侵奪のバタフライ
慶月 雄紀
第1話 蝶襲来
最愛の妻を襲った事件。これが全ての始まりだった。
その日は、いつもなら定時後即座に退社すると間に合う電車には乗らず、どうしても欲しいCD予約の為レコード店に立ち寄った。
韓国ブームを後押しするブースを横切り、会員カードを提示して予約を済ませた。店員のスムーズな応対で意外に時間が掛からなかった。
次の列車にはまだ時間があるのを確認してから、最近オープンしたケーキ屋をのぞきに行った。妻の沙希が大好物のミルフィーユが置いてあったので、それを3つ買った。表に出ると秋が始まったばかりなのに、意外と風が冷たいと感じた。
自宅の最寄駅には、いつもより1本遅い電車でついた。駅から我が家までは歩けない距離ではないが、俺は自転車を使っていた。前カゴに、ミルフィーユの入ったピンク色の箱と、擦れた革のカバンを押し込んだ。ピンク色の箱が潰れそうだった為、カバンはハンドルに引っ掛けることにした。いつものように、自転車に跨ったところでタバコに火をつけたが、カバンの重みでバランスを崩したのと、風が強く火が着きにくいので、タバコを箱に戻した。辺りは、夕暮れから夜へ移り変わる様子で、刻々と闇が広がりつつあった。いつもより1本遅い電車に乗っていたことに気付き、少しばかりペダルを強く蹴った。
家の前の門を開け、自転車を押して軒下まで進む。いつもなら門を開ける音を聞いてこのタイミングでお帰りと玄関のドアが開くのだが、今日は沙希が顔を出さない。夕食の支度で手が離せないのかなと思いながら玄関を開けた。
「ただいま~」言い終わらない位で、靴をぬぎリビングに繋がるドアを開けた。リビングに明かりはなく、キッチンにも明かりがなかった。
「あれ?」と独り言を言い、電灯のスイッチに手をやった。カチッ リビングに明かりが灯ると、ソファーの後ろに沙希の頭が見えた。
「何してんの?」俺は隠れて脅かそうとしている沙希に、頭が見えていますよと伝える言い方をした。しかし、沙希は何も言わない。
「頭が見えてるよ?」と今度は言葉に出した。それでも沙希は何も言わない。スーツの上着を脱ぎながら、俺はソファーの後ろにまわった。
そこには、虚ろな目で俺を見上げた沙希が、全裸で座っていた。沙希の周りには、脱ぎ散らかしたという言葉そのものの衣類があった。
俺は状況を飲み込めずに、沙希の下着を見、それから視線をまた沙希に戻した。
すると虚ろだった沙希の目から大量の涙が溢れ出し、俺から視線を外すように身を伏せた。
「蓮次ごめんね・・・・うっ・・うっ・・ごめんね・・・・」そういうと声を上げて泣き出した。
「どうしたんだ、沙希!何があったんだ!」沙希の細い肩を揺さぶって問いかけた。
「・・・ごめんなさい・・・・ごめん・・・・・・・・・・」しゃくりあげながら、沙希は謝るばかりだった。
この時俺は、沙希の謝罪は、浮気をしてしまってごめんなさいの意味だと思った。
「何だよ!ごめんなさいって、誰とやったんだよ!」と俺は口調を強めた。
沙希はその言葉を聴くと同時に、もっと大きな泣き声にかわり、嗚咽を始めた。
「誰だよ!そいつは!」完全に浮気だと決めつけていた
「知らない・・・うっ・・・・」
「知らないって何だよ、シラを切るつもりか?」
沙希はブルブルと震えながら、
「だって・・・・だって・・うっ・・知らないんだもん・・・」
「知らないって何だよ!襲われたんじゃないでしょ?」
「・・・・・・・」
「おっ、襲われたのか?」
沙希は頷いているのか、震えているのか分からなかったが、何か意思表示しようとしていた。俺は、沙希の周りに散乱した衣類の中から、一番面積の広そうな服を背中に掛け、沙希の上体を起した。
沙希の顔は涙か、鼻水か唾液かも分からない糸を引きながら、俺から顔を背けようとした。
「どうしたんだよ!沙希」
ぼさぼさになった髪で表情は見えないが、数回鼻を啜ると
