第6話 嵐の中で

 そうはっきりと口にすると、胸の奥で確かにその言葉が刻み込まれた。

 大丈夫だ。円香はもう、迷わない。

 そんな円香に、あの佐倉が小さく微笑んだような気がした。しかしそれも束の間。佐倉は懐から重量感のある銀塗の拳銃を取り出すと、コートの裏ポケットから弾丸を装填する。その一連の様子に円香は佐倉の手元を見ながら目を見開く。


「……銃を使うんですか?」

「安心して下さい、ただの対影人用の麻酔銃です。撃たれた本人は一時的に異能を弱まらさせ、眠りに落ちるだけです。それより……円香さんが単体で今の拓馬君に近付くのは自殺行為です。いくら消滅させる異能を持った貴女でも、近付く前に雷に打たれ死んでしまうでしょう」

「何か作戦が?」


 そう円香が尋ねると、佐倉は拓馬に向かって拳銃を向け、標準を合わせながらただ冷静に口を開く。


「通常の影人なら弾は一発で問題無いのですが、Sランクにもなると三発ほど影人の体に撃ち込まなければ抑えられません。しかしあの雷では例え打ったとしても、拓馬君へ届く前に焼き消えてしまうでしょう。そのため、まず貴女には拓馬君の意識を一瞬、こちらに向けさせて欲しいのです。円香さんの声なら、きっと彼の耳にも届くと思われます」

「私の声で……?」

「はい。そして円香さんへ一瞬意識が向き、無防備になった瞬間を狙い――この麻酔銃を撃ちます。緊急用なのであまり時間は稼げませんが、その隙に貴女は拓馬君へ駆け寄り、異能を消滅させて下さい」

「分かりました」


 作戦を互いに確認し合ったところで――ふと、自分は何かを忘れているようなそんな気がした。何か――とても重要で、今一番ここで必要なことを。一体それは何だっただろうか? そんな思考の海へ沈みそうになった円香に、佐倉は発破をかけるように告げる。


「――円香さん、お願いします!」

「……っはい」


 慌てて思考を遮断し、円香は大きく息を吸って校舎全体に響き渡らせるほどの大音量で拓馬へ向かって叫んだ。


「拓馬ーーーー!! こっちよーーーー!!」


 剣道で培われた、びりびりと鼓膜を震わす腹の底から吐き出すような円香の声は隣の佐倉でさえ震え上がらせた。そして、円香の発せられた言葉が向けられた拓馬は――。


「……まど、か?」


 ――ほんの一瞬。瞬きするほどわずかな間、拓馬の虚ろな瞳がこちらを向いたような、そんな気がした。拓馬の視線がこちらに向いた瞬間――雷が、僅かに止んだ。


「っ素晴らしい声量です……!」


 その僅かな間を、佐倉は見逃さなかった。そのまま間髪入れずに佐倉が麻酔弾を三発発砲する。凄まじい勢いで弾丸は拓馬の右肩、左足、そしてへその辺りを射抜いていた。要所を射抜かれた拓馬は大きくよろめき、ふらふらと上半身を左右に揺らしながら――その場で仰向けに倒れた。一瞬心臓が凍り付く感覚を覚えたが、佐倉の放った弾が麻酔弾であったことを思い出し、安堵に息を吐く。


「円香さん、今です!」


 そして、佐倉の合図と共に円香はクレーター状態の残る校庭へと足を踏み入れ、拓馬に向かって駆け出した。走る傍らで校舎を横目で見る。壁も窓も酷い損傷が残り、焼け焦げたような跡が何か所もあるのが分かった。先に見える体育館倉庫など見る影もなく全焼し、焦げ臭い匂いが鼻孔を貫く。


「拓馬!」


 拓馬は、クレーターの中心で倒れていた。慌てて駆け寄り、その身を起こしてやる。意識は失っているようだったが息はある。どうやら本当に眠っているようだ。

 制服の学ランは切り裂かれたようにボロボロで、校舎同様にところどころ焼け焦げたような跡がある。しかし、何故か顔や手足、制服から覗く素肌には一切の傷跡は無い。どうやら驚くべきことに異能はその影人本人には傷の損傷を与えないらしかった。

 ……それで、円香はどうすればいいのだろう?


「……ん?」


 そこではた、と気が付いた。どうしてこんな重大なことを失念していたのか。これほどまでに重要なことを、どうして今の今まで忘れていられたのか。円香は全身にバケツいっぱいの冷や水をかけられたような、いやに冷たい感覚が体中を駆け巡る。

 そう、円香はまだ影人の異能を・・・・・・・・消滅させる・・・・・方法を・・・知らない・・・・――!


 慌てて佐倉にアイコンタクトを取ろうと顔を上げた瞬間――凄まじい突風が円香を襲った。


「――うわっ……何!?」


 舞い上がる髪を抑えられずに顔を顰めたが、すぐに拓馬を守るように抱き寄せた。この力は、間違いなく拓馬のものではない。拓馬は未だ円香の胸に抱かれて眠っているのだから当然である。なら、この風は一体誰が――?

