついていてな。なかなか抜けないんだ、これが」

「む? それならまあ、仕方ないか……」

「流されないで下さい、司令。貴方チョロ過ぎですよ」

 

 好き勝手に言葉を並べる三者三様に、円香は呆然とその様子を見つめる。


「誰がチョロ過ぎだ! ――というか佐倉お前、何故あの場面で『彼女』を使わなかった?」

「……え」


 唐突に澪が放った言葉に円香の動きが止まる。思わず佐倉を見やれば、彼の表情はモニターの光に眼鏡が反射されその全貌は伺えない。


「……」

「お前は桜坂円香に、異能の除去について意図的に伝えなかったのか? 違うのか?」

「……それは、」


 ふいに訪れた剣呑な雰囲気に、円香は呼吸をすることも忘れる。脳裏によぎるのは倒れ伏した拓馬の苦悶の表情。気が付けば自身の手のひらに握り拳を作っていた。

 ――あの時、円香が異能を消滅させる方法を知らなかったのは、佐倉の意図的な作為があったからなのだろうか?

疑心の気持ちがこみ上げかけた時、澪が追い立てるように告げる。


「答えろ、佐倉分析官。これは命令だ」

「……その意図はありました」

「そうか。それで?」


 澪は怒るでもなく笑うでもなく冷静に佐倉を見据える。その表情は先刻の子供らしさも欠片も無い本物の司令官そのものだった。


「……ですが彼女の周囲に妙な気配を感じ、ここで異能を開示させるのは危険と判断しました。結果、円香さんを危険な目に合わせてしまったことは事実です。処分は何なりと受け入れる所存です」

