第2話 影に生きる人

 その時の円香の記憶は、正直あまり鮮明ではない。

 凄く大切な話をしたような気もした。どうでもいい世間話をしたような気もした。

 あの男は、一体――?


「……えさん、姉さん!」

「――え?」


 ばっと顔を上げる。隣を見れば、おろおろとこちらの顔色を窺うように見つめていた、悠斗と目が合った。

 十四歳にしては小柄な体躯。女の子にも見紛うほどの可愛らしい顔立ち。声変わりが来ていないのかと聞き間違ってしまうくらいの甘い声。

 そんな悠斗は気遣うような顔をして、ぎゅっと円香の制服の裾を掴んでいた。どうやら返答の無い円香に何度も声をかけていてくれたようだ。

 心配そうにこちらを見上げる悠斗に、円香は知らず小さく息を吐いた。


「ああ、ごめんなさい悠斗。少しぼんやりしていたみたい」

「……大丈夫? 姉さん、家に帰ってきた時から何だか凄くぼうっとしてたけど……何かあったの?」

「……別に何もないわよ。それよりも、もうすぐ駅前に着くんだから何を食べるか決めておかない?」

「うん……」


 納得のいかない表情をする悠斗に、円香は努めて明るく振舞った。これ以上、姉として弟に無用な心配をかけるわけにはいかないのだから。

 がたがたと揺れる明るい日差しの差すバスの中。悠斗の心配をよそに、円香の脳裏には学校での一件がぼんやりと思いこされるばかりだった。


 一体何が目的だったのか、あの男は円香との邂逅後、そのまま用事があると言ってすぐさまリムジンに乗り込んで去っていったのである。残された円香はただただ感情の整理が収まらず、唖然とそれを見送るしかなかった。

 そのまま学校から帰宅した円香は、ぼんやりと視点の定まらない気持ちを切り替えるべく、弟を連れて駅前へ赴くことにしたのである。


 バスはまもなく駅の真下へと到着する。

 住宅街から人通りの多い駅ビルへと移り変わる景色を窓側でぼうっと見つめていると、ふと橋の向こう側で立派なビルの巨大モニターを円香は視界の端に捉えた。

 思わずじっと目を凝らすと、どうやらニュース番組でとある事件の報道を行っているようだった。


「……『影楼かげろう、再び南米で発生を確認』?」

「どうしたの、姉さん?」

「ほらあそこ」


 円香が指さした方向を示すと、悠斗も少し目を凝らしてそれを注視する。


「……影楼のニュース、だね。昔はそうでもなかったのに、最近ちょっと多い気がする。神ヵ賀かみかが市の近くでも小さいのが確認されてるって朝のニュースでもやってたよ」

「……少し不気味ね」


 モニターの中では地面から飛び出した巨大な闇色のドーム型の物体が中継されており、地元の人間で取り囲まれている様子が映し出されていた。


 ――影楼かげろう

 世界中のありとあらゆる場所で観測されている、高エネルギードーム現象。

 初めて出現したのは二五年前、英国から始まった。有無を言わさず突如その場からまるで自然現象のように出現し、目にも止まらぬ速さで闇のドームが町一つを易々と飲み込んでしまったのである。

 そこに生命の存在を確認できたケースはこれまで一つたりともない。まさに命を刈り取るドームなのだ。

 軍隊が派遣され攻撃を試みたが、なんと驚くことにそのドームは弾丸が当たった途端大爆発を起こし、跡形もなく英国の半分をクレーターと化してしまった。

 お蔭で影楼は消滅したものの、その被害は甚大で死者は一万人を超えたと言われているのだ。現在も復旧活動を行っているが、歴史的に価値のある絵画や彫刻は失われてしまっているという。