 あまりに激しい突風は砂埃を巻き込み、円香の視界を遮る。これではまるで砂嵐である。見えずらくなった視界でも何とか状況を把握しようと片目だけ開けた。その視界の先で捉えたのは、小さな一つの影であった。円香の目の前に砂埃に交じりに何者かが影となって佇んでいる。


「あーあ、何してくれちゃってんのさ。これから面白くなるところだったのに」


 それは、まだ年若い少年の声だった。影の背丈から推測するに、弟の悠斗よりも少しだけ幼いような気がする。少年は、まるで遊んでいた玩具が母親によって取り上げられてしまったかのような口ぶりで話している。子供っぽい口調はともかく、もしかするとこの少年が何らかの拓馬の異能に関与しているのではないのか?

 真相を確かめるべく、意を決して円香はその少年へ向かって口を開いた。


「貴方、誰なの? 拓馬の異能の漏洩について、何か知っているの?」

「へーえ……おねーさん。何だか面白い力持ってるんだね」

「答えになってないわ。ねぇ貴方、影人の異能の漏洩がどうして始まったのか何か知ってるんじゃないの」

「はははは」


 しかし、少年は円香の問いには答えない。ただ愉快そうにけらけらと笑い声だけが砂嵐にこだまする。その人を嘲笑うかのような態度に苛立ちを隠しきれず、唇を噛みしめて目の前の影を睨んだ。


「やだなあ、子供にそんな怖い顔しないでよー。ていうか、そんなツマンナイこと気にしたって仕方ないでしょ♪ それよりさ、ボクともっと楽しいことをしようよ!」

「楽しいこと?」

「そうそう! ゲームだよ、楽しいゲーム! ルールは簡単だよ! あのね、ボクがどんどん拓馬コイツをあらゆる手を使ってさっきみたいに壊していくから、おねーさんはそれを守っていくの! 最後までおねーさんが拓馬コイツを守り切れたら、おねーさんの勝ち! 守り切れずに力が暴走しちゃったら、ボクの勝ち! どう? シンプルで分かりやすくて、とっても楽しそうでしょ?」

「な――」


 呼吸を忘れる。円香は目の前で可笑しそうに笑う少年を驚愕の眼差しで見た。この少年の目的は一体なんだというのか。こんなふざけたことをゲームと称し、楽しそうだと本当に思っている。信じられない。理解できない。こんなゲームに乗る義理も必要もない。円香は努めて冷静さを装いながら口を開きかけ――。


「おねーさんに拒否権は無いよ? だっておねーさんが断ったら、この学校にいる残りの六人の影人の異能も、今みたいに暴走させちゃうから」

「っ――!」


 先回りの答えに、円香の声はただ小さな絶句しか出てこない。喉までせり上がってきていた怒りの言葉を、無理やり手のひらで押し込まれたようなそんな不快な気分だった。これは――脅しなのだろうか。そんなことをしたら、校舎にいる一般生徒、更に円香たちの住む神ヵ賀市全土がSランクの影人たちの異能によって間違いなく死傷者が出てしまう。 

 あまりの事態に言葉を失う円香が滑稽なのか、少年はけらけらと不快な笑い声で続ける。


「あはは。でも、それじゃゲーム性に欠けるでしょ? 流石に七対一だとおねーさんに勝ち目ないし、何よりボクがツマンナイからね。だからぁ、一人ずつじっくり確実に壊してあげるって言ってるの。うーん、ボクって超やさしー♪」

「……貴方は一体何? 何が目的?」


 必死で感情を抑え込み、そう尋ねるのがやっとだった。少年はそんな円香をじっと値踏みするような視線で見つめ、やがてさっきとは別人のような大人びた口ぶりで告げた。


「……まあ、しいて言うならボクら・・・の成すべき目的のため、かな。それ以上は教えてあげない」

「成すべき目的のため……?」


 拓馬たちSランクの影人の力を暴走させることが目的ということだろうか。しかし、彼らの異能を暴走させてこの少年に何のメリットがあるというのか。

 少年の『目的』という言葉も、円香を惑わすために言っているだけの嘘かもしれない。決して信じてはいけない。だけど、この言葉だけはすうっと円香の心に入り込んで気を緩めると信じてしまいそうになる。

 少年は静かな口調とはまた打って変わって陽気な雰囲気に戻り、ぐるぐると円香の周りを回り出した。


「んん、でも何の報酬もなかったらゲームの向上心も失せちゃうよね……よし、分かった!」


 気が付くと、少年の影は円香の真横にいた。そして可愛く耳打ちするようにしゃがみこんだ。


「まずは初回サービスってことで、おねーさんが拓馬コイツを守り抜いてボクに勝ったら、おねーさんの知りたいボクのことを一つ、教えてあげる! 出血大サービスなんだから、ありがたく思ってよ?」


