新緑と瑠璃と姉 1(理子姉)

 どこかへ引っ掛かっていた意識が戻って来た。

 少し痛む頭を後ろへ預けつつ瞼を開くと、車のフロントガラス越しに白い光がこちらへ差し込んで来ていた。一定のリズムを刻みながらかたん、と揺れる中で、しばらく前に姉さんと車に乗って遠出していたことを思い出す。


「あ、ごめん、寝てた」

「大丈夫だよ。この後いっぱい動くからまだ休んでて」


 運転席でガムを噛みながら運転しているのは白のレインスーツに身を包んだ理子姉だ。鮮やかな青色をしたつばの大きな帽子が今日は印象的で、普段の外出とは雰囲気が違う。

 右も左も森に囲まれた中を理子姉と二人で車に乗って真っすぐと進んでいた。最初は多かった車通りも随分と減り、今はもう付近は彼女の車しか走っていない。そのような辺鄙な場所を訪れていた理由はもうすぐ見える。目が覚めてから車の中で軽く肩を解していると、古くなって黒ずんだ木の看板に「登山道入り口」という文字が書いてあるのが見えた。付近は申し訳程度に車を何台か止められるように整備されている。


「あったあった……あそこにあるのはトイレ小屋かな?」

「凄い所にあるな」

「都会の整備された山とは全然違う場所だからね」


 理子姉が「二人で山登りしたい」と言ったのは先日の事だった。

 しかも、既に名所化している有名どころの山ではなく、これこのように整備されていない外れた場所にある山。マイナーもいい所だが、トイレ小屋があるだけまだ良い方らしい。


 車を停め、山用の靴に履き替えた後に小屋できちんと用を済ませる。

 そして必要な荷物を持って登山道に差し掛かる入り口に二人で並んだ。水分補給用のペットボトル数本、道中で食べるお菓子、どこかで食べるご飯用のお弁当に、何かあった時に使う非常用の食料と道具――それらのせいで背中に背負っているザックはやや重い。


「……理子姉、本当にここでいいの?」

「うん、多分大丈夫なはず。山登りが好きな友人に聞いた場所だから……」


 白のレインスーツに明るい青の帽子、そして黒の登山用ザック。山に入る際の重装備も理子姉が身に纏えばカジュアルなファッションに変わり、一見して運転の疲れを感じさせない美しい立ち姿に目を奪われてしまう。

 彼女自身も不安そうな表情を浮かべていたが、理子姉となら何があっても大丈夫なような不思議な自信が沸いてきていた。過酷な自然の中でも姉さんとなら何だって出来る……


「よしっ、出発しよっか」

「うん」


 準備体操を済ませ、登山道へ続く道へ足を踏み出した。

 道端から伸びた鬱蒼とした細い道を歩き、奥にある木製の階段を上る。その先は右も左も木に覆われた場所で空の様子さえも見えない。一人だったら不安になるような場所だ。

 緩やかな上り坂が続く森。ここまで来たらコンクリートは一かけらも無い。一般的な山登りで期待出来るようないい景色と言った物は無いが、その代わりに何処を見回しても緑一色で空気も澄んでいる。


「将君、飛ばし過ぎちゃ駄目だよ」

「分かってる」


 後ろをゆっくりついて来ていた理子姉が忠告のように言う。振り返れば、こちらが歩くペースが若干速かったのだろうか、やや大変そうな顔をしていた。理子姉は車も運転していたのだ。その辺りはしっかり考えなければいけない。しかし、分かっていてもついうっかり飛ばし過ぎてしまう事もある。どうしたらいいかと考えていると妙案を思いついた。


「……理子姉、手、繋がないか?」

「いいの?」


 何気なく尋ねたはずなのに、彼女から即座に確認の返事が返ってきて驚かされる。目がきらきらと輝いていて、さっきまで辛そうに見えていたのが別人のようだ。それにこくりと頷き返すと、すぐに俺の右手は理子姉の左手に絡め取られてしまった。すぐ隣に姉さんを感じながら、もっと一緒にいたいと歩くスピードも落ちる。山を登るにはこれくらいでちょうどいい。


「やった、弟成分補給……っ」

「お、おう」

「将君もお姉ちゃん成分いっぱい補給していいからね?」


 理子姉の発言に少し恥ずかしい気持ちになりながらも、直に触れ合っている手の暖かく滑らかな感触に心が躍る。姉さんたちと一緒に住むようになってからしばらくが経つけど、今でも理子姉の隣に立っているだけでドキドキしていた。

