第3話 熊、悪魔
僕が千香と帰った日の次の日の放課後、僕が階段を降りてきてすぐに目に飛び込んできたのは、後ろに倒れる千香の身体と、手を振り下ろした格好のあいつの姿だった。千香はその場に倒れてから微動だにしない。あいつがそんな君にまだ殴りかかろうとするものだから、急いであいつの前に立ちふさがった。
「お?熊、何か言うことでもあんのか?さっさと森に帰った方が身のためだぜ?」
何がおかしいのか変な声でケラケラと笑っている。見ているだけで体の中から嫌なものが溢れそうなくらい気持ち悪い。
「なんでこいつを殴ったか?んなこと知ったこっちゃねえよ。うざかったからに決まってんだろ」
汚いものを見るような目で僕を見てくる。一度鏡を見てみることをおすすめしたい。気持ち悪さが次第に強くなってくる。知ったこっちゃないだと?理由なんか、はぐらかしてもすぐにわかる。僕と話していたからだ。
「なんだ、わかってるじゃねえか。わかってるんだったらさっさと森に帰んな、熊」
体中を悪寒が駆けずり回る。
「それともなんだ?お前、何か不満があるのか?あ?」
ニヤニヤと気味悪く笑みを浮かべた顔を近付けてくる。気持ち悪さと吐き気がピークに達したと同時に体の感覚がなくなった。一瞬意識が戻ると目の前に怯えて震えているあいつの顔があった。
――またやってしまった。
目の前のあいつの額に僕の拳が容赦なく降り注ぐ。あいつの顔は殴られるごとに腫れ、赤くなり、歪になり、目は充血し、涙が溢れ、唇が切れ、口は微かに動いて許しを乞うている。だが、もう遅い。僕の拳は留まることを知らず、間髪入れずに鉄拳を打ち続ける。鼻が曲がり、鼻血が吹き出し、気絶して白目になっても尚、僕は腕を振り上げるのをやめられなかった。
僕が半ば諦めたあたりで、急に僕の腕は振り上げた格好のまま止まった。振り返ると、涙で顔をぐしゃぐしゃにした千香が血で赤く染まった僕の腕を必死に抱き留めていた。
「もうやめて。もういいの」
僕は千香を抱き寄せたかったけど、醜態を見られて合わせる顔がなかったから、その手を振り解いてヨタヨタしながら、何かから逃げるように、必死に家まで走った。
僕はあの頃の僕が嫌いだ。人をすぐに傷つけ、人から嫌われる。そんな奴だった。力は人一倍強くて、年上の不良さえもよく泣かせていたものだ。何というか、心の中の何かが暴れろと命令するのだ。そんなんだから、女の子にもよく手を出していた。ある時、ある女の子を殴ると女の子の反応がおもしろくて、毎日、会う度に背中や腕を殴った。筆箱を三階から落としたし、眼鏡だって割った。その頃の僕はそれがいじめだとは気付いておらず、ただ遊び相手と遊んでる感覚で、毎日悪戯し続けた。そして、彼女は電車に轢かれて死んだ。事故ということになってはいるが、事実上僕のせいであることは、教師をはじめ、クラス全員が悟っていた。自分の奮った暴力が、悪戯が人を殺してしまったことに、僕は慄然とした。それからは何に八つ当たりしても、誰かを殴っても、心のもやは晴れなかった。それから僕は誰とも話さないようにしている。仲良くもならないし、ケンカもしない。それが僕の中のベストであり、彼女の死から得られた教訓だった。しかし、その平穏な日々は誰も知りあいがいない高校で、あいつによって崩された。今までそんなことはなかったのに、自分の中の何かがあいつを傷つけようする。僕はその何かは悪魔だと思っている。悪魔の囁き。そんなの責任逃避してるだけだと言われれば認めざるを得ないが、それほどまでにその何かは僕の体を牛耳っていた。熊の中の悪魔か。笑えてくるな。僕は自室のベッドの上で枕に突っ伏してすすり泣いた。
さっきから何度もケータイが震えている。相手は分かりきっている。きっと僕を問い詰めるような内容なんだろうということも容易に想像できた。昨日今日と話しただけなのになんでだろう。胸が張り裂けそうだ。水色の枕がどんどん濃い色へと染まっていく。高校に入ってから、否、生まれて初めてできた友達だと勝手に思いこんでいた。どうせこうなってしまうのなら、そんな風に思わなければ良かった。僕は生まれて初めて学校に行きたくないという想いに駆られた。荒れてるときも、いじめられてるときも浮かばなかった感情だ。ケータイのバイブが別パターンになっている。SNSから電話に変わった証拠だ。まあ、そうなるのも無理はない。今まで大人しいと思っていたやつが、凶暴な熊だったのだから。