 ふふーんと子供らしく胸を張る少年の影。しかしながら、円香は最後までどうしてもこのふざけたゲームに参加する気にはなれなかった。壊すだの、守るだの、そんなに馬鹿げたやり取りなど到底理解出来なかったのである。

 だからといって、円香がこのまま少年の提案を無視すれば残り六人の影人の異能が全て発動してしまうのは間違いない。

 今ここにいない佐倉には相談できない。ならば、円香はどうするべきなのだろうか。

 未だ返答を渋る円香に、痺れを切らした少年が酷く退屈そうに告げた。


「――だからぁ、おねーさんには悩む権利なんてないんだよ。今すぐ拓馬ソイツの精神をブチ壊して、異能だけを発動させる機械にすることだってボクには出来るんだよ?」

「!」

「ならボクとのゲーム、やるよね♪」

「っ……」


 姿の見えない少年だが、彼が今再び楽しげに悪魔の笑みを浮かべているのだけは分かった。円香に残された選択肢など最初から存在していない。断れば間違いなく拓馬、ひいては影人たちが危ない。

 なら、円香が答えるべき選択肢はやはり一つしかないのだろう。


「……分かったわ。貴方とのゲーム……やってあげるわ」

「やったぁ! ありがとう、おねーさん! だーいすき!」


 少年の影は子供らしく無邪気にぴょんぴょんと円香の周囲を飛び跳ねていく。その刹那――凄まじい勢いの弾丸が少年の影を貫いた。……間違いない、佐倉だ。

 しかし、少年は何ともないのか、それとも影だから関係がないのか、どちらにせよ何事も無かったように自由に動き回っている。


「おっと、邪魔が入ったか。まあゲームも決まったことだし、ボクは帰るね! ばいばーい、おねーさん♪」


 そう可愛らしく告げると、少年の影はふっと消失した。同時に砂嵐は一層激しさを増し、とうとう円香は目が開けられなくなる。けれど胸に抱いていた拓馬だけはをしっかりと守るように抱え込む。

 そうして砂嵐が去り再び目を開けた時、円香は再び校庭のど真ん中に座り込んでいた。


「大丈夫ですか、何が起こったんですか?」


 佐倉が拳銃を懐に仕舞いながら駆け寄ってくる。見知った顔が現れた途端、どっと疲労感が襲ってきた。どうやらあの少年と対峙していた時、自分でも気が付かないくらい相当な精神力を使っていたらしい。情けなくも大きく安堵の溜息を漏らした円香に、佐倉はそっと優しい手つきで背に触れてきた。


「……とりあえず、我々の本部へ向かいましょう。拓馬君のこともありますし、貴女も落ち着きたいでしょう。彼は私が運びますので、円香さんはゆっくり後から付いて来てください」

「……はい」


 そうして拓馬を背に担いだ佐倉は、ぼんやりしたまま動けない円香を一度ちらと見た後、校舎の奥へと歩き始める。一人残された円香は、先ほどの少年とのやり取りを思い返し、ただじっと虚空を見つめていた。


『おねーさんに拒否権は無いよ? だっておねーさんが断ったら、この学校にいる残りの六人の影人の異能も、今みたいに暴走させちゃうから』


 そう告げた少年の声は、ぞっとするほど冷たい悪魔みたい雰囲気を放っていた。


『……まあ、しいて言うなら、ボクら・・・の成すべき目的のため、かな。それ以上は教えてあげない』


 そう告げた少年の声は、どこか切なげで何かを渇望しているような、そんな危うい雰囲気を纏っていた。


『やったぁ! ありがとう、おねーさん! だーいすき!』


 そう告げた少年の声は、本当にただの可愛らしい子供のような無邪気な雰囲気だった。どれが本当の少年で、どれが本物の少年の顔だったのか。今の円香には何もかも分からなくて、何もかも足りなかった。

 空を仰ぐ。これから一体、自分はどうなるのか。この先、何が待ち受けているのか。もう何もかも分からなくなって、ぐちゃぐちゃと全てを投げ出したくなる。

 ……駄目だ。ここまで弱気になるのはあまりにも円香らしくない。あんなふざけたゲームなど、円香が全て勝てばいいだけの話ではないか。

 自分を叱咤するように、円香はばちんと己の両頬を叩いた。

 そうだ、円香はあの拓馬の苦しくて堪えるようなつらい姿を見て、決めたのだ。前を向くのだと、影人を助けるのだと。だからこそ、あんな少年の戯言に負けるわけにはいかない。円香はスカートに付着した砂埃を払いながら、立ち上がる。


 「――私は負けないわ。影人全員を救ってやるんだから」


 誰に告げるでもなく、円香は空へ向かって呟いた。そして己の信じる道のままに、円香は佐倉の後を追うため歩き出した。

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