第2話 蝶からの電信

午前8時を待って、課長に連絡し「体調が悪いので休む」と告げた。後になって、まだ数日休む可能性があるなら、正直に伝えるべきだったと思ったが、何を正直に伝えていいのかわからないのと、第三者に伝えることで具現化してしまう気がしてとりあえずの理由としておいた。

病院にいく為、沙希の着替えを準備したり、自分の着替えをしていた時、俺の携帯が震えた。沙希からの連絡かと思い、あせって表示を見たが、それは会社の同僚、中西だった。

『おはようございます~どうしたの?レンちゃんが休むなんて珍しいじゃん』

「ああ」

『昨日は元気だったじゃん。サボリかい?』

「いや」

『なんか、マジで元気ねぇじゃん。風邪かい?』

「いや」

『まあいいや、明日の飲み会は出るでしょ?』

「いや」

『レンちゃんどうしたの?いやしかいわないじゃん』

「中西・・あのさ・・」

『ん?何』

「いやなんでもない。マジで具合悪いんだ」

『そうか、もし明日出席できないなら、夕方連絡頂戴よ』

「わかった。悪いな」

そう言って、携帯を閉じた。中西に話たい気もしたが、何をどう話して良いのか思いつかなかった。

中西は、1つ下の後輩。彼が同じ課に配属された時の歓迎会で地元が同じなのと、共通の友人が居たこともあって、意気投合し、それから7年ほどの付き合いで、今では何でも話せる間柄だ。彼が、ある飲み会の最中、泥酔して別の女に送るつもりだったメールを間違えて、付き合っている彼女に送ってしまい修羅場になった時も、俺がふざけて打ったと彼女に話し事なきを得たこともあった。その彼女とも結局別れてしまったが、それ以来、彼も俺を親友だと思ってくれている。そんな中西には、今回の件を相談したいとは思うものの、まだ早い気がした。


病室に着くと、沙希はベットの上で上体を起し、カップを持って窓の外を見ていた。陽の光に照らされた沙希は、何故かとても美しく見えた。沙希は俺の3歳年下で、今年30歳になる。年よりも若く見られるタイプで、社内でも人気があった。俺たちが結婚すると周囲に打ち明けると、社内では美女と野獣だとからかわれた。栗毛色の長髪を今年の夏に思い切って短くしたいと沙希は言ったが、俺は、家事の時にする沙希のポニーテールが見れなくなると思い、やめろと言った。結婚して4年、子供には恵まれていないが、とても幸せな日々を送っていた。

俺は沙希におはようと声をかけることも忘れ、窓際の美しい妻と昨夜の愚行の不釣合いな感覚にめまいがしそうだった。そんな俺に沙希が気付き

「おはよう」

と言った。昨日より顔色はいいが、左目には眼帯が付いているのが痛々しい。

「休めたか?」

『蓮次ごめんね。なんか』

「いや、やっぱり直ぐ病院へ連れて行けば良かったと、俺も後悔してたところだよ」

『ううん、そうじゃなくて、何か蓮次が悪者みたいになってるでしょ』

「あっ・・うん。DVじゃないかってね。まったくデタラメだよな」

俺は、持ってきた沙希の着替えをバックから出した。

『それも、私がちゃんと説明しないから、そうなったんだと思ってさ。だからごめん』

「いいよ、そんなの。大体、そんなことがあった直後に、あれされた、これされたなんてスラスラ説明できる人なんているわけないんだよ。

そうだろ?警察にしたって、医者にしたって、デリカシーがないんだよな」

『ほんとそうなの。昨日だって、どこから触られましたか?何本の指を入れられましたか?どの位の深さを入れられましたか?だって。

こっちは有りったけの力で抵抗しているのに、今、どうされてるなんて覚えてられないでしょ』

「だっ、だよな・・」

俺が、頭の中で無意識に避けていた沙希と犯人の具体的な交わり。それを沙希の口から聞くことに強烈なストレスを感じた。

『耳から離れないの』

「何が?」

『アイツの高い笑い声が』

俺が創造で作り上げていく仮想の状況動画。そこに、高笑いしながらニタニタと笑いながら沙希を弄ぶ坊主頭の男の姿が追加された。

聞きたくない・・話を逸らしたいと思った。

「全然知らない奴か?」

『うん。見たこともない。でもね』

続けることをためらう沙希に

「でも?」

と続きを誘ってしまった。

『途中で、電話が掛かってきたの。その人の携帯に』

「電話?それで奴は電話にでたのか?」

『でた』

「でた?」

『うん。でるや否や〈今仕事中だって言って〉でね、その電話の相手に、悟って欲しくて、助けてって大声出したの。そしたら、〈なっ〉って言ったの』

「それ、警察には話したか?」

『ううん、話してない。だってそこまで話がいかなかったから』

俺は持ってきた沙希の携帯を渡した。夜にメールを送ったけど、家にあったからと伝えた。本当だと沙希は受信メールを確認したが、その直後に硬直した。

「どうした?」

沙希が携帯の画面から目を離さず、震えていた。俺は沙希の手から携帯を奪った。しかし沙希は取り返そうと、両手で俺の腕を掴んだが、振り払って画面を見た。

〈〈昨日は、ご馳走様。また楽しもうね。警察に駆け込むなら、それ相当の覚悟をしてね。思い出を送っておくね〉〉

添付ファイルを開くと、女の体内に完全に埋没した汚い男根が写っていた。女の顔はピントが合っていなくてはっきりしていないが、夫の俺ならこれが沙希だと簡単に分かった。沙希は俺の手から携帯を奪い返した。