「それがあの砂嵐、というわけか」

「はい」

「そうか」


 まるで佐倉の内側を確かめるような不思議な眼差しで見つめる澪。僅かな空白の後、ふいに円香の方へと視線を移す。


「おい、桜坂円香。お前は自分の異能の正体を知っているか?」

「え? ……ええ、佐倉さんにその説明は受けたわ」

「その解放条件は?」

「……知らないわ」

「ふむ……佐倉は嘘を言っているわけではない、か。いいだろう、お前の処分は不問とする、佐倉」

「……ありがとうございます」

「――それで、だ。お前が知らないのなら、このボクが教えてやろう」


 改めて円香に向き直った澪が、どこか不敵な笑みを浮かべていることに円香は気が付く。

 その時、ふと円香の脳裏にエレベーター内での佐倉の言葉が思い起こされる。


『――ですが、彼の辛辣な言葉は、全て影人たちを思う為のものです。円香さんには辛い選択や無理難題を課すかと思われますが……その一端でも理解して頂けると幸いです』


 澪は桜色の小さな唇に人差し指を当てると、ふっと悪魔めいた微笑を浮かべた。



「いいか? お前の異能発動条件は――『キス』だ」



「……は?」


 思考が停止する。信じられないものを見る目で澪を見つめ返した。


「だからキスだよ、キス。マウストゥマウスというやつだ。あー、日本では接吻って言うんだっけ? ……ボク、日本語間違えてないよな、千秋?」

「ああ、どれも合っているぞ」

「……いや、意味を聞いているんじゃないのよ」


 ……だからといって、これはあまりにも無理難題過ぎはしないだろうか。酷い頭痛が円香を襲う。くらりと眩暈すら感じる。

 ここまで来たらもう驚く問題があっても慣れるだろうと思っていたが、まだ甘かった。これはかなり円香の常識の範疇を飛び越えている。

 円香の目の前で偉そうにふんぞり返っている澪のどこか悪役めいた笑みに、どうにも頭痛を堪えるのがやっとだった。


「……ふざけているわけでは、ないのよね」

「ボクは冗談を言ったつもりはないぞ」


 馬鹿にするでもなく、冗談を言っているわけでもない純粋そのものの瞳に円香は思わずたじろぎそうになる。


「……本当に、私のキスだけで影人の異能が消滅すると?」

「ああ。お前の唇に異能の発生が確認されているのは、既に〈シュテルン〉の構成員の得た物的証拠で実験の末、確証を得ている」

「物的証拠?」


 聞き返すと、一人の構成員が密封された袋を取り出しこちらに見せてくる。中には蛍光色のピンクのスプーンが入っていた。


「……これ、私が先週食べたアイスと同じものだわ」

「そうだ。これはお前がゴミ箱に捨てたものだからな。お前の使用したジュースの殻や使い捨てのスプーンなど、口を付けた物は大抵こちらで保管している。それらは全て解析班によって実験、解析、提唱に至り、最終的にお前の異能の確証を得ることに成功した。その一端を担った佐倉が良く知っているはずだぞ」

「佐倉さんが?」


 咄嗟に佐倉へと視線を移す。これまで閉口していた佐倉だったが、周囲の視線に一度眼鏡のフレームを押し上げると静かに語り出した。


「ええ。月城司令の言う通り、円香さんの唇には影人と同様の高エネルギー反応がピンポイントに発生していることが確認されました。間違いなく、円香さんは影人の異能を消失させる力を持っています。それは我々解析班が実証済みです」


 佐倉の冷静な声色に考え込むようにして俯く円香。

 円香を騙す壮大なドッキリという訳ではなさそうだ。しかし、正直信じがたい事実だというのが円香の本音だった。

 そっと己の唇に触れてみる。なんてことはない、普通の人間の唇だ。それが、影人の異能を消滅させることが出来る力を持っているだという。ますますフィクションめいて来ているような感覚を覚える。

 しかし、円香にはそれ以前に大きな不安要素を抱えていた。

 キス以前に、円香はこれまで十六年間生きてきた中で全くもって異性の経験がなかった。それは当然、周囲とのコミュニケーションを疎かにしてしまった結果ではあるのだが。

 友達すら多く作れなかったというのに色恋沙汰など到底不可能だ。剣道ばかりに明け暮れていた円香にとって、異性に対してさほど感心を持っていないことも原因だろう。気が付けば初恋すらも未経験という始末に負えない状態になっている。

 

「ん? 何を難しい顔をしているんだ? 友達がいないことを悩んでいるのか? それとも、異性に関心を持っていなかったことか?」

「……」

「澪、デリカシーというものを知れ」

「でりかしー? 何だそれは。新たな分子の名前か?」

「はあ……」


 嘆息する千秋の気持ちも分かる。まさに円香もそんな感情が込み上げてきているからだ。どうやら、〈シュテルン〉では円香の友人関係から対人コミュニケーションの欠落に関してまで調べられているらしい。プライバシーもあったものではないなと円香は思った。

 あまりの脱力感に息を吐いていると、澪は腕を組みながら円香の元へ堂々とした歩みで近寄ってくる。


「まあ安心しろ、桜坂円香。ボクも鬼じゃないからな。そんなダメダメなお前にいきなり知りもしない相手とキスしろー、とは言わないさ」

「〈シュテルン〉からの指示とはいえ、初対面の人間にいきなりキスされでもしたら、影人側の人権を無視することになるからな」


 隣に立つ千秋も上司の言葉にただ冷静に続ける。澪はそのまま円香の傍を通り過ぎ、その足で階段を上って司令席へと向かった。


「……なら、何か方法があると?」

「当然だ! これはボクの案でな、初対面じゃなければ問題は起こらないだろうということだ」

「具体的には?」


 疑問符を浮かべながら澪の小さな背を見つめる。彼はどかりと司令席に座ると、肘掛けに腕を乗せ偉そうにふんぞり返った。まるで獲物を刈り取るような澪のぎらぎらした青い瞳に見据えられ、円香は妙に嫌な予感を肌で感じていた。