 つまりこのイギリスのドーム爆破事件は、あの塊に飲み込まれたが最後戻って来られないというのを裏付ける恐ろしい事件となってしまったのだ。

 その凄惨な事件は円香たちの世代でも継承され、様々な教科書に記載されている。

 英国での発生から半年後、その現象が各国でも見られるようになった。

 ヨーロッパから始まり、南米、アジアへと伝わり、それは日本も例外ではなかった。十五年前から発生が確認され、太平洋には今も闇色のドームが浮かんでいる。

 英国は唯一影楼を消失させた国として研究が他国よりも進められており、現在では国を挙げての再開発が行われている。

 影楼に対抗するシェルターの整備、影楼出現の事前に確認出来る計測器等も英国政府によって開発が行われている。その最先端技術を各国が取り入れることによって、以後影楼による死傷者は出ず、徐々に世界にとって影楼は日常の存在になりつつあった。

 しかし、『影楼』と呼ばれる所以は別にある。奇妙なことに、爆発がされなかった影楼に多く見られるのが、飲み込まれた建物の姿がそのまま陽炎のようにゆらゆらとこちらからでも目視出来るということだ。

 触れられないのに、見えているのに、決して届くことはない。

 それ故に世界では闇のドームは『影楼』と名付けられ、今も世界に存在しているのである。


「あっ、もうすぐ駅だよ! ボタン押さなきゃ」

「もう終点だから必要ないでしょう」


 悠斗が思い出したように周囲を見渡し、慌てて傍の停止ボタンを押そうとするのを制止する。


「あ、そっか……そうだよね……」


 がっくりと酷く落胆した様子で悠斗が項垂れる。

 何をやっているのか、この弟は。可愛いな。



 ◆ ◇ ◆



 結局、安価で手軽さが学生に大人気のファミレスに入ることとなり、円香と悠斗はこの昼時の混雑の中、ぼんやりと席が空くのを待っていた。

 手持ち無沙汰なのか、悠斗がきょろきょろと落ち着きなく店内を見渡す。


「結構混んでるね……」

「そうね。今日から始業式の学校も多いみたいだし、私たちみたいに考えてる人は多いと思うわ」


 ふとスマートフォンの時計を確認すると、待ち時間から十分が経とうとしていた。まだ列は動きそうにない。食事時の前に手洗いを済ませて来ようと円香は壁にもたれ掛かっていた体を起こすと、悠斗が何事かとこちらを見上げてきた。


「姉さんどうしたの?」

「お手洗いに行ってくるわ。順番が呼ばれたら、先に行っていて」

「うん、分かった」


 悠斗に軽く手を上げると、店の出入口すぐ近くに手洗い場を見つけて入る。しかし、二つの個室は既に先客がいたらしく、更に円香の前には二人組の女子高生が佇んでいた。戻るのに少し時間がかかるかもしれないなと円香は思った。 


「ねぇねぇ、あの都市伝説知ってる?」

「都市伝説? 何の?」


 先客を待っている間、聞き耳を立てているわけでもないのに嫌でも女子二人の会話が耳に入ってくる。円香は静かに肩を竦めながらも、仕方なくをスマートフォンを取り出して意識をそちらに向けることにした。


「ほら朝、ニュースでやってたじゃん? 影楼の話。あの影楼の傍にいると、超能力が手に入るって噂だよ!」

「ちょ、超能力!? マジで!?」


 どくり、と彼女たちの会話に円香の心臓が飛び跳ねた。

 スマートフォンを滑らせる指が止まる。

 円香の動揺を他所に、彼女たちの会話は続いていく。


「マジマジ。何かのテレビで言ってたんだけど、あの影楼って凄い高エネルギーを発生させてるから、人体に少なからず影響を与えるんだって」

「えー! じゃあ、あの影楼の傍に近ければ近いほど超能力に目覚める可能性があるってこと? やばい、めっちゃ面白そう!」


 個室の一つから、水の流れる音がする。どうやら一つは空きが出来そうだった。少し歩みを進めた二人であったが、彼女たちの会話はまだ続いている。


「実際に目覚めた人も昔からいるらしいよ? でも昔、超能力使ってヤバいことした人がいるらしいから、全部国家機密にされて誰がなったとかは分からなくなっちゃったみたい。だから都市伝説化してるみたいね」