「・・・宅配だっていうから、玄関開けたらさ・・・知らない人が入ってきてさ・・・それでさ・・・」
またその光景を反芻してしまったのだろう。沙希は泣き始めた。
俺は、沙希が襲われ犯されたことをやっと悟った。
俺は隣で泣いている沙希の肩に手を置いたまましばらく絨毯の綻びを見ていた。頭の中では、沙希に起きた出来事を想像していた。
「けっ 警察だな・・」無意識に口から出ていた。
その言葉に意思を持たせるようにもう一度警察に連絡しようと沙希に言った。ズボンのポケットから、携帯を取り出すと、
沙希は直ぐに俺の手を掴んだ。
「やめよ、やめよ、警察とかやめよ」
「何でだよ、そいつを逮捕してもらわないと許せんでしょ!」
「嫌だ、警察とか嫌だ」
「だから何でだよ!犯罪だろうが」
「だって、色々聞かれるでしょ・・何度も同じこと聞かれるでしょ・・・」
「そうはいってもさ・・」沙希の様子を見ているとそれ程強く言うことができなかった。男には分からない恐怖というものが存在するのだと感じた。こんな時、夫がするべきこと、夫が掛けるべき言葉、そんな事ばかりを考えている自分がいた。
しばらく考えた俺は、先ずは沙希を落ち着かせることが先決だと判断した。俺はキッチンに行きお茶を入れ、寝室から沙希の着替えを持ってきた。沙希の泣き声は聞こえなくなったが、その場からは全く動かなかった。
俺がしっかりしなければと1つ息を大きく吐いて、沙希に近づいた。お茶をリビングテーブルの上に置き、部屋着を沙希に渡した。
カーテンが開いていることに気づき、さっと閉めた。長い間座っていたからか、恐怖の呪縛から解けていないのか、酷く立ち上がることが億劫な様子だった。そうして俺が身体を支えながら沙希を着替えさせた。ズボンを履こうと俺に掴まった沙希の手が、冷たく小刻みに震えていた。
ソファーまで支えると、沙希は小さな声で「ごめん、ありがとう」と言った。お茶を持たせると、俺は風呂場へ向かった。きっと暖かい湯船に入りたいだろう、汚い思いを洗い流したいだろうと思った。風呂桶の蓋を閉じると、俺はため息をついた。
沙希に優しくしなければならないという思いと、沙希は俺以外の奴とついさっきまでやっていたという怒りが、頭の中で交錯し、黒い液体のようになって身体全体を覆う感じがした。
「オユヲハリマス」という機械的な声が聞こえ俺は我にかえった。
先ずは自分がしっかりとしていないとならないと言い聞かせながら沙希のもとに戻った。
「落ち着いたら風呂に入るといい」
湯のみをもった沙希はこくりと頷いた。どの位だっただろう、暫くの沈黙が俺には数時間にも感じた。
沈黙を裂くのに、若干戸惑ったが俺は何かを前進させる思いで言葉を発した。
「で、警察にはいつ連絡する?」
「だから・・・警察には言いたくない!」やや強い口調で沙希は顔を上げた
その時、沙希の左目の上が大きく腫れ上がり、頬骨の上にも擦り傷があることに気がついた
「おい沙希大丈夫か、殴られたのか?」
聞きながら、俺は沙希の隣に移った。沙希はまた顔を下げて「少しね」と言った。
「ちょっと見せてみろよ」強引に顔を上げさせようとすると沙希は俺の手を払った。かなりの力で。
沙希は自分の胸を隠すように身を縮こませると、
「今はそういうの・・やめて」
俺には状況が分からなかったが、そういった強引なことは今はやめてほしいという意味なんだと少しあとで分かった。
「いやでも、怪我してるなら余計に警察に連絡しなきゃさ・・・それとも医者行くか?」
沙希は、ふう~と息を吐くと「ごめん、お風呂は行ってくるね」と言ってソファーから立ち上がった。
俺からの尋問を避けるように見えた。しばらく落ち着く時間を与えようと思った。
何だか遠い人になってしまったような沙希の背中を目で追っていた。
