新緑と瑠璃と姉 2

 理子姉からの提案から数日後、登山の日はやって来た。日が上らない内から理子姉と二人で車に乗ってPVの収録現場に向かう。

 辿り着いたのはまだ青々とした中に霧が立ち込めている大きなダムだった。高い所にある為か少し肌寒く、山用に少々厚めの服を着て良かったと思える程だ。姉さんが収録をしている間に部外者である俺は車の中で本を読んで待っていることになり、一人でそうしていると外から窓ガラスをこんこん叩く音がする。

 サイドテールが美しい、スーツ姿の女性。なぎささんだった。


「なぎささん」

「お久しぶりです、将さん」


 水色のスーツに身を包んでいたなぎささんは、こちらが一目見るだけで彼女が「大人」の女性だと分からされてしまう。その上彼女の顔立ちは本当に綺麗だから、一度目が合えば離すことなんて出来なくて……


「えっと、将さん、よろしいですか」

「あっ、はい、なんでしょうか」

「撮影の間、私も暇なので少しご一緒出来ますでしょうか? 勿論理子さんには話は通してます」


 彼女からの提案を断る理由はなかった。黙ってなら理子姉には悪い気がするけれど、姉さんに話を通してるならいいだろう。



 理子姉と来ていたはずなのになぎささんと一緒にいるのは何だか変な気持ちだった。勿論彼女は隣にいるだけで気が抜けてしまう程に魅力的な人だが、やはり理子姉と約束が今の自分にとって大きく、いつものようになぎささんのことしか考えられなくなるようなことはなかった。

 ぼんやりとした深い青の中、下方にあるダムの様子を見下ろすようになぎささんと二人で駐車場に並ぶ。アーチ状に造られたコンクリートの巨壁の上に理子姉やカメラマン、監督たちが集まっており、そこでもうすぐ撮影が始まる様子だった。


「マネージャーってあんまりお仕事ないんですか? 芸能界だとそう言う人は物凄く忙しいって話をテレビなどで聞きますけど」

「基本的には歌手活動に専念しているので、テレビなどでお仕事がすし詰めってことは無いですね。多分それは将さんも知っていると思います。理子さんはしっかりしてるから私のやる部分は多くは無くて……」


 言われてみればそうである。生活の大体は家にいるから、理子姉のマネージャーであるなぎささんの仕事も予想以上に多くはないのだろう。


「仕事の間はしっかり真面目にやってますけど、休憩時間はずっと将さんのことばかり話してますよ。私以外にも、番組の共演者や演奏家で仲のいい方とか」

「えぇ……? それ、大丈夫なんですか?」

「世間のイメージの通り、楽屋ではすっかりブラコンで通ってますよ。本当に裏表なくて、キャラを作ってる人たちもいるこの世界では珍しいタイプです」


 知らないうちに自分の事を話されて少しくすぐったいような気持ちになっていた。だけど、それだけ理子姉がこちらを想ってくれているという事でもある。時と場所を選ばないのが玉に瑕だけど。

 そんなことを聞いていると、ふとある疑問が湧いてくる。それは昔からぼんやり抱いていた物で、なかなか聞くに聞けない大事なことだった。


「なぎささん、理子姉のことで尋ねたいんですけど」

「どうしましたか?」

「理子姉は、どうして俺のことがそんなに好きなんですか?」


 それを尋ねると、なぎささんは口元に手を当ててくすくすと笑ってきた。どういうことか分からずに動揺していると、彼女はこちらへ視線を向けて甘い笑みを浮かべる。


「理子さんがどう思ってるかは知らないですけど、思い当たる節なら」

「それは……っ」

「将さんは、自分より背の高い女性の前だと弱弱しくなっちゃうんです」


 その言葉を聞いてドキリとしてしまった自分に気付く。

 百合姉や千秋さん、理子姉になぎささん……た、たしかに、そんな気がする。


「私は少しヒールで誤魔化してますけど……これでも、いいでしょう?」

「は、はいっ」

「そうやって貧弱になった姿が可愛くて、守ってあげたくて。私はそう思います」


 なぎささんに言われた通り、さっきから自分は美香姉や愛理姉、希さんと一緒にいる時とはまた違う性格になってしまっていた。ひょっとしてこれは俺が「弟」だから、身長と言う分かりやすい所でお姉ちゃんであることをアピールされてこうなっているのでは……!?