一体誰なんだ。住所もメールアドレスも知っている。そして、どこかで信じていなかった事が、この画像によって完全に事実になってしまった。脚が震えていた。震えを恐怖ではなく怒りだと悟ったその刹那、病室の椅子を蹴り上げていた。同室の年寄りがカーテン越しにこちらを覗いたが、俺の顔を見ると、カーテンに隠れた。〈〈警察に駆け込むなら、それ相当の覚悟を〉〉の文字が次はそれ以上の暴力を想像させた。

「沙希」

『蓮次、怖い。私、どうすればいいの?』

「いいか沙希。警察には、今回被害届は出さない。犯人は俺が必ず見つける。お前を絶対に守る」

『え!・・・うんでも危ないよ。蓮次になんかあったら私』

「そいつは仕事だと言っていたんだろ。ってことは、そいつの意思じゃない可能性がある。誰かに頼まれたとしたら、頼んだ奴は絶対に身近にいるはずだ。その依頼した奴を探すんだ。それなら、警察よりも、俺たちの方が思い当たりやすいだろ」

『身近にって、余計に怖いよ。そんなの』

「とにかく、今は何事もなかったようにしていよう。俺が、絶対に見つけ出すから」

「蓮次がそういうなら」

医者からは、夫婦で良く話し合いをして下さいとか、来週また病状を見せてほしいとか言われたが、愛想笑いで誤魔化して家に戻った。


沙希は、昼からのパート先に電話をして、階段で転んだ為、暫く休むと連絡していた。俺も課長に電話し、明日も休むと伝えた。中西に飲み会を断ろうと電話したが、仕事中の為か、電話にはでなかった。沙希は、キッチンの椅子に座り、テーブルの上を見つめていた。食事のときにしか座らない場所にいるところを見ると、やはりこのリビングの居心地が悪いのだろうと思った。腹がへらないかと聞くと、

「少し」

と答えた。重い空気の家の中にいるよりは、外食しようと沙希を外に連れ出した。眼帯のことを気にしてそうな沙希を見て、俺は家から離れた個室のあるレストランへ向かった。車中での会話は殆どなく、天候の話をするのが精一杯だった。ハンドルを握る俺は、沙希を襲った犯人に依頼した人物を想像していた。沙希も同じだったのだろう。レストランでの食事の味も、その後どういうルートで帰宅したのかも、あまり覚えていない。なのに、その間にこれといった人物を誰一人列挙できなかった。風呂上りに、沙希に誰か思い当たる節はあるか?と聞いてみたが、首を振るだけだった。

夜9時ころ、中西から電話があった。

『明日も休みだって?課長から聞いたよ』

「ああ、悪い」

『別に悪くないさ。ってことは飲み会もパス?』

「そうだな。やめておくよ」

『レンちゃんさ、何かあったのか?』

「ああ、ちょっとな」

『ちょっとなって、何?何があったん。協力するよ~』

「確かに、聞いて欲しいんだけど、そう簡単な話でもなくてさ」

『あっわかった。嫁さんが浮気してたとか?』

「馬鹿!違うよ」

『レンちゃんは金には困ってないし、レンちゃん自身が浮気しているなんて俺聞いてないし、残るは嫁さん的なことしかないと思ったんだけどな』

中西はやけに勘がいい所があって、俺も言葉に詰まるときが多々ある。

『本当は、嫁さんが浮気してたんでしょ?パート先の上司とかさ』

「浮気じゃない」

『浮気じゃなきゃ何?AVにでも出てたか?』

「ふざけてる場合じゃないんだよこっちは!」

『何?本当やばそうじゃん。話聞くよ』

中西が依頼主じゃないかとも一瞬思ったが、女に困っていないが、金には困っている中西がそんなことをする理由が思いつかなかった。月曜日には、出社するから、その時話すと言って電話を切った。

金土日と3日間は、沙希の傍にいた。沙希を1人にしてはならないと思った。日曜には眼帯を取っても問題無いほど、左目の腫れは治まっていた。沙希も月曜日からはスーパーのパートに行くと言った。事件の事についてはお互い触れないようにしていた。だが俺の頭の中には、いつもあの卑猥は画像浮かび、忌々しい想像という仮想の動画が何度も再生されていた。

許さない。絶対にこの手で犯人を捕まえてやる。その思いを一層強くしていった。しかし、俺が動き出そうにも、取掛かりが掴めず、自分の無力さを感じるのもまた事実であった。唯一できたことといえば、沙希に送られてきたあのメールのアドレス控え、メールと添付ファイルを削除したくらいだった。あのメールをもう一度見せて欲しいと沙希に言った時は、一瞬沙希の顔から生気が失せたが、意図を伝えると応じてくれた。メールが削除されていることも覚悟していたが、残っていたのには驚いた。恐らく沙希も証拠はこれしかないと思っていたのだろう。だから削除することに少し躊躇っていたのかもしれない。

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