「お前が、この上空――天秤兆坐高校に転校すればいいだけの話さ」


 頬を釣り上げ悪魔の如く笑う澪は、さながら冥府の門へ誘う恐ろしくも愛らしい死神のようだった。


「……転校」


 言葉に出すと、それが急速に現実感を帯びてくる。心が静かに冷たくなっていく感覚を覚える。

 まず円香の脳裏を過ぎったのは、親友の由紀の笑顔だった。そして最早生活の一部と化している剣道のこと。転校先の高校に剣道部があるかは定かではないが、少なくとも円香が影人と接触することによって今よりも剣道から離れしまうのだけは理解する。


「ん? 親の了承を心配しているとしたら、それは杞憂だぞ。転校に関してのお前の親御さんの了承は既に得ている。後は本人次第だと言っていたな」

「……」


 澪の的外れの言葉、そしてその内容に円香は返す声もなく小さく溜息を漏らした。成程、どうやら外堀は既に埋められているということらしい。迷わないと決めた心に、僅かな動揺が走る。


 ――ふいに、あのバス停で別れた由紀の言葉を思い出した。


『じゃあ……あたしは帰るね。円香も頑張ってるんだし、あたしもクラスに馴染めるように頑張るよ! また明日ね、円香!』


 明日も円香の登校を信じて向日葵みたいな笑顔を向けてくれた親友の顔が脳裏に浮かび、気が付けば下唇を噛んでいた。しかし、それと同時に雷撃の嵐が舞う校庭の惨状も円香の網膜にこびり付いて離れない。切り刻まれ、焼け焦げた校舎。見る影もなく全焼し尽くした体育館倉庫。そして、その中心で苦悶の表情を浮かべ己の意思とは関係なく雷を放っていた幼馴染の姿。瞳を閉じ、二つの大切な姿を脳裏に思い浮かべて、円香は――。


「そういえば言っていなかったな。この話はボクからの提案じゃない――命令だ」

「……」


 その言葉に、円香の冷たさを放っていた心がゆっくりと無機質な色に変わっていく。妙な諦めと悲観の混じった息が口から漏れる。

 まだ子供ながら〈シュテルン〉の作戦指揮司令官としての月城澪の本当の姿が、円香の目の前で露わになる。ずしりと重く冷淡な言葉が、確実に彼女の全身を貫いてくるようだった。


「ボクら〈シュテルン〉は全ての影人が安全に過ごし、確かな生活を守るために存在していることは知っているな?」

「ええ、佐倉さんに聞いたわ」

「人間が影人を忌むべき存在と認識されてしまった今の世の中で生きるのは、アイツらにとってさぞ肩身が狭いだろう」

「……」

「Sランクの影人なら、なおさらここは生きづらい世界だろうな。そんな世の中で、お前が影人として異能を消滅する力を持って生まれ落ちた時点でもう運命のレールは敷かれていると思わないか?」

「……運命のレール?」


 円香が聞き返すと、澪はぶらぶらと宙に浮いた足を揺らしながら頷く。


「つまり、だ。いくら悩もうが喚こうがお前の勝手だが、この世界に人間側から見れば忌むべき影人がいる限り――その影人の異能を消滅させる力を持つお前が存在している限り、因果のことわりからは逃れられないということだ」

「……」

 そんな当たり前のことなど、澪に言われずとも理解している。

 当の昔に分かっていることだ。だが、こうして目の前の少年にはっきりと言われることでそれは徐々に現実味を帯び始め、ただの冗談でも比喩でもないことを意識させられる。

 選択肢が無いことくらい、最初から分かっていた。否、全ては円香が佐倉と出会ってから自ら決めて進んできた道である。今更後悔も迷いもあるはずがない。

 しかし、それでも網膜から離れないのは、放課後仲良くしようと親睦会に誘ってくれたクラスメイトたちや、熱心に指導してくれた剣道部顧問。

 そして、最後まで円香を信じてくれた親友の笑顔――。


「――分かったわ。影人たちのためにも、転校しましょう」


 胸を手に当て、そう真っ直ぐに澪を見据えた。まるで刀を携えた武士のような意気込みの円香に、澪は肘掛けに頬杖をついて楽しそうに笑った。


「――ああ。ボクら〈シュテルン〉はお前を歓迎しよう」

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