風呂場のドアが閉まる音が聞こえたあと、水のたたきつける音が聞こえてきた。俺は、帰宅途中の空腹を忘れ、家に帰ってきた時に沙希の座っていたソファーの後ろ側を見つめていた。ここでどんな愚行があったのだろう、どんな状況だったのだろう。女性が襲われるというシチュエーションのアダルトビデオが、沙希の顔に置換わって再生されている俺の頭のなか・・・その手のビデオは最終的に女性は男性を受け入れ、ともすれば、歓喜の声をあげる場合もある、沙希はどうだったのか・・
違う!違う!沙希はきっと激しく抵抗し最後まで鬼の形相で相手を睨んでいたに違いない
最後まで・・・って・・・・いや、違う、だからあんなにも酷い顔になっていたのだろう。と思う。思いたい。
沙希の身におきたことが分からない俺は、ひたすら猥褻な想像をし、それを打ち消すということを頭で行っていた。
沙希の身を案じず、そんなことばかり考えている俺は愛情の薄い人間なのかとも思った。
いつもは気にしたことのない絨毯の上に見つけた1本の縮れた毛。すぐに陰毛だと想像する。
沙希のかも、俺のかもしれない、でも、もしかしたらそいつのかもしれない。
無意識に掃除機をかけていた、どこでおこなわれたかもわからないのにリビングをくまなく掃除機をかけていた。
なかったことにしたかった。何かを元に戻したかった。一身で掃除機をかけていた。
その間に風呂場のドアの音も、沙希がソファーに座っていることにも気づかなかった。しかし、腫れた沙希の左目を見ると何も元には戻っていないことを知らされた。
意を決して俺は、警察に連絡すると沙希に告げた。
沙希も頷いた。シャワーを浴びながら少しは冷静に事態を捉えたのだろうと思った。
時刻は9時近かったが、電話から15分もすると刑事と制服警官ら8人ほど押し寄せた。俺と沙希は別々の刑事に話を聞かれた。
沙希の様子が気になって仕方なかった。沙希は正気でいられるか心配だったが、水袋を左の瞼に当てているほかは、取り乱すことなく普通に受け答えしているように見えた。
「・・・ですか?」
「あっすいません。もう1度お願いします」
「ですから、奥様はお風呂に入り、絨毯の上は掃除機をかけたのですか?」
「あっはい、そうですけど」
同じ年くらいの刑事は、苛立ったような表情を見せた
「何か」
「いや、旦那さんね、あなたのなさったことは、証拠隠滅と同じなんですよね
奥様から体液を採取するとか、室内に落ちた遺留物を採取するというのが犯人のDNAを調査する上に必要なんですけどね、 それを全て、キレイにされてから連絡をされてもですね・・・」
そうだったのか、自分の無知さを思い知る。しかし至極普通のことをしたはずだと俺は思った。
「いや、でもですね」
俺の言葉を遮るように、刑事は話した
「結構稀にあるのですが、夫婦喧嘩をして、その相手を別の人にして保険金をもらおうとする人もね」
「はっ?ちょっ、ちょっと待ってください!」
沙希から話を聞いてた刑事も、大きな声を出した俺の方を見た。沙希は俺の方を見てはいなかった。
「あくまで一例ですから、こんな時に私も不用意なことを言ってしまいました。お詫びします」
刑事と隣の制服警官は頭を下げた。そこには何の心も無さ気に。
「では、改めまして、旦那さんは何時に帰ってきたのですか?」
その空気の切替えに俺はついていけなかった。
「何時でしたか?」
「夜7時前だと思います」
「いつもその位ですか?」
「いえいつもは6時過ぎです」
「ほう、今日はどうしてお帰りが遅くなったのですか?」
何なんだ、この質問は、何の意味があるんだ。
「残業ですか?それとも何か別の用事があったのですか?」
「CDを予約しに、レコード店に寄りまして」
「どこのレコード店ですか?」
「○△市駅前のランドレコードです」
「それは何時ころですか?」
「5時40分くらいだと思います」
「その後は」
「あの~なぜ私の行動を確認しているのですか?なぜもっと犯人に心当りはないかとか、沙希は人に恨まれることはなかったかとか聞かないんですか?」