「えー、残念。でもさー、実例があるなら、うちらも超能力に目覚める可能性あるかもじゃん!? 帰り、ちょっと近くまで行ってみようよ!」

「バカ、国家機密って言ったばっかじゃん。影楼の近くは封鎖されてて、誰も入れないんだよ。しかも、自分がなるわけじゃなくて、生まれてくるうちらの子供限定なんだってさ」

「ちぇー。じゃあ、生まれながらに超能力手に入れた人はラッキーなんだねぇ」

「だねー」


 個室の一つが開くと、彼女たちの中の一人が入ったことによってそれきりその話題は終わった。残された一人はポケットからスマートフォンを取り出し、もうその話題については興味関心も薄れたらしい。しかし、円香にはそんな彼女たちの話題が頭からこびりついて離れず、無意識のうちに唇を噛み締めていた。


――生まれながらに超能力を手に入れた人はラッキー。

 二人に他意はないのだろう。ただの話題の一つである。そもそも、傍にいた円香のことなど与り知らぬことだ。

 しかし、それでも――。


「あ、姉さんおかえりなさい。まだ列、動いてないよ」

「……そう」


 手洗いを済ませ、悠斗の元へ戻れば、列はそのまま何一つとして動いてはいなかった。悠斗の隣へ戻り、再び壁に寄りかかって小さく息を吐く。


 あの彼女たちの話題のような都市伝説が流れているのは、実のところそんな超能力を持つ人間が実際に少なからず存在しているからである。

 影楼が英国で初めて出現してから一年後、突如、世界に異能を持った赤子が生まれたというニュースが報道された。しかし、その実情は政府によって瞬く間に隠ぺいされ、『異能を持った子供が生まれた』という事実だけが世界に残されたのである。

 故に、その赤子の親が特異な存在だったのか、その後その赤子はどうなったのか、分かっているのは英国政府と当人たちだけだ。

 しかし、英国が必死で隠ぺいしたのも束の間、次々と影楼が世界中で出現し同時期に異能を持った赤子も数多く産まれるようになったのである。

 母親の胎内から出てきた瞬間、泣きながら異能を発生させる赤子は皆平凡な両親を持っており、遺伝子的に数を増やすわけではないのが実証された。その異能の力はまちまちで、微弱なものから手に負えないほど強大なものまで様々だ。当時は世界が異能者に溢れ、各々の力を使って復興を手伝ったりと、活気に満ち満ちていたらしい。


 ――ある少年が、強力過ぎる異能で周囲の人間、そして生みの親を殺めた凄惨な事件が起こるまでは。


 起こってしまった事件は変えられない。

 以来、非異能者たちは手のひらを返すように異能者を憎悪するようになった。

 メディアの影響もあり、『異能者たちは畏怖すべき存在であり、いつか非異能者たちを殺し世界を掌握するつもりなのでは』という意識が世の中に溢れだしたのである。

 その為、異能者たちの存在は世界共通として、存在全てを隠すことが政府によって義務付けられたのだ。異能者専門の特務機関も設立され、もしものことがあればその特務機関が対応に当たることになった。

 だが、畏怖する赤子が生まれてくる可能性があったとしても、理性のある生き物でも、本能的に子孫を残してしまう。猫が発情期になるように、犬が異性の犬に興味を抱くように、人類が人類であるが故に、子孫繁栄は本能的に避けられない。

 子どもを身籠る喜びは、恐ろしい異能の子どもバケモノが生まれてくる可能性の恐怖心によって覆われてしまったのだ。


 『自分の子供にも、そんな恐ろしい異能が備わってくるかもしれない』


 ――発生原因不明。 


 ――能力値不明。


 ――影響力不明。


 影楼から影響され、胎内から生まれてくる存在子供たち。

 世間から忌み嫌われる彼らを、メディアは総じて『影人かげびと』と呼んだ。


「……ふう」


 そして桜坂円香。

 彼女も、そんな世界に隠ぺいされた影人と呼ばれる存在の一人だった。

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