僕の家族と言えば母さんしかおらず、その母さんもパートに出掛けてしまって今はいない。学校を休んだとしてもバレはしないだろう。バレたとして、怒られても別にいいと思った。作り置きしてあった朝ご飯を食べる気にはなれず、ずっとベットで横になっていた。そして、惨めな気分になっては突っ伏して泣き、疲れたら更に惨めになった。
……いつの間にか寝ていたらしく、気がつくと3時を回っていた。涙も枯れ、体も重くなってきたから、階段を降りて冷め切った朝ご飯を少しつまんだ。
突然に静寂を割いたのは玄関のベルの音だった。近所との関わりが薄いうちは滅多に人は来ない。宅急便も使う機会がなく、恐らく初めてベルの音を聞いた。でも、出る気力は起きない。人と顔を会わせること事態、今の僕には耐えられなかったからだ。暫くして、またベルが鳴った。宅急便にしては長いこと居座りすぎる。そうじゃないにしても、そこまでしてうちに用がある人が果たしているのだろうか。そこまで考えたときに、ようやく訪問者が誰か察した。逢いたい。でも、逢ったとして、待っているのは絶望だろう。逢わないでいる絶望か、嫌われたことを確認する絶望か、果たしてどちらが重いだろうか。天秤にかけたところで解らない。しかしそこで、一目でいいから、最後に彼女の姿を見るだけ見たいという衝動に駆られ、ドアスコープの元へ音を立てずに歩み寄った。
そして、静かにつばを飲み込んで、そっと外の様子を確認した。――誰もいない。もうとっくに帰ってしまったのだろうか。落胆とともに安堵の気持ちも少なからずあった。……どうせここまで来たんだ。外の空気を少しだけでも吸おう。そう思ってなんとなしにドアを開けてニ、三歩歩み出た。そして息を溢れ出さんばかりに目一杯吸った。――と、息を吸ったのとは別の感覚が背中を走った。何かに柔らかく包み込まれたような……。
「やっと逢えた」
君は耳元で小声で言うと抱きしめる力をより強くした。言いようのない気持ちが心身を侵食し、僕は振り向くことすらできずに、立ち尽くしていた。千香は耳元で囁く。
「なんで?」
――そう聞かれると思ってた。なんであんなことをしたのか、どうしてあいつをボコボコにすることができたのか、いつから豹変したのか……。
「なんで黙ってたの?」
考えられる限りの質問についての答えを考えていた僕に、君は予想だにしない質問を投げかけてきた。少し声に怒りが滲んでいる。僕が質問の意味を理解できずに固まっていると、君は静かに続けた。
「あれが、ほんとのくまくんなんでしょ?」
言わずとも分かった。あれとは、僕の中の悪魔のことだ。
「それをくまくんは隠そうとしてる。ほんとの自分を心の奥底に閉じこめてる」
――違う。あれは僕じゃない。
「ううん、くまくんは認められないだけ。あれはくまくんなの。くまくんの本心。凶暴で、残虐で、醜くて」
違う。違う違う違う。
「暴れたくて暴れたくてしょうがない。人目を憚らずに暴れ回りたいほど荒んだ……」
「黙れ!!!!……違う、違うんだ、僕じゃない。あれは僕の中にいる誰かが.……」
耳元で囁かれる悪夢のような問いかけに、僕はありったけの力で叫んだ。
「違くなんかない。それは紛れもなく、くまくんだよ。そして、今こうやって悩んでるくまくんも、周りに気配りしてくれる優しいくまくんも、みんな、くまくん、君なんだよ」
千香はまるで子供に言い聞かせるような口調で僕を諭した。
――全部、僕……。
「逆に、誰とも話さないで、無口で、ぶっきらぼうなくまくんは、ただのお芝居。そうだよね?」
千香は今まで僕を抱いていた手を離して、僕の前に回り込むと尚も優しく続けた。
なんでその事を……まだ誰にも口外したことないのに……図星だったので千香がエスパーなのではないかと疑ったくらいだ。
「だって、私も同じだから。やっと気付いた」
そう言って笑った千香の瞳は少しだけ潤んでいた。かと思えば、そのまま走ってきて僕を前から強く抱きしめた。
「だからもう、頑張らなくていいんだよ。くまくんも、私も」
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