はっとして、沙希の方を見ると、今度は沙希もこっちを見ていた
「我々はあらゆる可能性を視野に入れて捜査を行いたいものですから、多少本件とは直接関係なさそうに聞こえることも、申し訳ありませんがお答え頂けたらと思います」
沙希が人に恨まれるはずないのに、不用意な大声を上げてしまい俺は何となく申し訳なさそうに、受け答えを再開した。
と、その時沙希の声は聞こえた
「そんなこと覚えていません!もう結構ですから!」
沙希は立ち上がり、2階に上がって行ってしまった。沙希から話を聞いていた刑事達が小声で話をした後、こちらに寄ってきた。
『奥様は今、精神的に不安定でしょうから、ゆっくりケアしてあげて下さい。それから目の具合が心配ですので、これからでも医者に見せた方がいいかもしれませんね』
50代くらいの刑事が残念そうな顔で話した。
『被害届をまだ書いてもらっていませんので、旦那様に渡しておきます
大よその犯人像は聞かせて頂きましたので、署員に連絡し付近の警戒を強めるように指示しておきます』
「犯人像?どんな奴だったって言っていたんですか?」
『ご主人は、奥様から聞いてないのですか?』
「というか、何があったのかすら、まともに聞けてないんですが」
『犯人は、宅配業者を装った40代の男。口ひげを蓄えた丸坊主で、背丈は小さいが、筋肉質だったようです。奥様は・・』
続けて説明することを躊躇したように区切って俺を見た。俺は続けてくれという意味で、頷いた。
『奥様が玄関を開けるやいなや、リビングまで押し戻され、何というやりとりもなく襲われたようです。激しく抵抗した際に、犯人に数回殴打されたようです。襲われている間のことを具体的にお聞きしていたところ・・・奥様が気分を害されたようで』
沙希が2階にあがって行ってしまったのは、どんなことをされたのか具体的な話を聞かれたからだったようだ。
『警察としましては、強姦致傷ということで場合によっては捜査本部を立上げたいとも思いますが、現時点では詳細が不明であり』
「現場が保存できていない為、証拠品の回収ができていませんので、一旦はこうした事案があったというまでです」
俺から話を聞いていた刑事が割って入った。
「玄関のドアからの指紋採取をしていますが、まだ明確ではありません。いずれにしても、被害者である奥様から、詳しい話が聞けて、被害届を受理した段階から方向性を検討します」
長身の刑事がそういうと、制服警官が家の中を数枚写真に納めて、御一行は去って行った。
あれだけ警察に連絡することを薦めた俺だったが、いったい何の意味はあったのだろうと自分を責めた。責めたのは、沙希にまたつらい思いをさせたのだろうという後悔だけではなく、自分が証拠を消してしまったという愚かさも含んでいた。
時刻は午後十一時なるところだった。沙希もお腹が空いただろうと思い、即席ラーメンを二つ茹でた。警察が帰ったあと沙希のところに行こうと思ったが、何だか行き難かった。鍋から上がる湯気を見つめ硬くしっかりと形のある乾麺が、熱湯によってほぐれていく様子を見つめていると、今の自分達のようにも思えた。外部からの予期せぬ進入に、寄り添っていた者同志が、ゆっくりと離れ、別の者達と意思とは別に絡み合っていく。
お盆に大きめの碗と箸、麦茶を持って二階へとあがった。寝室に入ると、沙希は窓際に立ち外を眺めていた。もしかしたら、鏡のように窓ガラスに映った自分を見ていたのかもしれない。
「お腹空いただろ。これ」
『ごめんね蓮次。私耐えられなくって』
「いや俺こそ、ごめん。つい声を荒げてしまってさ」
『だから嫌だっていったの。でも本当ごめんね』
「いいよ、もう。謝らなくて・・っていうか俺掃除機かけたり、沙希に風呂を薦めたりしたろ、あれって、証拠隠滅になるんだってさ。知らなかった・・マジでごめん」
