第3話 二度目の邂逅
その後はすぐに店員から順番が呼ばれ、ファミレスでひとしきり姉弟水入らずの食事を楽しんだ。
ふとスマートフォンの時計を見やるともう日が傾きかけている時間だった。暖かくなる春先とはいえ、日が落ちるとやはり冷え込んでくる。
「悠斗、そろそろ帰るわよ」
「はーい」
「お金払ってくるから、悠斗は先に出ていていいわよ」
「ぼ、ぼくも払うよ姉さん!」
「いいから。他のお客さんも待ってるんだから鞄持って」
「あう……でも……」
未だ渋るように唇を尖らせる悠斗の背中を押しながら、円香は伝票を持ってレジへ向かう。目に入れても痛くない可愛い弟に割り勘させるなど姉としてのプライドが許さない。
「日が伸びるのも最近長くなってきたね、姉さん」
店を出て再び悠斗と共にバスに乗り込むと、空はもうすっかり黄昏色に染まっていた。一か月前なら、既に空は夕闇に包まれていたであろう。しかし、未だ太陽が昇っているのはもうまもなく夏が迫っていることを暗に指していた。
「そうね」
「えへへ、夏になったらもっと長くなって遊べるよ」
素っ気ない円香の返答にも、隣に座る悠斗はとても楽しそうに笑う。素直な弟の笑顔を見ているだけで、学校での荒んだ気持ちが凪いでいくようだった。
ふいに悠斗がもじもじと両手の指を絡ませながら告げる。
「……あのね、姉さん」
「ん?」
「今日は、一緒に出掛けてくれてありがとう」
「急にどうしたの」
「えへへ。だってこんな風に姉さんと出かけられるなんて久しぶりで、ぼくすっごく嬉しかったんだ。……母さんたちも、一緒だったら良かったのにね」
「……そうね」
ほんの少し寂しさを孕んだ弟の横顔に、円香の胸はきゅっと苦しくなった。
ほとんどど言っていいほど家に帰らない両親はともかく、円香自身も剣道の大会や合宿で何かと家を空けることが多い。帰宅部である悠斗には家事全般を押し付けて苦労ばかりかけていることに、円香は時折心苦しく思っていた。
「心配いらないよ」と優しく道場へ出かける円香を見送る弟だが、まだ悠斗とて中学生なのだ。家に一人きりなのは寂しい、悲しいと思わないわけがない。
「今度、母さんたちにいつ予定が空くか聞いてみるわ」
「……うん。ありがとう、姉さん」
バスは自宅近くの停留所へと停まった。
料金を支払って地面へと降り立つと、道の先で見覚えのある顔が視界の端に映った。あちらも円香の顔を捉えたのか、驚きに目を見開いた後にぱたぱたと駆け寄ってくる。
「ま、ま、円香ぁ~~~~~!」
凄まじい勢いのまま、がばっと抱きついてきた一人の女の子。フローラルの優しい香りが全身を包み、懐かしい感覚が蘇ってくる。栗色のふわふわウェーブ、ビー玉みたいな澄んだ丸い瞳、凹凸のある柔い身体。さながら人形のような容姿の少女は――円香の、唯一の友人だった。
「どうしたの、
ふわふわ揺れる髪が顔にかかって正直くすぐったいのたが、彼女はなかなか離れようとはしなかった。仕方がないので、ぽんぽんとその小さな背中を撫でてやる。
由紀とは円香の小学校時代からの友人だ。剣道ばかりで友人関係に不得手だった円香の手を引いてくれた、唯一無二の親友だった。
高校も同じ場所を選択し、一年は無事一緒のクラスだったのだが残念なことに今年は今回のクラス分けで離れ離れになってしまった。
「だってだって、うちのクラス解散するの遅かったし、慌てて円香の教室行ってももう誰もいなかったし、大丈夫かなって思って……あたしは一回家に帰ったんだけど、やっぱり気になったから、これから円香の家に行こうとしてたの」
