メカニックの姉友 2

 理子姉の仕事場である事務所の私室を探し回るが、そこになぎささんの痕跡を見ることはほとんどできなかった。文字通りあの人は理子姉の影に徹していて、自分がそこにいた跡をほとんど残さない。強いて言うなら部屋の中にコーヒーを飲んだカップが二つ置いてあるくらいで、自分の観察力ではそれ以上を見つけることができなかった。

 理子姉の写真がコルクボードで飾られているものは見つけた。でもそこに映っているのは理子姉だけだ。この部屋における主役の影でなぎささんは息を潜めている。


「失礼します、将さん」

「やー、終わった終わった、将君、お部屋どう?」

「びっくりしてる。家と全然違うから……」

「あはは、そうだよね。家だと楽器以外あんまり置いてないから」

「仕事のことは全部ここで済ませてるんですよ」

「ね。本当に凄い……」


 なぎささんは理子姉より一歩後ろへ引いた所に立っている。それが全てを表しているようだった。この場における彼女の存在意義が滲み出ている。


「そうそう、この後に編曲やってくるんだけど、その間なぎさちゃんお話でもしてる?」

「大丈夫ですか? とは言っても、いつも私は後ろに座ってるだけですけど……」

「いやぁね、私がぼやいてることをメモしてくれてたりね、本当に嬉しいんだけど、今日は将君が来てるじゃん。久しぶりに二人で水入らずの会話してみた方が良いと思うなぁ」


 理子姉はそれはそれは意味ありげな口調で視線を逸らしながら説得しにかかっている。ああ、これ帰ったら絶対にしばらく離してもらえない展開だ……


「あ、いい感じの思いついたから行ってくるね。じゃあまた!」

「理子さん……あー、行っちゃいました」

「帰ったら何をされるんだ……」

「将さん、大丈夫ですか? ちょっと顔が青いですよ」


 張り付いたような理子姉の笑顔を想像して硬くなっていた俺を見て、なぎささんは下から覗き込むようにしてこちらに顔を近づけてきた。スーツの襟元からほのかに甘い香りが漂ってきて瞼がわずかに落ちる。


「や、大丈夫です」

「そうですか……んー、とりあえず座っててください。お茶持ってきますね」

「すいません、迷惑かけます」

「いいんですよ。今日はお客さんで来てるんですし」


 なぎささんはくるりと背を向けると部屋を出て行った。しばらくして、二人分のグラスとお茶を持って彼女が戻って来る。その表情にはやや疲れている様子が見えた。


「はぁ……」

「どうしたんですか?」

「受付の子にからかわれたんですよ。部屋で二人きりになるの知ってて」

「あーっ、でも理子姉のブラコン癖もみんな知ってますよね?」

「そうなんですけど、周りは私と理子さんで取り合いになっても面白いよねって考えてるみたいで。取り合いって言うのも変ですが……」

「あはは……」


 取り合いか……理子姉となぎささんの2人だけならまだ良かったんだけどなぁ。


「――今日、会いに来てくれるって聞いて、安心しました。疑ってたわけじゃないんですが、将さんが今でも私のことをちゃんと好きでいてくれるのが嬉しかったんです」

「そりゃ勿論、好き……ですよ。むしろ俺が迷惑かけてるんじゃないかって怖がってたくらいですから」

「迷惑だなんて、そんなことないですよ」


 差し出されたグラスの中の冷たいお茶を一口飲む。テーブルの向かいでなぎささんもそうしていた。氷も入っているのに、どこかあたたかい。


「あの、将さん」


 腰を上げたなぎささんが隣に席を変えた。

 少しばかり間をおいて、彼女の雪のように白い頬が赤く変わる。


「理子さんが戻って来るまではまだかかります。だから」

「あ……」

「今の内に、やること、やっちゃいませんか」


 優しく、腰の辺りを触れられた感覚が走った。そこから距離が詰まるのは一瞬で、気が付けば脚も身体もぴたりとくっつけるようになぎささんは寄りかかっていた。仕事姿でありながらも漂う女性の色気にほだされていると向こうから熱い吐息を口元へゆっくりかけられる。

 鼻先が当たるのではないか、というくらいの至近距離。でもキスをするのはなんだかもったいない。もっとこのギリギリの距離感を楽しんでいたい……


「将さん、しちゃって、いいですよね?」

「ああ、ちょっと待ってください」

「ん……?」


 なぎささんをそっと引き寄せ、先程思いついたことを彼女の耳元で囁きかけた。


「ちょっと面白いゲームを思いつきました。キスしたら負け、って奴なんですけど」

「え……なんで、そんな意地悪するんですか……」

「ごめんなさい、なぎささんを見てたら、つい」

「んーっ……」


 鬼灯のように赤い顔のまま、熱を逃がすようになぎささんは切ない息を漏らす。寸止めを食らっている姿にいつもの余裕はない。真面目の皮を被っているなぎささんがここまで正直になっているのも珍しく、気を抜けばこちらから抱き締めてしまいたくなる。

 一度抱いてしまえば、あとは口づけまで一直線。多分、自分でも抑えられない。


「駄目、ですよ。ずっと我慢してたんです。これ以上焦らされたら、変に、なっちゃいます……♡」

「なぎささん、とってもかわいいですよ。食べちゃいたくなるくらい」

「食べてくださいっ♡ 早く食べて、負けてくださいっ……♡」


 小さく、誘惑するようにかけられるなぎささんの言葉。

 自身を魅力的に、蠱惑的に見せようとするそれら一つ一つが耳をくすぐっていく。


「待ってたんですっ、将さんと、こうして会うの」

「俺も、なぎささんと会えるの、楽しみで」

「私のこと、好きに、してください……!」


 両肩を力強く握られる。ずいと迫ってきたなぎささんだが、寸前のところで顔を蕩けさせて自制しているようだった。徐々にこちらの身体は押されていき、ソファの手すりに腰掛けるように二人で身体を傾ける。


「将さんのやりたいように、いやらしく、ぐちゃぐちゃに……」


 目の前で目を潤ませる彼女に手を伸ばしかけたその時、カチャリ、と部屋のドアが微かに開く。恐る恐る視線を横に向けるとそこには見たことのある姉の目が二つ光っていて……


「あっ」


 そこにいた理子姉は、どうしたらいいか分からない様子で口をぱくぱくさせていた。それから数秒程の空白を置いて、なぎささんの息がこちらの顔にもう一度かかる。


「……負け、ちゃいました♡」


 目が合うか合わないかで唇を奪われ、散々焦らされていたなぎささんからの愛をいっぺんに受け止める羽目になってしまった。舌で口の中を気持ちよくされる度に周りのことがどんどんかすんでいって、理子姉が見ているのも忘れそうになる……


「え、なぎさちゃん、えっ……?」

「んっ♡ 将さん、好きですっ♡ ん♡ 好きっ♡」


 ちゅっ、ちゅ、ちゅ……きっとなぎささんも分かってはいるのだろう。それでも彼女は他のことが見えなくなるくらいに愛してくる。甘ったるくてねばついたものを流されるだけで俺も周りのことが分からなくなってきて……・


「なぎさちゃん、ちょっと、待って、ちょっと」

「好きっ……好きぃ……♡」


 あとから理子姉に怒られるのはなんとなくわかってはいるけど、それでも、目の前のなぎささんの魅了から逃げることはできなかった……

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