『ううん。私もそうしたかったし、仕方ないよ』
「あっ、目の具合はどう?」
『まだ腫れてるけど、視力は普通だし、さっきより痛みもひいたから、暫く冷やしてれば大丈夫だと思う』
「そっか・・あっラーメン食べるか?伸びちゃうし」
『うん、ありがと、そこに置いておいて』
沙希は、俺が帰宅してから初めてうっすらと笑みを浮かべたたように見えた。だが、ラーメンに手を伸ばすつもりは無さそうだった。
そんな中俺だけ麺をすする音を部屋に響かせるのも不謹慎かと思い、沙希の分だけ寝室の小さなテーブルの上において、部屋を出た。
部屋から出がけに、明日病院へ行こうといったが、沙希は答えなかった。
キッチンに戻ると、自分のラーメンをテーブルの上に置き、ため息をついてから、玄関を出た。軒下の小さなベンチに腰を下ろすと、タバコに火を付けた。紫煙の動きから、今は風が無さそうだ。
<ゆっくりケアしてあげて下さい>
刑事の言った言葉が頭に残っている。ケアって。どうやってケアすればいいんだよ。大体、おれ自身も感情を何処に向かわせていいのか分からないのに、ケアって。
いつもより、深く紫煙を吐いた。俺にしては暫くぶりのタバコに喉の奥に強い苦味を感じた。
・・・・っていうか、一体沙希を襲ったのは誰なんだ?・・・
・・・・また同じことが起きる可能性は無いのか?・・・
なぜか、ずっと考えなかったこの疑問が、頭に浮かんだ。そう考えると、目の前にある深夜の道から、視線を感じる気がして、その場にたたずむことに恐怖を感じ、素早くタバコを揉み消すと家に戻った。
冷えて伸びきったラーメンを口に運びながら、もう一度考えた。一体誰が沙希を襲ったのか。だが、全く思いあたらず、考えることが無駄とさえ思えた。とはいえ今の状況で、沙希に根掘り葉掘り聞くことも無理だと判断すると、ラーメンを貪っている自分がいた。
そんな時、2階から「ガタンッ」と大きな音がした
俺は慌てて2階に駆け上がり、寝室のドアを開けた。ベッドの横に倒れこんでいる沙希が目に飛び込んだ。
「沙希!」
身体を揺すりながら、声をかける。呼吸はあるが、反応がない。全身の力が抜けてしまっている沙希の顔色は、唇まで真っ青になっていた。
俺は、救急車を呼び救急車を待つ間、沙希にガウンを着せ、声をかけ続けた。時折、んんっと声を漏らすものの、目は開けなかった。
5分ほどで、サイレンが聞こえ、白衣の隊員達が来た。隊員は、簡単に意識レベルを確認すると、病院に運ぶといって沙希を担架に乗せた。
状況は、車内で聞くと言われ、俺も救急車に飛び乗った。沙希に呼吸器と装着すると、一人の隊員が口を開いた。
『奥様は、倒れる前に何か気分が悪いなど、ご主人に話ましたか?』
「あっ・・ええ・・」
俺は、救急車を呼んだはいいが迷った。襲われたことを伝えるべきか、沙希はそれを望むのかと。・
『この目のキズは、倒れた時に打ったとは思えないのですが?何かにぶつかりましたか?』
「えっと・・・それは・・あの・・」
言葉を選んでいると、隊員は、もう一人の運転している隊員と小声で話をしてから
『旦那さま、申し訳ありませんが、事件性がありそうなので、警察の方にも連絡させてもらいます』と、きっぱり言った。
「違います、実は妻は・・今日・・妻は・・襲われたらしく、先ほど警察にも連絡したところなんです」
『襲われた?・・ですか』
「はい」
また隊員は、運転席と話をすると向き直り
『申し訳ありませんが、確認の為、警察には連絡をさせてもらいます。ではこの目のキズは、その時にできたものということですね?』
「だと思います。連絡はしてもらっても良いですが、事情聴取の最中に切り上げてもらったので、その~何というか、警察はきちんと話が通じるかは・・ちょっと 不安です」
隊員は、的を得ない話をする俺にますます疑念を抱いた様子だった。