 土を踏みしめる音、野鳥の高い鳴き声、風で揺れる葉音、そしてそれに混じる理子姉の息が漏れる音……隣だと彼女の声がかき消されることなく聞こえてきて、息の乱れ方に色気を覚えてしまう。


「んっ……はぁ、ぁっ……」


 繋がれていた彼女の手から力が籠もり、優しく緩やかに締め付けられていく。

 たまらず姉さんの顔を見ようと顔を上げたら、彼女もまたこちらを慈悲に満ちた目で見つめてくれていた。二人で別世界に迷い込んでしまった錯覚のせいで、頭の中が理子姉の事でいっぱいになっていく――


「将君?」

「あ……」


 気が付いたら理子姉の腕にぴたりと顔を摺り寄せてしまっていた。こうしているだけでとても安心出来て、もっと甘えたいという気持ちが強くなっていく。


「理子姉……しばらく、こうしてていい?」

「しょうがないなぁ」


 少しだけ歩き辛い体勢だけど、それでも姉さんは頭をそっと撫でてくれた。

 にっこりと微笑んでくれている彼女の前ではやはり「弟」になってしまう……



 そもそも、何故こんなことになっているのか。それは某日の夜に遡る。


 ご飯の時間だと理子姉を呼びに彼女の部屋まで向かった時の事。ノックして返事をもらったのでドアを開けると、ふわふわして高そうな椅子に座っていた理子姉がマウス片手に液晶をじっと覗き込んでいた。

 何を見ているのかと思って後ろから窺うと画面に映っているのは緑色が眩しい春の山々の写真。サイト上部の他のタブの名前を見るとそこには通販サイトの名前が何個か並んでいて、何かの準備をしているようにも見て取れる。


「理子姉、そろそろご飯だよ」

「あ、うん……ねえ、将君。これ良いと思わない?」


 そう言って彼女が映し出しているページを下にスクロールしていく。どうやら、今姉さんが見ているのはある登山家のブログらしい。理子姉が記事の中のとある地名を強調し、椅子ごとくるりと回ってこちらの顔を覗き込んできた。


「次のアルバムのPV撮影がこの山の辺りであるんだけど……将君さえ良かったら、その帰りとか一緒に行かない? 確か大学なかったでしょ?」

「理子姉となら行きたい……でも大丈夫? 姉さんに相当負担掛かるんじゃ」

「私は将君と一緒だったら大丈夫。歌手は体力ないとやってられないのです」


 自慢げに言う理子姉はここ最近で一番と言ってもいい程の笑顔になっていた。

 俺のことが絡むといつもそうだ。それがなんだか嬉しいし、こそばゆい。


「でも、私となら行きたいって、お姉ちゃん嬉しいなぁ」

「あ、それはあんまり深い意味は無くて、その」

「あはは、顔赤くなってるよ、将君」


 言い訳がましいが、あれはつい咄嗟に出た一言だった。よくよく考えてみれば自分で言ってて恥ずかしい。でも、理子姉の前だったらこんなことを平気で言ってしまうから自分で自分が怖くなる。

 今、理子姉が着ているのは紺色のタートルネックと明るめのジーンズだ。もしかしたらそのせいで、普段よりも理子姉に「お姉ちゃん」を見出してしまっていて、自分が子供っぽくなっているのかも……


「そんな将君が、私は大好きですっ」

「わっ」


 立ち上がった理子姉にそのまま抱きしめられ、彼女の細くしなやかな身体と密着してしまった。腕から伝わってくる「大好き」の過剰摂取で頭がおかしくなる……!


「理子姉……っ」

「よしよし、ちゃんとお姉ちゃんの事ぎゅっと出来たね。偉い偉い」


 そのまま顔を落とし、理子姉の胸に溺れていく。柔らかくて暖かい生地越しの感覚でまた幸せになって、姉さん無しじゃ生きていけないような貧弱な人に作り替えられていく。こんなのを体験してしまったらもう、一人では何も出来ない……!


「りこねえ……」

「ありゃ、ぐったりしちゃった。しょうがないなぁ、お姉ちゃんが連れてってあげる」


 まだぎゅっとしたままの俺はひょいと担がれ、そのまま愛理姉たちのいる居間まで運ばれる。そこにいた姉さんたちにはびっくりされたけど理子姉が悪いんだ……お姉ちゃんのせいでこんなにおかしくなっちゃったんだ……

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