「……由紀」
泣きたくなるくらい優しい友人に、ふわりと心が暖かくなる。しかし、この優しい友人に余計な心配はかけたくない。円香は幼子をあやすような手つきでゆっくりと由紀の背を撫でてやる。
しかし、円香には由紀を安心させるだけの言葉を持ち合わせていなかった。まさか始業式からいきなりクラスメイトから疎まれているとは、流石の円香も言い出せない。
どうしようかと考えあぐねていると、ふいに悠斗が由紀の前に立った。由紀と悠斗は以前から円香の自宅で顔を合わせているので、そこまで知らぬ仲ではない。一体何を言うつもりなのだろう。
「あのね、由紀さん。今日、姉さんはクラスの人たちとご飯を食べに行ってたんだよ。姉さんとは、すぐそこで会ったの」
「え、悠斗……」
「……本当? 本当に、大丈夫だったの?」
上目遣いに伺う由紀に円香の視線が揺らぐ。思わず悠斗を見やれば、ニコリと微笑みを浮かべながらこちらに向かって頷いている。そこでようやく円香は弟の意図に気が付いた。
「……そうなの、由紀。今日はクラスの人たちに誘われて、一緒にお昼を食べたのよ」
「そっかぁ……円香、頑張ったんだね」
円香から身を離すと、由紀はにへっと安心したように明るく笑いかけた。小さな嘘にちくりと胸が痛んだが、これからあのクラスメイトたちと人間関係を築いていけばいいのだからきっと大丈夫だろう。優しい親友にばかり頼っていては、きっと円香はダメになる。
「じゃあ……あたしは帰るね。円香も頑張ってるんだし、あたしもクラスに馴染めるように頑張るよ! また明日ね、円香!」
ぶんぶんと大仰に手を振って去っていく由紀を、悠斗と共に見送る。
元気の塊のような由紀が去ると、辺りは驚くほど静かになった。あまり喋ることが得意ではない円香に加え、控えめな性格の悠斗だけではこうなることは至極当然だろう。由紀の去っていった道を見つめながら、横に並ぶ悠斗の背にそっと触れる。
「……ありがとう、悠斗」
「ううん、気にしないで……あ、」
柔らかく微笑んでいた悠斗が、ふいに何か思い出したかのように立ち止まる。何か忘れ物でもしたのか、慌てて悠斗は帰り道とは反対方向に振り返った。
「ごめん姉さん! ぼく、学校に忘れ物してきちゃった。先に帰ってて!」
「え、悠斗――」
そう言い終わる前に悠斗は脱兎のごとく駆け出しており、円香の声は既に届かなかった。
一人きりの静かになった空間で、ふと円香は空を見上げる。もう空は青から黄昏色に変わりつつあり、どこからかやってきた宙を舞う桜の花弁が風に乗ってひらひらと運ばれていた。
「……ん?」
やがて家の前まで辿り着くと、見覚えのあるリムジンが停められていた。どきりと心臓が脈打った。またあの男が待っているのだろうか。
どうあがいてもあのリムジンの傍を通らなければ玄関に入ることなど不可能だ。そっと車に近付いていくと、門の前に佇んでいたあの赤ぶち眼鏡の男とばっちり目が合う。
「またお会いしましたね、桜坂円香さん」
「……どうして私の名前を?」
男は佇まいを直すと、静かな足取りでこちらへとやってきた。近くで見ると、かなりの長身で迫力が凄い。しかしながら、学校で出会った時とは少し雰囲気が異なる気配を感じた。妙な威圧感が円香に迫ってくる。
「私の家に何か御用でしょうか」
「これは失礼しました。私の名は
「――え?