「あ、向こうで動きがあったみたいですね。私はこれで失礼します」

「はい、行ってらっしゃい……」


 かつかつとヒールを進ませるなぎささんの背中を俺はぼんやりと見守っていた。

 理子姉につい甘えてしまう理由は、もしかして、これが関係しているのか?



 登山道のすぐ近くを清流が流れている。

 理子姉と二人で上り始めてから約一時間、予定していた休憩地点である小さな河原に辿り着いた。場所も幾分か開けており、先程まで木々で覆われていた上方が開けてそこからは空が見えている。晴れ渡った青空だった。


「ふいーっ、大分歩いたね……」

「中間地点だっけ。少し休んだらもう一息だな」


 少し大きめのごつごつとした岩に理子姉と二人で腰掛ける。何分、岩が小さいものだから自然と彼女と密着してしまっていた。身体のラインが見えないレインスーツ越しでも理子姉に触れていると暖かく幸せな気持ちになる。

 スポーツドリンクの入ったペットボトルに口をつけていると、隣にいた姉さんが突然それをひょいと奪い取って一口飲んでしまった。


「ごめんね、突然間接キスしたくなっちゃって」

「あっ……そ、そうなんだ」

「はい、ちゃんと返すから。将君もお姉ちゃんと間接キスしていいんだよ?」


 その一言を聞いただけで頭の中がぐらぐらと重く、おかしくなっていく。

 ゆっくりと口をつけて飲むと、さっきよりもほのかに甘い味がした。


「姉弟で間接キス、しちゃったね」

「うん……」

「あーもう、将君は本当に可愛いなぁ……♡」


 遠慮と言う言葉を知らないように横から腕を回されて抱き締められる。ぴったりとくっついているだけで頭の中をとろとろに溶かされて、理子姉の事しか考えられなくなって……


「理子姉、好き……」

「んーっ、お姉ちゃんも将君の事が大好きだよ……」


 心地よい大自然の下で、好きな人の腕の中に収まる幸せ。二人でこのまま何時間でもいられそうな空気だったが、突然理子姉のスマートフォンに通知が入り、びくりと震えた俺たちは立ち上がるようにして慌てて離れてしまう。


「だ、誰だろう……あ、なぎさちゃん」


 少しだけ表情を硬くして理子姉が電話に出る。

 向こうからの会話は聞こえてないが、何かを聞いた理子姉がぽんと顔を赤くした。


「ま、まだそんなことしてないよ!」

(何を話してるんだ……?)

「えっと、あっ、違うの、お願い待ってなぎさちゃん……切られちゃった」


 短い電話だった。しょんぼりとした理子姉の姿はさっきまでの「お姉ちゃん」のそれとは違い、ひどく恥ずかしそうに俯きながら上目づかいでこちらの様子を窺ってくる。


「山の中でえっちしちゃ駄目だって、怒られちゃった」

「えぇ……」

「誰か来るかもしれないけど……」


 じんわりとした暖かみのある目を向けられ、さっきまでそう言う話をしていたこともあってか妙に心の中がざわつき始める。


「お外で、しちゃう? お姉ちゃんは大丈夫だよ……?」


 ひょろひょろと細い声で、理子姉がいけない提案を持ちかけてきた。

 それだけで心の奥がきゅっと締められた気分になって、息をするのが辛くなる……


「あ、あはは、何言ってるんだろ私。ほら、休憩終わり!」

「あっ、う、うん、そうだね」

「よーし、い、一緒に後半戦頑張ろー!」


 二人慌てたように、また緩やかな上り坂へ一緒に足を踏み入れる。頭の中から煩悩を払う為に歩く事へ集中しているのがお互い馬鹿らしく感じていたのか、山を登りながら姉弟で一緒にクスクス笑うのだった。

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