10分ほどで、県立総合病院に到着した。病院でも、車内と同じようなやりとりをし、疑わしい目で見られた。待合室にいると、2人の男が会釈をしながら近づいてきた。
『先ほどはどうも。奥さんの容態はどうですか?』
4時間くらい前に、沙希から事情聴取をしていた、50代くらいの刑事と、長身の刑事であった。
『やっぱり、あの時奥さんには病院に行ってもらえばよかったと後悔してたんですよ。あの後、何か奥様とお話はされましたか?」
「いえ、特にこれといった話は」
すると、長身の刑事は、50代の刑事に向かってナースステーションの方を指さし、そっちへと向かった。一人になった50代の刑事は、林田であると名乗り、私の隣に腰を下ろした。
『ご主人。はっきり言いますが、我々は、DV、つまり家庭内暴力ではないかと思っています」
「えっ!なんで?」
「すみません、現段階では物的及び状況証拠が乏しく、お2人からのお話しも殆ど聞けていません。 受け取り方によっては、夫の暴力を奥様が隠しているともとれるのですよ」
「ですから、通報したのは私ですよ?」苛立つ俺には反論をさせずに
『実際のところはどうなのでしょうか?正直に話して頂けませんか?家庭内でのことですから、奥様が被害届を出さなければ今回は厳重注意ということにしても構いませんが』
「ふざけるな!!」夜中の静かな病院に、俺の声が響いた。ナースステーションの看護婦もこちらの様子を伺っている。
『ご主人、落ち着いて下さい。さっきも言いましたが、現状からそういう可能性ともとれるという意味です。事件にして、保険金を受け取るという手口がここのところ急増していまして、そういった事案にあまりにも酷似しているものですから』
「我々は被害者なのですよ!慰めの言葉は受けても、疑われることは何にもないです!早く犯人を捕まえて下さい!」
『わかりました。ご主人落ち着いて下さい。今は奥様の容態の方が大事ですから、また改めましょう』
そう言って、林田は立ち上がった。タイミングを合わせたように長身の刑事が歩みより、耳打ちしながら離れていった。
『岡部さん、大丈夫ですか?』 看護士が歩みよってきた。
「はい、あっすみません。大きな声をあげて」軽く頭を下げた。
『先生からお話しがありますのでこちらへ』と案内された。まだ若い医師が座っている部屋に案内された。
「妻の具合はどうですか?」
『まあかけて下さい。奥様の容態は現在安定しています。精神的なストレスで貧血を起しただけだと思います。
今夜は、大事をとってこのまま休んで頂いて、様子を見て明日帰宅してもらっても大丈夫だと思います。ただ、左目の腫れは
打撲ですが腫れが引かないようならまた見せて下さい』
「今、妻のところに行ってもいいのですか?」
『いや、今安定剤を投与してもう休まれていますし、今日はもう遅いですからご主人はお引取り下さい』
沙希の精神的ストレスは、あなたが原因なので、今日は帰って下さいと俺には聞こえた。費用の説明などを看護士がしていたが、あまり覚えていない。
タクシーで家に着くと、午前2時だったが、眠気はまるでなかった。
〈〈落ち着いたか?眠れそうか?医者に帰れと言われたから、先に帰ってきた。ごめんね。朝行くから、ゆっくり休んでね〉〉
沙希の携帯にメールを打った。だが、メールの受信音は、キッチンのテーブルの上で響いた。
昨日までの平穏を、自分達の意思とは無関係に掻き乱され、沙希との間を強引に引き裂かれた感じがした。
しかも、まるで自分の暴力で沙希が酷い目にあっているかの如く扱われ・・
気づくと、午前4時を回っていた。朝刊を配達するバイクの音が聞こえた。
ダイニングテーブルの上に無造作に置かれた土産のミルフィーユの箱を見つめ、家の中では吸わないと決めていたタバコを何本も吸い、俺は朝日を迎えた。
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