佐倉と名乗る男の告げた言葉の衝撃に、円香は思わず肩に下げた鞄を地面に取り落してしまう。彼女の動揺を構うことなく佐倉はただじっとこちらを見据える。
――影人特務機関、〈シュテルン〉。
影人であれば必ずと言っていいほど世話になる、影人のために作られた政府による影人専門機関である。政府から隠ぺいが義務付けられている影人たちであるが、その異能は常人の機関では対応しきれないのが現状だ。そこで政府が設立したのが、影人を研究しその異能を非異能者たちに出来る限り悟られないよう、最小限に抑えることを目的とした機関こそが〈シュテルン〉である。
生まれながらに体内に高エネルギー反応があるとして、円香も小さい頃に一度だけ〈シュテルン〉へ招集がかけられ、精密検査を受けた経験があった。しかし――
「貴女の能力について、お知らせしたいことがございまして」
「……私の能力?」
佐倉は鞄から大きめのタブレットを取り出すと、まるで魔術の詠唱のようななめらかな声ですらすらと語り出した。
「桜坂円香さん。貴女は幼い頃、一度だけ〈シュテルン〉で精密検査を行っていますね。過去の資料を拝見しましたが……おかしなことに、どんな検査を行っても貴女の異能を判別することは不可能だった。こちらがどんな状況を用意したとしても、貴女の身体は普通の一般人と相違無いまま……間違いありませんね?」
「はい、その通りです」
――そう。円香は体内に高エネルギー反応が観測されている影人にも関わらず、肉体自体はごくごく普通の人間とまるで相違がなかったのである。だからこそ〈シュテルン〉は円香をほとんど一般人と変わらない最低ランクの影人として認証し、解放した。以来、四歳の頃に受けた精密検査から一二年、円香は一度たりとも異能が発動したことは無い。これからも発動する気配も無かった。
桜坂円香は、影人というのは名ばかりのどこにでもいる普通の人間だった。
そんな円香に、今更一体何の用があるというのだろう。
脳裏に浮かぶ疑問は次から次へと浮上し、目の前の男に対する不信感は増すばかり。
「それで、今更私の能力が一体何だと?」
そう尋ねると、佐倉は何も言わずに背後の車のドアを颯爽と開けた。
突然の行動に驚きに目を見開いていると、佐倉はこちらに向かって恭しく車内へと促した。
「どうぞ、詳しい話は中で致しましょう」
「……」
そっと佐倉を盗み見る。その表情は、やはり学校で対峙した人とはとても同一人物とは思えないほど冷酷な眼差し。その目は間違いなく円香の全身を容易く射抜くような鋭利さがあった。僅かに胸に膨らむ本能的な恐怖。静かに震える右手をきつく握り締める。
よく知りもしない事情に無暗に首を突っ込むのは得策とは言えない。
断ろうと思えば、まだ断れるような気がする。しかし、これまで知り得なかった円香自身のの影人としての能力を明らかにしたいという欲望もまた、円香の本心であった。十六年生きてきて、円香でさえ知り得ない自分自身のことをよく分からない他人が知っているというのは、正直気味が悪い。不安と期待の感情が入り混じる。
ふいに佐倉は音もなくこちらに近づいてきていた。こちらが驚く暇さえ与えずに彼は円香の耳元に唇を寄せ、そっと囁いた。
「――君には、影人の本当の意味を知る資格があります」
「……本当の、意味?」
至近距離で佐倉の鋭くて冷たい目と見つめ合う。
そんなわけも分からない言葉に、円香が踊らされるとでも思っているのだろうか。
だけど、これ以上考えるのは無駄のようにも思えた。
それは――もう円香の中で答えが決まっているのと同義だ。
冷静に物事を見て分析し、それから判断することは決して悪いことじゃない。目の前の感情に踊らされるのは馬鹿のすることだ。それは理性的な行動とは言えないだろう。だけど、と円香は思う。
これは何の根拠もない、何の理由も存在しないものだが。
『私は――私は、ただの一介の研究員ですよ』
そう切なげに笑った佐倉の一面を、円香は知ってしまった。その微笑みに円香の心が少なからず動かされたのは事実だ。知りたい、知らなければならないとも思ったはずだ。
手の震えは、いつの間にか消えていた。
――信じてみよう、この人を。
「分かりました。貴方の言う通りにしましょう」
円香は真っ直ぐに佐倉を目を見て告げた。
彼は僅かに息を呑んだ後、眼鏡のフレームを押し上げてただ静かに口を開く。
「そうですか。それは賢明な判断です。私としても、無駄な労力は割きたくないので非常に助かります。では、どうぞ中へ」
言われるがままに、開け放たれた車の奥へと自分の体を滑り込ませる。車内に乗り込むと、すぐにふんわりとした柔らかな感覚が尻全体に伝わり、電撃のような衝撃が走る。
「……これは」
「どうかしましたか?」
密かに戦慄していた円香だったが、隣のドアから佐倉が入ってきたことによって緩みかけていた緊張の糸が再びピンと張られる。円香はきゅっと口元を引き締め、すぐさま運転席の方へと視線を向けた。
「いえ、別に何でも」
「そうですか。――では、発進してください」
佐倉は前方の運転席に座る運転手にそう告げると、車はエンジン音を噴かせながら発進を始めた。徐々に景色が変わっていく窓の外を一瞥しながら、円香の心にはこれから起こるであろう先の見えない闇に向き合う覚悟を讃えていた。
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